雪乃が会議室に戻ってきた。トレイを持っており、その上にポットとカップ、それに小さな袋が置かれていた。
「まさかのティータイム。これだからブルジョワは。悔しいからお椀で味噌汁をがぶ飲みでもしようか」
「訳のわからないことに熱意を注ぐのは止めなさい。それにこれは貴方用に持ってきたものよ。一応、委員長という立場なのだし、倒れられても困るから、気晴らしにと思ってね」
雪乃はトレイを秋太の邪魔にならないところに置いた。
「そこで顔を赤らめて、別にから始まる名言を言ってこないゆっきーにマジでがっかり」
「べ、別にあんたのために用意したわけじゃないんだからね! ふんっ!」
「姉乃さんは速やかにご退場。殺意がわく」
「はい、殺人予告いただきました。警察に訴えてやる」
「……コントする気なら文化祭当日にしてもらえるかしら? それに秋田くん程度にお茶を用意したからといって、私が照れると思っているのかしら?」
ちょっと強気な雪乃に秋太と陽乃は顔を見合わせた後、クスクスと笑い出す。
「照れると思った(笑)」
「うんうん、雪乃ちゃんが逞しくなってお姉ちゃん嬉しい♪」
「言いたいことがあるならはっきり言いなさいな」
二人の煽りに雪乃が噛みつく。
「髪で隠してるつもりだろうけど、首元が真っ赤になってるから」
「雪乃ちゃんが恥ずかしがってるときは、耳と首が赤くなるのよね~」
「なっ!?」
雪乃は慌てて首元を隠すが、その行動で二人の笑顔は深まった。どうやらハメられたらしい。
「ゆっきーは嘘をつくのがホント下手だよね。ゆっきーが嘘をつくときは微妙なタメがあるんだよ。自分の嘘がバレないか、一瞬考えちゃうんだろうね」
「あら、秋太はよく見てるわねー」
「俺とゆっきーはベストフレンド」
「それ、比企谷君にも言ってなかった?」
「嫌だなー姉乃さん。友達の少ない界隈だと、皆ベストフレンドなんだ。あ、ちなみに姉乃さんは除外で」
満面の笑みで、お前は友達じゃないと告げる秋太。それに対して陽乃も笑顔で返し、ついでに右ストレートも返してみた。躱されたが。
「な、なんかあーしら空気な感じ」
「あーしはいつも空気が読めないから、空気の気持ちになれて良かったじゃん」
「ぶん殴るよ」
「優美子、抑えて。秋田もあまり挑発しないでくれるかな。このままだと四面楚歌状態になるけど」
右に雪乃、左に陽乃、そして正面に優美子。これで背後に八幡がいれば、完全に項羽状態である。
「え、なにこの状況」
そして空気を読んだのか、読まなかったのか、八幡がお使いから帰ってきてからの一言。秋太を取り囲む美少女たちにかなり困惑している。
「おお、ベストフレンド八幡。パシリありがとう」
「ホントだよ。休憩のはずなのに、階段の上り下りでちょっと疲れたじゃんか」
触らぬ神に祟りなし。八幡は、3人の美少女には全く触れず、秋太に午後的な紅茶を渡し、そのまま流れるように自分の席に戻った。八幡の席は秋太の隣なのだが、八幡の人間観察スキルが発動したのだろう。秋太からちょっと離れたところに座り、状況を見守ることにした。戦略的撤退だ。陽乃がいつの間にか八幡の席を占領しているからという理由ではない。
「あ、これ美味しい」
「なぜ姉さんが食べているのかしら?」
「秋太のものは私のもの。私のものは当然私のもの」
「さすが雪ノ下ジャイ乃。暴論がここまで似合うのは珍しい」
「陽乃エルボー」
「エルボー返し」
陽乃肘打ちに拳で受ける。ちょうどいい所に入ったようで、陽乃がびくんっとなってから、痛い、痛いとわめき出した。
ただそれを心配する人間は誰もいない。
「悪は滅びろ」
「滅びるじゃないところが味噌よね」
「こんな陽乃さん久しぶりに見たな」
隼人のイメージする雪ノ下陽乃は完璧人間であり、そして何より怖い人間だ。触れるものを皆壊していく、そんなイメージが彼には有った。
だが今目の前のいる陽乃は、彼の知るイメージとは大きくかけ離れていた。楽しそうに振る舞っているだけで、その実、他者をじっくりと観察する陽乃が、本当に楽しそうに見える。
隼人にはそれが驚きでしかなかった。
「イケメン、それは君の眼が腐っている。姉乃さんは九分九厘がボケで出来てるから、いつもこんなん」
「俺の知る陽乃さんと随分違うんだな」
「姉乃さんだよ?」
「どういう意味よ!」
ばしっと横から手刀を入れる。私を馬鹿にするなと陽乃は言いたいようだ。
「……俺にとって陽乃さんは」
「あ、サボりすぎた。さ、仕事を再開しましょう。ゆっきーは差し入れありがとうね。あーしたちは練習を頑張って。姉乃さんは刑務所へGO!」
「こらこらこら」
隼人が何かを言いかけたところで、休憩時間が終わった。追い払われるように、部外者は会議室を出て行った。
「何が言いたかったんだろうな、葉山の奴」
「俺を見捨てた八幡が帰ってきた」
「バカ、空気を読んだんだよ。それに雪ノ下の姉ちゃんが俺の席に座ってたし」
「そして今、姉乃さんの残り香を堪能している八幡」
「比企谷君、ひくわ」
あらぬ疑いを掛けられた八幡は、弁解することなく黙々と作業に戻った。否定しようと、この二人には勝てないと経験から判断したようだ。
「お、ホントだ。美味いねこれ。ゆっきーの手作り?」
「……そうよ。家で焼いてきたの。奉仕部に行けば、ティーセットはあるから取ってきたのよ」
「このクッキー一枚一枚にゆっきーの何かが入っているのかと思うと」
ばしんっと秋太の背中がとんでもない音を立てた。秋太の反応できない速さの攻撃だった。
「今のは秋田が悪い」
「うん、自覚してる」
「変態」
雪乃から率直な罵倒を受けたのは初めてだったのか、珍しく秋太が静かになる。
「ゆっきーめんご。冗談だから。普通に美味しいし、ありがとう」
「貴方の謝罪はどうしてそんなにも軽いのかしら? 普通にセクハラよ?」
「いやー同年代の女子から手作りなんて、初めてで舞い上がっちゃってね。舞い上がった俺を許してほしい」
「……考えておくわ」
そういうと、雪乃は自分の作業に戻った。
怒らせてしまったか、と反省する秋太。
なんだこのカップルは、とちょっとイラつく八幡であった。
◆
放課後。部活動を行っている生徒も帰宅する時間である。
「もう、上がってくれていいよ。他の人は帰ってるし」
「貴方がいるじゃない」
「なに、その俺がいるから意地でも帰らないみたいな感じ」
「……私と二人っきりで居れて嬉しいでしょう?」
「はいはい嬉しー。惜しむらくは、一呼吸置かずに言って欲しかった」
照れるならやるなと秋太は言いたい。
窓の外を見れば確かに暗い。
さすがにこの時間に女子生徒を一人で帰すというわけにはいかない。
秋太は荷物を片付け始めた。
「さて、なら帰るか。レディを一人で帰すなんて、紳士のすることじゃないしね」
「誰が紳士なのかしら?」
ふふっと笑う雪乃を見て、秋太は不満そうな顔を見せる。それを見て、雪乃がまた小さく笑うのであった。
校舎を出ると、やはり肌寒さを感じる。残暑がある状況ではあるが、太陽が沈む時間帯ともなると、少しばかり気温が下がってきているようだ。
「少し寒いわね」
「もうすぐ秋だし」
「貴方の季節ね」
「それ自分も言われたでしょ。冬が来るたびに」
「雪ノ下雪乃だもの」
雪乃の誕生日は1月。まさに冬尽くしである。
「雪ノ下は嫌いだけど、雪乃って名前は好きだよ。なんか響きが格好いい」
「女性の名前で格好良いはないでしょうに。まあ、姉さんがいるから雪ノ下に良いイメージがないのは認めるわ」
二人ともやはり陽乃に対しては容赦がない。
「貴方の名前はあれよね、とにかく間違いやすいわ」
「初見で俺の名前を読めた人って今のところいないしね」
「あら自慢かしら?」
「そんな自慢は嫌だ」
クスクスと小さく笑う雪乃。最近よく見るようになった顔だ。
「あともう少しで文化祭ね」
「そうだね、早く終わってほしい。解放されたい」
「貴方は自分で仕事を増やしすぎなのよ。自業自得だわ」
「他にしわ寄せが行ってるわけじゃないんだから問題なし」
「そのうち本当に倒れるわよ」
「大丈夫。もしそうなったらゆっきーに看病してもらうから」
何かが面白かったのだろう、秋太は笑みを浮かべている。
「姉さんを送り出すから心配しないで」
「俺を殺す気か?」
「天に召されなさい」
とても美しい顔で酷いことを言い出す雪乃だった。
「本当に大変そうなら見舞いに――」
「なんでおじゃる? トラックの音で聞こえなかった」
雪乃が口を開いたとき、タイミングよくトラックが二人の横を走り去っていった。
恨めしくトラックをにらむ雪乃に、「とうとう無機物にまで喧嘩を売り出したのか」と変な解釈をした秋太。
「貴方は馬鹿ねって言ったのよ」
「突然の罵倒とか、さすがはゆっきー」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒め言葉として受け取れる精神が半端ないっす」
漫才のような掛け合いをしているうちに、雪乃が暮らしているマンションに着いた。
「……金の無駄遣い。俺への当てつけか」
「……被害妄想よ。別にここは私が望んだ場所ではないのだし。安全性を考慮した結果よ」
「なんだかんだで親に大切にされてるよね」
「……そうね」
親に反抗している身分で親に頼っているという現状に、雪乃は顔を顰める。
しかし、まだ彼女は高校生であり、親に頼るのが普通なのだ。秋太という例外が彼女の認識を歪めてしまっているのだが、彼女はあくまでも普通なのである。
「貴方を見ていると、自分が恥ずかしくなるわね」
「また何か意味の分からないことを考えてる?」
「そうじゃないわ。単純に貴方は凄いわねってこと」
「お、素直に褒められるとは。ちょっと嬉しい」
「私は過大評価も過小評価もしないわ。凄いことには凄いって言うわよ」
それはどうだろうかと、秋太は首を傾げる。八幡や陽乃に関しては、素直な言葉が出ているとは言い難い。
「それじゃ俺は帰ります。夜更かししたり、身体は冷やしたりしないように」
「貴方は私の何なのかしら?」
「親友」
「ただの友達よ。送ってくれてありがとう。帰りは気を付けてね。さよなら」
足早に雪乃はマンションに入っていった。
「これはデレたのか?」
微妙だなーと思いながらも、帰る足取りは少しだけ軽かった。
◆
「はい、本日は文化祭のスローガンについて話し合いたいと思いまーす♪ 今から紙を配るので、皆、格好良いのを考えてねー」
めぐりのそんな進行で会議が始まった。
文化祭が始まるという時期になって、大変重要なことを忘れていた。
学校活動である文化祭の、形式上ではあるが、目標的なものがないのだ。
全くそのことを考えていなかった、秋太、雪乃、八幡。実質の文化祭トップ役員が揃って為体ぶりを見せてしまった。皆で協力して何かをするという考えが希薄な彼らにはスローガンを考えるなどあまりにも高等技術だったようだ。
会議室には、文化祭実行委員の他に、生徒会役員、並びに顧問教師、そして一般の部から参加の陽乃がいる。完全に部外者でしかない彼女であるが、なぜかこの学校は彼女に優しいのだ。秋太が事務員に抗議行動を起こしたのは言うまでもない。
「では挙手で!」
めぐりが元気に手を挙げるが、それに反応する人間は皆無だ。
こういった場で先陣を切るには相応の勇気が必要なのだ。
「うーん、いないか。じゃあ、委員長からお願いします」
めぐりに振られて秋太が立ち上がる。
「『持たない、作らない、関わらない』 ボッチ三原則。括弧付で友達が入ると完璧です」
「はい却下! 文化祭に関係ありませーん!」
ぶーとめぐりがバッテンを作りながら即却下した。
「ちょっと待ってください。これは昨今の、とりあえず皆で仲良くという胡散臭い思想に対して、異議を唱えた高尚なものです。ボッチで何が悪いと開き直る高校があっても良いじゃないですか」
「はい、次行きましょう!」
秋太の抗議は完全にスルーされた。
「じゃあ次、雪ノ下さん!」
「『理想と現実』」
「なんか深い意味がありそうだけど、怖いから却下で! じゃあ次は比企谷君」
説明しようとしていた雪乃は不満そうな顔を浮かべる。ニヤニヤといい笑顔の秋太と陽乃の方をなるべく見ないように努めた。
「『団結 見方を変えればただの束縛』」
「はい次行きましょう! 今の三つはなかった方向で」
その後の会議中、ずっと不満そうな顔を浮かべる三人が居たという。
そして協議の結果、
『千葉の名物、踊りと祭り! 同じ阿呆なら踊らにゃsing a song!!』
に決まった。若干名が不満を漏らしていたが、漏らした3人があれだったので、気にしない方向でその場は収まった。