「あの……」
「なんだ?」
「どうして私も走らされているのでしょうか」
南とヴィシュヌは、薄暗くなったグラウンドを並んで走っていた。
千冬を怒らせた南の巻き添えを食う形で走らされているヴィシュヌは、荒い息を整えながら文句を漏らす。
「どうしてって……抗議しに行くか?」
「今更ですね」
小さく笑うヴィシュヌに、南は何かを思い出したように手を叩いた。
「そうだ。昨日、一夏とほとんど話してなかったが、今日はどうだった」
「今日も話せていませんが、焦る必要もないので、またの機会にしておきます。それに、彼のIS『白式』には大変興味がありましたが、今は……」
ヴィシュヌは、一筋垂れた汗を拭って、南を見つめた。
上気した頬と、漏れる吐息が、薄暗いグラウンドでは一層、魅力的に見える。
「今は?」
「あなたの方が興味深いです」
「そうか……」
昨日までの彼女と、どこか違う笑みに、南は誤魔化すように言葉を探した。
「確か、今日はのほほんさんが生徒会の仕事でいないはずだから、食堂にいるだろうし、またの機会はこの後すぐに来るだろう」
「では、食事しながら色々と訊ねたいと思います」
「ああ……もう緊張しないか? 話が持ちそうになかったら、食事はドライブスルーにすればいい」
「は?」
「いや、ドライブスルーなら、すぐに食べ終え―――いや、もういい」
真顔で聞き返してくるヴィシュヌに、南は説明しようとしたが諦めた。
時刻は夜の六時になり、グラウンドを五十周を回った所で南は足を止めた。
遅れてヴィシュヌも立ち止まる。
「よし、上がるぞ。これくらいやってれば十分だろ」
そう言って、更衣室の方へ引き上げようとする。
すると、ヴィシュヌがその手を掴んだ。
「ん?」
「走り終えた後は、ストレッチをしないと明日に響きますよ」
真剣に訴える視線が眩しくて、南はつい目を逸らしながら頷いた。
「そ、そうだな」
そのまま芝生の方へ行き、座り込む。
「っと……」
ヴィシュヌは身体をグッと倒し、芝生に付ける。
「おいおい、痛くないのか」
適当に足を伸ばした南は、引き攣った表情で言った。
南の痛々しそうな顔に、ヴィシュヌは小さく笑う。
「ヨガのポーズはもっとすごいですよ……その、こっちを押してみてください」
ヴィシュヌは少しだけ緊張気味に指をさすと、南はゆっくりと背後に移動し、彼女の言う所を優しく押した。
初めはあまり力を入れないようにしたが、南の力を待たずにグイグイと身体を伸ばすヴィシュヌ。
「痛い痛い。見てるだけで痛い。やめとけって」
「ふふ、こんなの大したことありません。まだまだいけますよ?」
「いくなって、怖いって、折れるって」
「もう、それでも私を倒した実力の持ち主なんですか? これでも、タイにいた時は、同年代に負けたことなんて、ほとんどなかったなんですよ?」
身体を起こしながら、拗ねたように言うヴィシュヌに、南は手を離した。
「お前も代表候補生だからな。そんなに負けたことはないだろうが、世界は広いってことだ」
「まさか、IS学園での初陣でやられるとは思いませんでした……」
「順風満帆な人生なんて楽しくないだろ?」
「私を倒したあなたに言われると腹が立ちます」
ヴィシュヌはムッとすると、素早く南の背後に回り込んだ。
彼の足を、先程までの自分と同じような形にし、背中を押す。
「おい、ちょっと―――」
「いきますよ……」
「だからいくな、やめ……痛い痛い痛い、もっとゆっくりっ」
「ダメです。もっと柔らかくしてください」
ヴィシュヌがこの学園に来て一番の笑みは、どこか子供っぽい無邪気なものだったが、南がその表情を拝むことはできなかった。
ヴィシュヌによるストレッチという名の攻撃を受けた南は、更衣室でシャワーを軽く浴び、アリーナの前で彼女と合流。
そのままの足で、食堂の方へ歩き出していた。
その道中で、校舎に向かう一夏の姿を見つけた。
かなり距離は離れていたが、一夏も南達に気付いたらしく、大きく手を振った。
「おーーい! もう、終わったのかー!?」
夜のIS学園に一夏の声が響いた。
南はため息をついて、腹に力を入れる。
「はぁ、何でこの距離で話すんだ……ああ、終わったー! お前は、どこ行くんだ!」
「ほんちゃんの手伝い! 生徒会室で泊りになると思う!」
「分かったー!」
そんなやり取りを隣で聞いていたヴィシュヌは、どこからそんな声が、と驚いている。
一夏は、南の返事に満足すると、再び校舎の方へ歩き出したが、二歩ほどで、再び南の方を向いた。
「生徒会室に泊まること、千冬姉に言った方がいいかなー!?」
「その声が聞こえてるかもなっ!」
南が大声で返すと、一夏は高らかに笑って校舎に消えた。
「疲れた……」
「お、お疲れ様です」
困惑した様子のヴィシュヌに、南は少しだけ慌てて振り返った。
「すまん、五月蠅かったな」
「いえ、気にしないでください……」
「今ので食欲がなくなったし、大声出したから、頭が痛い……」
再び食堂の方に歩き出した二人だったが、南がそう言って肩を落とす。
「でも、何かは食べておいた方がいいですよ」
「そうだな、箸が何をする道具なのか忘れないうちに何か食べよう」
南は、欠伸をしながらポケットに手を入れた。
隣を歩くヴィシュヌは、小さく笑って後に続く。
翌朝。
一夏に起こされることもなく、たっぷりと睡眠を取った南は、上機嫌で部屋を出た。
急かされながら食堂に行く必要もなく、鍵をクルクルと回しながら上機嫌に歩き始める。
すると、隣の部屋の扉が開き、中からヴィシュヌが出てきた。
「あ、おはようございます」
「おう」
ペコリと頭を下げたヴィシュヌに、南は気さくに挨拶した。
「今から朝飯か?」
「はい。昨日の朝は、タイから持ってきたもので済ませたのですが、今日は初めて食堂で朝ごはんを……」
「じゃあ、一緒に食うか」
「いいんですか?」
「一応、世話係だからな。一夏がいない日は基本的に食わないんだが、まぁ、お前がいるなら別だ」
南の言葉に、ヴィシュヌは小さく微笑んだ。
隣で欠伸をする彼を見上げ、じっと見つめる。
「ど、どうした」
そんなヴィシュヌの視線に気付いた南が、戸惑いながら言った。
「い、いえ……なんでも……」
ヴィシュヌも慌てて視線を外し、俯く。
頬を染めて、もう一度、横目で南を見ると、また目を背けた。
(彼に、惹かれてるのかしら……)
昨夜から考えていたことだったが、どうしても答えは出なかった。
隙を見つけては冗談を言い、ふざけているのかと思えば、急に真剣なことを言い出す。
起伏のないような話し方をする割には、態度や表情は、小さいながらもコロコロ変わり、そして、強い。
どことなく感じる安心感は、父親がおらず、男と接する機会がなかったために沸き起こっているのか、それとも……。
一晩考えて出なかった答えは、南を見ても出なかった。
彼の言う世話係が、南ではなく、一夏だったらどうなっていたのだろう。
そんな考えばかりが、今のヴィシュヌの中を駆け回っていた。
「……という訳なんだよ」
「…………」
「聞いてるか?」
「ひゃっ」
南に顔を覗き込まれ、驚いた拍子に、ヴィシュヌは蹴りを放っていた。
側頭部を狙うハイキック。
それを左手で受け止めた南に、焦りは見られなかった。
「お前、俺なら大丈夫と思って、無意識に蹴ってるだろ」
「あ、あなたが驚かせるから悪いんですっ」
「驚かせるって、ずっと話してたのに……」
「そ、それに、初日に部屋を案内してくれた時、痛がる振りをしたあなたに言ったはずです。覚えてなさいと」
「いや、そんなしてやったみたいな顔されても……」
胸を張って堂々と言うヴィシュヌだったが、南は困惑したままだった。
「は、早く行きましょう」
誤魔化すように話を終わらせたヴィシュヌは、早足で廊下を歩き始める。
左腕を振りながら、南はその後を追った。
角を曲がると、前方から千冬が歩いてくるのが見えた。
「あ、織斑先生……」
いち早く気付いたヴィシュヌが呟くと、南は素早く反応し、表情を引き締める。
「さて、どんな風に見せようか」
「と言うと?」
ヴィシュヌが首を傾げる。
「クールな挨拶で優等生っぽい感じか、にこやかに微笑みかけて心優しい感じか」
「それが通用する相手には見えませんが……」
「まぁ、見てろ」
南は低い声で言うと、咳払いをした。
千冬は南達に気が付くと、少しだけ怒りの表情を見せる。
声が届く距離まで来ると、千冬は口を開いた。
「神代、ギャラクシー、昨日はちゃんと走ったんだろうな」
「おはようございます! 二人でしっかり走りました、失礼します!」
千冬の一喝するような声に、南は一瞬だけ立ち止まり、勢いよく頭を下げると、そのまま早足ですれ違った。
ヴィシュヌも小さく頭を下げ、南の後を追う。
「怯えて情けない感じでしたね」
「仕方ないだろ、まさかまだ怒ってるとは……」
からかうように言うヴィシュヌに、南はムッとしながら答えた。
そんな彼を見て、ヴィシュヌの中で絡まっていた何かが、すっと解けた気がした。
(彼に抱くこの感情が、何なのかは分からないけれど……楽しい、であることは間違いない……)
それだけ胸に秘めると、軽やかな足取りで南の隣を添った。
「ねぇ、ヴィシュヌ。今度の日曜日、買い物に行かない?」
「買い物、ですか」
食堂でパンを千切りながら、シャルは優しく笑いかけた。
その隣で、マカロニにフォークを突き刺していたラウラが顔を上げる。
「ああ、お前もこの辺りの地理に慣れておいた方がいいだろう」
「それに、そろそろ何か欲しい物も出てきたのではないか?」
箒が続いた。
ヴィシュヌは少しだけ宙に視線をやり、考え込む。
「そうですね、日本で新しい洋服を買うちょうどいい機会かもしれません」
「じゃあ、決まりだねっ」
片目を閉じたシャルに、ヴィシュヌが笑顔で頷く。
「わたくし、小物を入れるポーチのような物が欲しいですわ」
「この前見つけた、雑貨屋さんに可愛いのが、いっぱいあったよ」
「まぁ! 簪さん、是非、案内してください」
「うんっ」
「私も少し見てみたいな」
セシリアと簪、箒が仲睦まじく話をし始めた。
そんなテーブルに二つの影が近づいてくる。
「いやいや、何で朝からカレーなのよ」
「昨日から無性に食べたかったんだ」
「じゃあ、お昼まで我慢すればいいじゃない……朝から食べなくても」
「朝カレーってよく言うだろ」
「じゃあ、朝天ぷらもある?」
鈴が言うように、南はトレーにカレーを載せていた。
ヴィシュヌの隣に腰掛け、スプーンを手に取ると、はふはふ言いながらカレーを口に運ぶ。
「ねぇ、朝からカレーっておかしいわよね?」
救いを求めるように鈴が首を向けると、南を除く全員が苦笑いをしていた。
見かねた南は、スプーンを置く。
「おいおいおい、カレーは朝に食べると体にいいんだぞ。いいか? そもそもカレーには……」
始まった、と簪が肩を落とす。
「六十人の子供はどこだ?」
箒が面倒臭そうに言った。