サウザンドアイズ第七桁支部ビル内で警報が鳴り響く中、屋上にいる十六夜は己の身の丈ほどはある大きな旗を持って立ち続けた。
警報音は彼の耳にも当然届いているはずだが、それを聞いても逃げ出す様子は微塵もない。
「さてと、後は待つだけになるか。早く誰か来ねえかな。あまり遅いようならこのままビルへ入って行くってのもありだが……」
「追い付いたのですよ十六夜さん!!」
床が軋むような衝撃と共に、黒ウサギが華麗な着地を行う。
「おっ、黒ウサギか。別に付いて来てほしいとは言ってなかったがな。それから俺は今日欠席することにしたから、学校にはお前一人で行って来いーー」
後ろを振り返った十六夜は、黒ウサギの姿を見て少し驚いた表情になる。
「……お前、いつのまに髪染めたんだ?」
怪訝な目で十六夜が凝視する黒ウサギは、普段と少し雰囲気が違っていた。
艶やかな黒い髪は淡い緋色に変わっており、身体からは対峙しているだけで分かるほどの力強いオーラが出ている。
「我々月の兎は、感情が高まった際に髪の毛が変色する体質なのですよ。つまり、この髪の緋色は十六夜さんへ向けた黒ウサギの怒りそのもの。
今にも飛び掛かりそうな気迫の黒ウサギが一転。今度は顔に冷や汗を流し、十六夜の右手が掴んだ物体を信じられないという目で見つめてくる。
「十六夜さん、その手に持った旗はまさか……」
「ああ。たった今そこから引き抜いたやつだぜ」
空いている左手の指を突き出す十六夜。その指が示す先には、旗を支えるポールが入っていたであろう場所にヒビ割れた黒い穴が空いているだけだった。
それを確認した黒ウサギは顔面蒼白になり、髪の毛も元の黒色へと戻ってしまう。
「な、何ということをしているのですか!? 今すぐ元の場所へ返してください!!」
「断る」
「我が侭も大概にして下さい!! 先程も言いましたが、その旗印はサウザンドアイズのもの。三百を超える神格保持者を抱え、この広い箱庭世界の中でも五本の指に入る超巨大コミュニティなのですよ。その旗印を奪うなんて自殺行為そのものです。分かったらその旗を戻して、バレないようにこっそりここを去りましょう。もしこんな所で見つかれば、どんな目に遭うか分かりませんよ!?」
「いや。心配してくれて悪いが、もう手遅れだ」
直後、一陣の風に紛れ白髪の少女が屋上に舞い降りた。
「見つけたぞ、不埒者ども」
十六夜の前に立つ白夜叉は、その幼い容姿に釣り合わない冷酷な視線を眼前の少年に向けてくる。 全身から滲み出る存在感は周囲の大気すらも圧迫し、背後に立つ黒ウサギは戦ってもいないのに身震いしてしまった。
「この状況でも未だに逃げ出さないでおるとはたいした小僧だの。その愚かしい度胸に免じて、せいぜい苦しまないように殺してやるとしよう」
「ハっ、随分と偉い口をきくじゃねえか和装ロリ。戦る前から勝つ気満々なのはいいが、そういうのは勝負が終わった後で言いな」
十六夜は不敵な笑みを浮かべるが、その構えからは一縷の隙も作らない。
彼は白夜叉が現れた瞬間、本能的にもう理解していたのだ。“こいつは、俺が今まで出会った中で間違いなく最強の相手だ”と。
一瞬の油断が即生死を分ける。そんな極限の緊張状態でありながら、それでも十六夜の精神は喜びと感動で満ち溢れていた。
(これだよ。俺はこんな奴と出会えるのを待ってたんだ。前の世界、日本で暮らしていた頃じゃ決して味わえないこの高揚感。一度でいいから試してみたかった全力の真剣勝負。久しぶりに、楽しくなりそうじゃねえか)
拳を握り、足に力を入れ、その指先から全身へ至るまで意識を張り巡らせる。
(……本当に、
見知った顔が頭を過るがすぐに振り払う。今気を緩めれば、それは間違いなく致命傷へと繋がるからだ。
相手との間合いを測りながら、いつ仕掛けるべきか思考を巡らせる十六夜。
「や、止めるのですよ十六夜さん!! 白夜叉様も、どうか怒りを静めて話を聞いては下さいませんか!?」
十六夜が最初の一手を決め攻撃しようとしたところで、黒ウサギが二人を止めようと仲裁の声を出す。
「誰じゃ? 言っておくが、サウザンドアイズへ喧嘩を売った以上、今更頭を下げて許してもらおうなどと思ってはいないだろう……」
振り返り後ろに立っていた黒ウサギを見た瞬間、白夜叉から発せられていた威圧感が完全に消え去った。急に覇気が失われたことで、対峙していた十六夜は攻撃を仕掛けるべきか判断に迷ってしまう。
「おい、どうしたよ。いつまでも敵へ背中を向けるのは危ないーー」
「いぃぃぃぃやほおぉぉぉぉぉぉぉ! 久しぶりだな黒ウサギイィィィィ!」
十六夜の言葉を切り裂き、白夜叉は脇目も振らず黒ウサギ目掛け爆走していった。
「きゃあーーーーーー………!」
着物風の服を着た白髪幼女に抱き付かれた黒ウサギが、髪だけでなく顔までトマトのように真っ赤となる。発育の良い黒ウサギの身体にくっ付いた白夜叉は、その豊満な胸に顔を埋め擦り付け回していた。
「フフ、フホホフホホホ! やはり黒ウサギは触り心地が違うのう! 三ヶ月ぶりの肌心地と胸心地がこんなに良いものとは! おぬし、しばらく見ぬ間にまたいろいろと成長したのではないか!」
「白夜叉様! ちょ、ちょっと離れてください!」
「ほれ、ここが良いかここが良いのか! フホホホハハハハハハ!」
スリスリスリ。
涙目になる黒ウサギの懇願を無視して、白夜叉はさらに体の密着度を強めていく。
一人取り残された十六夜は、毒気を抜かれたように深い息を吐きながら顔を上げる。真っ新な青空で、無数の雲群がのんびりと流れ続けていた。
「……あ。そういえば、もうホームルームが始まる時間だな」
この瞬間、二人の遅刻が確定した。