南と添い寝をする週間、その二日目。
この日も、一夏はそそくさと本音の部屋に行き、南は一人で誰かが来るのを待っていた。
「あー、肩が痛い」
昨日、簪と腕で体を支える体勢でアニメを見ていたからか、南の身体は凝り固まっていた。
首回りもどことなく動かし辛く、しきりに曲げたりするのだが、一向に良くなる気配はなかった。
唯一の救いは、翌日が日曜日で休みだという事だろうか。
そんな中迎えた午後八時。
控えめなノックが、部屋に響いた。
真耶が出した宿題がちょうど終わった所であり、南はペンを置きながら扉の方へ。
「どなたですか、っと」
視線を下に向けていたからか、扉を開けてまず見えたのは、綺麗に伸びた薄褐色の脚だった。
そこからゆっくりと顔を上げると、少し頬を赤く染めたヴィシュヌが恥ずかし気に南を睨んでいる。
「視線がいやらしいです」
「いや、そんなことないだろ……」
この寒い季節にも関わらず、膝元までしかないウェアを履いているヴィシュヌは、もじもじと体を揺らしている。
「特に何もないが、まぁ、入ってくれ」
「し、失礼します」
堅苦しい言葉に、南は思わず噴き出しそうになる。
「こ、これが、南の部屋、ですか……」
「一夏の部屋でもある」
感動のような、興奮のような、緊張のような、ともかく落ち着きのない声を出すヴィシュヌに、南は簡潔に答えた。
簡易キッチンで湯を沸かしながら、湯呑みを二つ用意する。
「適当に座っててくれ。今、お茶でも淹れるから」
「お、お構いなく……」
そう言いながらも、ヴィシュヌは忙しなく部屋を見渡しては、興味深そうな声を出していた。
「そんなに珍しい物はないだろ?」
「いえ、男性の部屋は初めて入りましたが……ふふ、ポスターを貼っていたり、漫画がたくさんあったり、イメージ通りです」
「ヴィシュヌは、漫画とか……読みそうにないな」
「はい、そうですね。折角、日本に来ましたし、何か読んでみたいとは思ってます」
「気になるのは、読んでいいぞ。鈴もよく勝手に上がり込んで来て、読んでいくんだ」
そうなんですか、と呟きながら本棚から適当な物を取ったヴィシュヌは、パラパラと捲る。
その様子を見ながら、南は湯呑みにお茶を注いだ。
ヴィシュヌの前に置くと、読んでいた漫画を閉じながら頭を下げる。
「ありがとうございます」
「おう」
お茶を啜る音と、息を吐く音が二つ。
部屋には、そんな音しか聞こえなかった。
「あぁ、首が痛い。肩も腰も」
南は、首を擦りながら表情を歪める。
熱い物を飲んでいて力が入ったのか、余計に凝り固まったように思えた。
「では、ヨガ――—はっ」
ヨガには、体の様々な箇所を活性化させ、肩こり解消を始めとする多くの作用が期待できる。
一言でヨガと言っても、種類は様々であり、その中の一つを思い出したヴィシュヌは、頬を染めながら俯いた。
「ん、どうした」
湯呑みを置きながら、南が訊ねる。
「そ、その……パートナーヨガを、してみませんか?」
「パートナーヨガ?」
「ええ。名前のままなんですが、二人でするヨガのことです。身体もほぐれますし、寝る前にすると温まって、ぐっすり眠れると思いますよ」
「そんなのがあるのか……まぁ、物は試しだな」
南はそう言うと、ゆっくり立ち上がった。
「そのまま寝れるように、ベッドの上でやろう」
「べ、べべ、ベッドで……そ、それは、もう……」
「どうした、やっぱりマットがいいか? それなら、悪いが部屋から取って来て―――」
「いえ! ベッドで! ベッドでやりましょう!」
勢いよく立ち上がったヴィシュヌは、南に詰め寄りながら言った。
困惑気味に頷くことしか出来ない南は、跳ねるようにベッドに向かうヴィシュヌをただ見送った。
「では、とりあえず一人で出来るものからやってみましょう」
「頼む」
かけ布団を簡単に折り畳んだベッドの上で、南とヴィシュヌは向かい合って胡坐をかいていた。
綺麗に背筋を伸ばすヴィシュヌに倣って、南も同じように伸ばす。
「まずは、手の平を上に向けて膝の上に置いて、肩の力を抜いてください。背筋は……あ、いいですね。伸ばしててください」
普段とはまた違う優しい口調になったヴィシュヌは、指示を出しながら自分も実践して見せる。
見よう見まねで、南も力を抜いた。
「呼吸を整えて……息を吸って……吐いて…………手の指を前で組んでください。そのまま、お腹を覗き込むように、腰と背中を丸く引いて」
「おぉう……」
「骨盤をまっすぐ、手のひらを返して、上に挙げてください……肩を持ち上げて、また下ろす」
「あぁぁ……」
「変な声を出さないでください」
ヴィシュヌが目を細めた。
それもお構いなしに、南は気持ち良さそうに息を吐く。
「何か、色々伸びてて凄い気持ち良いぞ、これ」
「ふふ、それは良かったです」
呻き声は不気味だが、自分の教えで良くなるのは嬉しい、とヴィシュヌは微笑んだ。
「では、今度は腕を後ろに回して、指を組んでください。そのまま、斜め後ろに引っ張る……ゆっくりでいいですよ」
「だぁぁ、背中が攣りそうだ……」
「ゆっくりゆっくり……肩甲骨と肩甲骨を引き寄せてください。すると、胸も自然と広がっていきます」
どれくらい腕を伸ばすのか確認する為、南は閉じていた目を開いた。
すると、ヴィシュヌの豊満な胸が、目の前で強調されており、一瞬で南の思考を奪った。
箒に負けずとも劣らないそれは、彼女の呼吸に合わせて動く。
何とか我に返った南は急いで目を逸らす。ヴィシュヌも目を閉じていたのが幸いだった。
「ふぅ……」
息を吐いて、目を閉じる。
しかし、身体にフィットしている薄いウェアから盛り上がる膨らみが、自然と頭を駆け巡り、南は頭を振った。
(もう一度拝んでから、集中しよう)
そう決めて目を開けると、広がっていたのは胸ではなく、背中だった。
「は?」
「背中はこんな感じです。肩甲骨を、こう……分かりますか?」
不純な自分を差し置いて、真面目に背面を見せてくれるヴィシュヌに、南は居心地が悪くなりながら肩を落とす。
それから、いくつかのポーズで肩や首のストレッチを終えると、凝り固まっていた箇所はかなり楽になっていた。
「おお、これは凄い」
「それは良かったです……で、では……その……」
「ああ、パートナーヨガ、だったか? やってみるか」
南は簡単に言うが、ヴィシュヌは頬を染める。
ベッドの上で正座しながら、膝を掴んでいた。
「それで? どうするんだ?」
「ひゃっ、そ、そうですね……では、ま、まずは舟のポーズを……」
そう言うと、ヴィシュヌは足を崩してから伸ばした。
「南も、足を伸ばしてください。そ、それで、足裏を合わせるんです」
「よいしょ……」
南は言われた通りに足を伸ばし、ヴィシュヌの足と合わせる。
少しだけ震えた彼女の足は、しかし、すぐにぴったりと合わさった。
「膝は伸ばしたままで……この足を上げて、外側で、て、手をっ、繋ぎましょう」
「ああ、これは……腹筋が……」
「ええ。あとは太ももなんかも鍛えられますし、腕と肩のストレッチにもなるんですよ」
繋がれた手を離さないよう、ぎゅっと握るヴィシュヌ。
それに応えるよう、南も力を込めた。
足を上げているため、南の顔は見えない。しかし、そんなことが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。
南は、ただ力を入れただけで、幸せな勘違いではあったのだが……。
「次は、ウッタナーサナ……前屈のポーズです。これは簡単ですよ」
そう言いながら、ヴィシュヌはベッドから降りた。
遅れて、南も立ち上がる。
「背中合わせになりましょう」
「おう」
「で、足は腰幅くらいに拡げて……身体を倒して前屈してください」
「ん」
「それで、相手の腕を掴むんです」
「おお、確かに、これは簡単だ」
「これは、一人で前屈するよりも、脚や腰を気持ちよく伸ばすことが出来るんです」
そう言いながら、またもヴィシュヌと南は腕を取り合った。
お互いに引っ張り合うと、尻が密着して、何とも気恥ずかしい。
「…………」
「…………」
黙っていると、それぞれの尻の感触を直に感じてしまう。
気を紛らわせる会話もなく、二人は静かに体を伸ばした。
「そ、それでは……最後の、ポーズです」
「お、おう」
「ウッタナーサナバリエーションといって、背骨の柔軟性を高めることが出来ます」
ヴィシュヌは、少しだけ南と距離を取り、手の平を突き出した。
その頬は、今日一番赤い。
「南も、手の平を突き出して……私と合わせてください」
「ああ」
「そ、それで……身体を、床と平行になるまで、た、倒して……ください……」
南は、言われる通り身体を前へ倒す。
ヴィシュヌも同じようにした。
すると、自然と頭は腕より低くなり、考えられないほどお互いの頭の位置が近くなる。
呼吸が聞こえるどころか、吐息が感じられる距離だった。
でこに至っては、もう触れ合う寸前であり、少しでもバランスを崩すと、唇が重なってしまう。
「これは……」
「が、我慢してくださいっ」
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳をしているヴィシュヌから視線を外すことが出来ず、お互いがただ見つめ合う。
「あの……いつまで……」
「まだ、です……もう少し……」
恥ずかしい気持ちはあれど、逆らうことも出来ず、南はしばらくそのままの恰好でいた。
「ふぅ、確かに温まったな」
南は、温度の落ちたお茶を飲み干して、息を吐いた。
同時に欠伸が出ていた。涙を擦りながら時計を確認する。
寝るにはちょうどいい時間になっていた。
「そろそろ寝るか」
「そ、そうですね……」
ヴィシュヌが、俯いたまま頷いた。
南が先にベッドに入り、その後に続く。
ベッドの端で、ヴィシュヌに背を向けて小さく身体を丸めた南との間には、確かに隙間があった。
「あの、南……」
真っ暗の部屋で、ヴィシュヌが控えめに声を出した。
「どうした?」
「わ、私は、タイから転入してきました……」
「そうだな」
「日本の冬は一日中寒くて、まだ慣れません」
「ああ」
「だ、だから……も、も……もう少し、こっちに……寄ってください」
そこまで言うと、背中を向けていた南は、もぞもぞ動きながらヴィシュヌの方を向いた。
薄目を開けて、眠たそうにしている。
「いいのか?」
「え、ええ、お願いします」
「じゃあ、遠慮なく……やっぱり端は寒い」
布団が剥がれないよう、慎重に移動する南に、ヴィシュヌも少しだけ身を寄せていった。
やがて、先程のヨガとさほど変わらない距離まで詰めた二人は、その吐息を互いに感じながら目を閉じた。
「その、南……」
ありがとう、温かいです……そう続けようとしたヴィシュヌを遮るように、南が口を開いた。
「分かってる。本当は、タイが恋しいんだろう? 心配するな。今日は、日本の冬を悪者にしておこうじゃないか」
目を閉じたまま薄っすら笑う南の腹に、ヴィシュヌの膝が直撃する。
「うごっ!」
「違います! ふん!」
「ごほっごほっ……ヴィシュヌ」
「……なんですか」
「腹が痛い。腹痛に効くヨガのポーズは……」
「ありません」
冷たく言い放つと、ヴィシュヌは勢いよく寝返りを打ち、南に背を向けた。
その拍子に布団が剥がれ、南の半身から温もりが消えた。
「いやいやいやいや、凍死する」
南が勢いよく引っ張り返す。すると今度は、ヴィシュヌの上半身にかかっていた布団がズレた。
「返してくださいっ」
「俺の布団だ!」
「寒いじゃないですか! 日本の冬には慣れてないんです!」
「もう一回、ヨガをやれば温まるぞ」
数十分間、布団を奪い合った二人が疲れて眠る頃には、すっかり汗ばんでいた。
翌朝。
ヴィシュヌが目覚めると、カーテン越しに朝日が差し込んでおり、鳥のさえずりが微かに聞こえてきていた。
体のすぐ近くにある気配に目を向けると、南が丸くなって眠っている。
背中が少し布団から出ていることに気が付き、ヴィシュヌはそっと布団をかけてあげた。
普段の態度からは考えられないほど、可愛らしい寝顔で寝る南をしばらく眺めていたが、折角の日曜日。
この間、自分の誤解により台無しになった買い物に付き合ってもらおうと思い立ったヴィシュヌは、南の肩を揺さぶる。
「南、南……起きてください」
肘で体を支えるようにしながら、優しく南に触れる。
すると南は、うめき声を上げながら、目を開けようと必死になる顔になった。
「うぅぅん……いま、なんじ……?」
かすれた声で言う南に、ヴィシュヌは部屋の時計を一目見て答える。
「六時半ですよ」
「一日中寝てたのか!?」
「いえ、朝の六時半です」
夕方と勘違いした南は、飛び起きるようにして言ったが、冷静なヴィシュヌの声に、再び布団を被り直した。
「なんで起きてる?」
皮肉ではなく、純粋な疑問をぶつけた。
ヴィシュヌはため息をついた後、苦笑する。
「今日は、買い物に付き合って欲しいんです」
「朝の六時半から店が開いてるなら、すぐに準備するよ」
「朝の瞑想をして、ご飯を食べて、準備をして……ほら、お店の開店時間なんてすぐに来ますよ」
「瞑想……?」
南が寝がえりを打った。
目は閉じたままだが、話を聞くつもりはあるらしい。
「ええ、庭にマットを敷いてするんです。一緒にどうですか?」
「日本の冬は苦手じゃなかったのか?」
「うっ……だ、大丈夫です! 心を無にすれば、寒さも忘れられますし」
「そうか。タイへの想いは忘れないようにな」
「いいからっ、ほら、起きましょう!」
その後、南は、極寒の庭で鼻水を垂らしながら、マットの上で静かに眠った。