南と一夏は、部屋でそれぞれ、雑誌と漫画を読んでいた。
南と添い寝をする相手が中々部屋に訪れず、久しぶりに自分の部屋でゆっくりしたいと願う一夏にとっては、リラックスできる一時でもあった。
「なぁ、南」
漫画を捲る音を小さく響かせながら、一夏が笑った。
「なんだ?」
「こうして二人で本読んでるとさ……老夫婦みたいだよな」
何気なく放たれた一夏の一言に、南は顔を顰めて雑誌を投げた。
「おい、それは流石にやめろ……言ってなかったが、俺は男だ」
「分かってるって!」
一夏は焦った顔で言うが、南の警戒するような視線に息を飲んだ。
「そ、そういう意味じゃなくて……昨日、ほんちゃんとも、こうして本を読んでたんだ。そしたらほんちゃんが、『歳を取っても、こうやって二人で本を読んでたいね』って」
「じゃあ、のほほんさんと言っててくれ。どうして、俺とでも言うんだ」
「わ、悪い」
南は、再び雑誌を手に取り、ペラペラと捲る。
そして、一夏には目をくれず口を開いた。
「それに、良い妻ならお茶くらい出すぞ」
「この女尊男卑の世の中で、よくそんなことが言えるな……ってか、俺が妻なのかよっ」
「夫婦ならな」
感情を込めずに言う南だったが、一夏は納得出来ずにいた。
椅子に座り直しながら、息を吐く。
「生憎、お茶は切らしてんだ」
「良い妻なら買いに行く」
間髪入れずに言う南は、少し口角を上げた。
それと同時に、ノックの音が響く。
「……離婚したくなってきた」
一夏は立ち上がりながら呟くと、扉の方へ。
開けた先には、楯無が見慣れないパジャマ姿で立っていた。
「はぁい、一夏くん。本音とはどう?」
「楯無さん。まぁ、なんとか順調です……あ、どうぞ入ってください」
「お邪魔しま~す……あ、南くんっ」
「今日は元凶の楯無か」
楯無は、軽快な動きで南の元へ移動し、座っている彼の頭を撫でまわす。
されるがままの南は、雑誌に視線を落とした。
「じゃあ、南。俺も行ってくるよ」
一夏が、扉の前に立ったままで言った。
そのまま本音の部屋に向かうらしい。
「一夏」
南はそんな一夏を呼び止めると、ゆっくり立ち上がり、雑誌で指した。
「離婚するんだろ? 弁護士に会うついでに、お茶を買ってきてくれ」
扉が閉まる。
「離婚? 弁護士? またよく分からない事を言ってるのね」
二人きりになった部屋で、楯無は南をジト目で見上げた。
雑誌を仕舞いながら、南は涼しい顔をしている。
「それじゃあ……どうしましょうか?」
手をパンと叩いた楯無は、辺りを見渡しながら言った。
部屋の中は片付いており、食いつくようなものはない。
南は、考え込むように視線を上げて唸った。
「明日は日直だから、早起きしないといけないんだ。だから、もう寝る」
「どこ行くの?」
簡潔に答えを出した南が洗面台の方へ行くのを見て、楯無が首を傾げた。
「歯を磨くんだよ」
「あ、おねーさんが磨いてあげましょうか」
「はぁ?」
「どうして、そんな嫌そうな顔しながら、聞いたことないような声出すのよ」
「どうして、一つ上の先輩に、歯を磨いてもらわないといけないんだ」
南は鼻で笑うと、そそくさと歯を磨き始めた。
むくれる楯無は、何かないかとまた頭を動かす。
「じゃあ、お茶! 寝る前のお茶を淹れてあげるっ」
「お茶は切らしてるんだ」
「さっき言ってたのはそれだったのね……」
口をゆすいで戻ってきた南は、大きな口を開けて欠伸をした。
ベッドに腰かけ、何やら考え込む楯無に視線を向ける。
「えっと……えっと……じゃあ、生徒会室から何か持って来るわ。待ってて」
楯無はそう言うと、部屋を出ようと一歩踏み出した。
その腕を南が掴む。
「おい、何を慌ててるんだ。落ち着け……らしくないぞ」
腕を引いて表情を伺う。
そこにいた楯無は、見たことのない不安げな表情を浮かべていた。
今まで見たことないようなその表情は、どこまでも儚くて弱々しい。
「ご、ごめん……なさい……」
「いや、謝ることはないが……」
南は、掴んでいた腕を放した。
その手で意味もなく髪を触り、視線を彷徨わせる。
それっきり、室内は妙な空気に包まれ、二人とも口を開くことはなかった。
ベッドに入った二人は、背中を向けてただ黙っていた。
だが、南も楯無も目を閉じてはいない。
「南、くん……」
「なんだ?」
真っ暗の部屋で、楯無がそっと名を呼んだ。
南は、体勢を変えることなく返した。
「おねーさん、南くんと寝られるからって、はしゃいじゃってたみたい」
「……嘘だな」
「やっぱり分かる?」
楯無の震えるような声は、緊張や不安を含んでいた。
それは、南でなくてもハッキリと分かるほどだった。
「何があった?」
「んー……あった、というよりは、これからあるって感じかな」
話が見えない、と南は初めて体勢を変えた。
ベッドの上で体を動かした先に見える楯無の背中は、いつもより小さく見える。
「私ね、明日からしばらくここを離れるの」
「ここって、IS学園をか?」
「そうよ」
「生徒会長ってのは、大変だな」
南が目を閉じて言うと、楯無はそっと笑った。
「ううん、今回は生徒会長じゃなくて、私の実家……更識家のお仕事」
「更識の?」
「簪ちゃんから聞いてない? 裏工作を初め、スパイ行為等を目的とする暗部に対する対暗部用暗部……それが更識家なの」
「ほう」
「私はその当主でね……楯無っていうのは、更識家当主が代々襲名する名前……まぁ、『組織』出身の南くんからしたら、そこまで珍しいとは思わないでしょ?」
「出身とか言うな……確かに、そこまで驚きはないが」
それだけ言って、南は仰向けになった。
明かりの消えた部屋の天井は、ただ暗いだけで何も映さない。
「明日からのは、危ない仕事なのか?」
「ちょっぴりね……今までなら、なんてことない仕事の一つだったのに……今回は無性に不安で、怖いの」
南は、顔を楯無の背中に向けた。
「だから、それを誤魔化そうとしたんだけど、空回りしちゃったみたい……いつから、こんなに弱くなっちゃったのかしら」
楯無にかけてあげる言葉を必死に探すのだが、残念ながらすぐには見つからなかった。
このまま何もしないと、彼女が遠く離れてしまいそうで……そんな様子が、南の心中を荒らした。
「うん、辛気臭い話はおしまいっ。さっ、寝ま―――」
だから、何も言葉が見つからないから……南には、ただ楯無を抱き寄せることしか出来なかった。
その力は、今の楯無同様、弱々しかった。
しかし、彼女の無理に明るく振舞う言葉を遮るには十分だった。
「南くん……?」
「こういう時に限って、何も言ってやれないし、してやれないから……だからせめて、俺はここでお前を待ってることにするよ」
選んだ言葉ではなかった。
何も通していない、率直で素直な言葉だった。
「……弱くなったのは、あなたの……せい、なのよ……」
涙交じりに言う楯無だったが、枕を濡らすことはなかった。
必死に目元を拭い、口角を上げてみせる。
「もしもの時は、迎えに行くから連絡してくれ」
「縁起でもない事、言わないで」
楯無が吹き出すように笑った。
頭と体に回された南の腕の感触を胸に仕舞い、楯無は勢いよく体勢を変えた。
その先にいた南は、ただ優しく笑っていて、楯無の目元が少し赤いことには何も言わなかった。
「南くん……さっきね、楯無は更識家の当主が襲名する名前って言ったでしょ?」
「ああ、言ってたな」
「私の本当の名前……教えてあげる」
楯無はそこで、グッと身体を南に寄せた。
猫のように擦り寄り、南の胸元に頭を預ける様子は、先程までの弱々しさを感じさせなかった。
「本当の名前?」
「ええ……更識家当主を証明する楯無ではない、私の名前……」
そこで楯無は、南を上目遣いで見上げ、そっと口を開いた。
「更識……刀奈」
陽も昇りきらないうちに、楯無は目を覚ました。
時計を確認すると、予定していた起床時刻を十分ほど過ぎている。
いつもはない温もりと、心地よい圧迫感に目を向けると、そこには南が寝息を立てて眠っていた。
そんな彼を起こさないよう、慎重にベッドから抜け出す。
布団をかけ直し、その脇に座った。
「ふふ……普段、意味不明なことばっかり言う南くんも、こうして寝てる時は、可愛いわね」
楯無は、南の頬を撫でて微笑む。
「起きなくてもいいくらい」
そんな冗談を言ってまた笑うと、静かに立ち上がって部屋を出た。
自室に帰り、纏めていた荷物を手に取る。
妹の寝顔を見て行こうとしたが、予定の時刻を過ぎていることを思い出してやめた。
誰もいない寮をゆっくり歩いて、校門へと向かう。
「うー、さむさむ」
朝の冷え込みは激しかった。
手に吹きかける息が白い。
門の向こう側には、黒のリムジンが停まっている。
軍用レベルの装甲板で覆われた特殊車両だ。
「さて、頑張りましょうか!」
楯無は、気合を入れ直すように言うと、最後にもう一度IS学園を拝んでおこうと振り返った。
そして、その先から歩いてくる人影に気付いて、目を丸くする。
「えっ……」
動揺にも似た表情を見て、照れ臭そうに笑ったその人影……南は、小走りで楯無の方へ。
南が、トン、と軽やかに目の前で止まると、楯無は驚きを隠せないまま息を吐いた。
「どうして……寝てたんじゃ……」
「今日は日直だからな、早起きしたんだよ」
寒い寒いと身体を揺らす南は、明らかに嘘をついている。
それでも、楯無は小さく笑って頷いた。
「そういうことにしておくわね」
「ああ……それじゃあ、行ってこい……刀奈」
大きく息を吐いた南は、ポンッと肩を叩いた。
そんな南に、満面の笑みを向ける。
「うん、行ってくるわね、南くんっ」
この日、シャルと日直だった南は、二人で日誌を書きながら、休み時間を過ごしていた。
「違う違う、山田先生はきっと人を眠らせる能力があるんだ。そういう虫なんだ」
「だーめ。居眠りしてたことは、ちゃんと書くからね」
必死にペンを取り上げようとする南をあざ笑うかのように、ひょいひょいと腕を躱しながら、シャルは楽しそうに笑った。
「また織斑先生に呼び出されるじゃないか」
諦めた南は、ガクッと肩を落とした。
シャルは、意地悪な笑顔を向ける。
「どうしよう。軽くパニックになってる」
「まぁまぁ、落ち着いて」
「落ち着けないのがパニックだ」
吐き捨てるように言う南に、シャルはしょうがないなぁ、と笑って消しゴムを手に取った。
すると、トイレから帰ってきた一夏が自分の席に座る南を見て、何かを思いついたように手を叩いた。
「あ、南。今日はお前が日直だったんだよな……はい、提出する宿題。集めて持って行くんだろ?」
「もう、持って行ったぞ?」
「え?」
一夏の目が点になった。
それもお構いなしに、南は足を組む。
「なんで言ってくれないんだよ!」
「言わなかったか? 『持ってく物があるなら、出してくれ』って」
「そんなので分かる訳ないだろ!」
「なんだ、それくらいは阿吽の呼吸で分かると思ってたが……この結婚は失敗だったな、一夏」
南がそう言って笑う頃には、一夏は宿題を持って教室を飛び出していた。