朝の小鳥がさえずる声でエディは目を覚ました。親鳥が甲斐甲斐しく子どもにエサをやる姿を確認して今日の身支度を整える。
小さな鏡台の前に座り髪を梳く。
首に下げたクリスタルが光を反射する。取り外し式のヘッド・コンデンサだ。
これはファティマにとってとても重要なものです。
胸元のそれを指先でいじりながら、今日は何をするのだろうかと思考する。
剣術の練習はしているが光剣の扱いはまだ慣れない。先日投げたときもあまり自信がなかった。
当たったのも相手が動かなかったからだ。
おぞましくも少女を犯す騎士相手に立ち向かうには相手が油断していなければいけなかった。
それは正しい判断であったはずだ。
結果的に少女が傷付けられるのを傍観することになってしまった。エディの物思いは沈み込む。今日は剣術の練習はなしでいい。
気持ちを切り替えようとタンスから服を取り出してベッドに順番に並べていく。
週末はお父様とお出かけをする日です。
週に一度。一緒にお買い物をしたり、本を読んで人前で朗読したり、外に出て勉強をするのです。
人前に出て話すための訓練でもあるのでお父様は助けてくれません。これも社会勉強のためだそうです。
話しかけるのはいいが親しくするのは禁止だと言われました。親愛の情を示されてもファティマは友人になってはいけないのです。
ファティマに親しくしてくれる人は珍しいと聞きます。
はい、私はお父様の言うとおり、ちゃんと人に話しかけて答えをもらう事ができます。
お城の人とはみんな顔馴染みになりました。でも、向こうからは滅多に話しかけてきてくれません。
彼らは──掃除をする人。料理を作る人。庭を手入れする人。領主の身の回りの世話をする人がいます。
彼らは私のことをお嬢様(マドモアゼル)と呼んでいます。それと同じようにお父様は閣下(ムッシュ)と呼ばれています。
シュロは多国籍な人種が多い町です。昔の鉱山全盛期に各地から人が集まってできた町だということです。
今でも街にいけばいくつかの言語が交じり合った言葉を聞くことができます。多数派を占めた人の言葉が今でも残っているのだと町の創設資料に書かれていました。
いけない。時間に遅れてしまう──お父様は時間に厳しいのだ。
ファティマ用のスモックスカートを身につける。お父様に指定されたものだ。
成人したファティマが身に付けるファティマ・スーツよりもスモックは柔らかみがあって普通の衣服とあまり変わるところがない。
黒のロングスカートはファティマに定められた服装基準ではありません。でも私はお父様が着ろというものを着ます。
その上にカレントスーツと呼ばれるコートを羽織り、帽子をかぶれば日常の外出着は完成する。
ああ、帽子をかぶるのも服装規定から外れているようですね。
よし……
出かける最後のチェックに小窓を開けて外を観察する。ひさしの下の鳥の巣を見て今日の元気をもらうのだ。
親鳥はエサを取りに行って留守だ。ピーピー鳴く小鳥たちに「行ってきます」と挨拶をしてエディは部屋を出た。
◆
ブーツを鳴らして黒衣のグラン・コークスがル=フィヨンド館の広い玄関ホールに立つ。
アーチを描く天井の天窓から降り注ぐステンドグラスの光がよく磨かれたホールの床に反射する。その光が冷たい玄関の空気を暖かなものにしていた。
壁際にかけられた古時計が太い針を揺らし針が時刻九時を指す。規則正しい音が人気のない廊下に鳴り響く。
城の使用人たちは館のそれぞれの配置で仕事をしているはずだ。
「エディ、まだか?」
グランの声が響き、少し遅れて返答が返ってくる。
「はい、お父様」
返答の後、エディが奥から姿を現す。その傍らに大きな鞄を片手で持っている。
大の大人でもやっと持ち上げられる医療用の鞄だ。それを顔色一つ変えずにグランの元に運んでいく。
外出用の医療カバンだが緊急医療の道具も入っていて軽く五〇キロ相当の重さがある。
細身の少女が持つにはアンバランスな代物だがファティマはただの華奢な人形ではない。
重いといえば重いけれど大事なものです。
エディはグランの隣に並んで真上を見上げた。この館で最も美しい天井が玄関にある。
天井から差し込む赤や青のグラスが生み出した光の模様が創り出す世界は厳かで幻想世界への入り口、もしくは出口のように思えた。
エディの格好はグランに倣うように黒一色だ。
黒いファーの帽子に、同色のコートに膝下まであるスカート。そして手袋からつま先まで、どこまでも黒で表現されている。
身を包む服の素材は合成繊維ではなくすべてが天然素材の服だ。
スモック以外で身につける細かい品も高級品であった。ファティマの身を包む手袋さえも一般人には手が届かない品である。
それ以外のものをファティマのデリケートな肉体は受け付けない。劣性遺伝の塊であるファティマはささいなアレルギーすらも致命的な病となりえるのだ。
それゆえにファティマを所有するということは体調や精神の管理にと大変な資金を必要とするのだ。
間違っても一般家庭の家政婦のように扱えるものではなかった。が、グランはまったく気にすることなくエディを使っている。
それは多くの場合、普通の騎士がするようにであった。
「やあ、おはよう。お出かけかい? お洒落さんだね」
ホールに青年の声が響く。ホール上の階段の手すりに身を預けてソープがいた。
「おはようございます。ソープ様」
向き直ってエディは頭を下げてソープに挨拶する。
ただの挨拶だというのに緊張してしまう。ソープ様にだけこうなるのはどこかおかしいのかもしれません。お父様に診てもらわなくては。
「領主閣下様もおはよう。今朝はちょっと冷えたね。朝食は済ませたの?」
ソープの問いにグランは答えない。代わりにエディが返答する。
「はい、先ほど」
「僕はお腹ぺこぺこだよ」
「いつまでも寝ているから食べ損ねるんだ」
グランが振り返って言った。
「それより、ここに駐屯騎士を置かないのはやはり物騒じゃないかと思うよ? 治安だけじゃなくて、ここも危なくないかな?」
「過剰な武力は厄介事を持ち込むものだ。近頃のモータヘッド狩りの手合いも相手がいなければシュロなど眼中にはいれんよ」
「そうかもしれないね」
MH狩り?
初めて聞く話だ。二人は把握しているようだが……
「貴様は貴様の仕事をしていれば良い」
「そうだね、午後いっぱいは調整から初めさせてもらうし、必要になったら彼女を借りるよ」
「はい?」
自分のことだと気がついて生返事を返す。エディを見てソープがにっこり笑って返す。
それがまるで不意打ちのようにも感じて胸がドキドキした。
私の回路がざわめく。
ちょっと危険信号。
収まれ、私の心臓。
ダムゲートが働いてエディは平静さをすぐに取り戻す。
「では僕は下に降りるけど、閣下をよろしくね。お姫様」
「はい、お任せ下さい」
当然の返事を返す。お父様のお世話はエディの役目だ。
家長に従う娘のようにお父様の日常生活の世話をしたから、塔に出入りする使用人の仕事が減って感謝されていた。
元々、城には最低限の使用人しか置いていなかったからだ。
グランが城主として活動することの多いル=フィヨンド館の管理をするのは大変なことだ。古い建物なうえに、この地の気候もあって修繕を控えた場所がいくつもある。
グランとエディは父と娘というよりも祖父と孫娘という関係性で使用人からは見られている。気難しい老人の世話は大変なのだ。
ほどなくして城から黒いディグが門を抜けてシュロの町へと降りていく。
◆
ル=フィヨンド館はグラン・コークスが所有する城だ。館の周囲に四つの塔を持ち城は切り立った崖の上にある。
その城下町であるシュロ市は谷の狭間にあり、外縁部に古風な城郭を持つ人口五万人を擁する小都市でもあった。
シュロは古い歴史を持つ。炭鉱町として賑わったのが三〇〇年前ほどで、今では稀少となった金属の採掘を行っていた。
シュロは独立性を持った自治領である。一切の武力を持たない中立都市であり、軍事的な意味合いを持たないことから重要な拠点でもない。
そのシュロ市の現在の自治領主がグラン・コークスだ。その名前を表に出すことを嫌ったグランが領主名として名乗っているのが、サロモン・ルイ・ミッテラン子爵という名前だった。
それゆえにファティマ・マイトのグラン・コークスとしての名はあまり浸透していない。
城の外での名称は閣下殿(ムッシュ)だ。シュロ市の住民でその風変わりな自治領主のことを知らない者はいなかった。
毎週休日になると、こうして町に住む地域住民たちの間を廻っては健康診断から治療までを行っているのである。市内の病院でオペをすることもあった。
最近、その同行者にエディが加わっている。
◆
孤児院への慰問は今日が初めてのことだ。エディは人に出会うことに少しばかり緊張する。
人に会うときはいつもこうだ。表に連れ出されるたびに知らない人に会う。
ディグで走っていると街ですれ違う人が手を振って挨拶してくる。挨拶を返したものかと迷うがすぐにその姿は見えなくなっていた。
隣で運転する領主閣下は医務用のグラスアイではなくサンシェードのミラーをかけて運転をしていた。
目を覆ってしまうと黒衣の大男であるグランの印象はかなり威圧的で硬質なものとなる。
どうもあまり、閣下殿(ムッシュ)と呼ばれるのは好きではないようだ。
エディはお父様観察の感想を胸の内で述べる。
言葉で何かを表現することにエディはいまだに躊躇いを覚える。
人と話すのは苦手です……
緊張するとどもってしまうのだ。それが恥ずかしくて口をつぐんでしまう。
お父様から命令されない限りあまり喋らないのはそういうところから来ていた。
でも、ソープ様とはお話できます。外の人なのに不思議な感じです。
シュロ市の外れにあるセント・モルガナ孤児院の広場はレンガの赤い壁が印象的だ。
対照的な黒衣の二人が玄関ホールに立つ。真向いに集められた一二人の子どもたちがいた。
「こんにちは……」
「こんにちはー」
少年少女たちの声が円形になったレンガ壁のホールに一斉にこだまする。白い建物は教会のようにも見えるが孤児院だ。
このセント・モルガナ孤児院では事故や親の死で家を失った子どもたちが収容されている。
挨拶の声をかけたエディが戸惑うようにお父様を振り返る。この後、どうしたらいいのかわからない。子どもを扱ったことはないのだ。
「エディ、子どもを並ばせろ。年の小さい順にな」
「はい……えと、順番に並んでください……」
感情の薄い言葉を投げかけてからその反応に戸惑う。
子どもたちはまったく言うことを聞きそうにない。集まったホールでそれぞれが思い思いの行動を取っていた。
「エディ、もっと大きな声を出せ」
グランがグラスアイと診療道具を身につける。早くしないと叱責が飛んでくる。
「ひゃいっ!」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまい恥ずかしさに包まれる。
……よし、声を出そう。
「み……みーなーさーん。あ、集まってー」
口元に手を当て慣れない声を出して呼びかける。ちゃんと聞こえてるのかしらん?
期待に反して何人かがエディを見たもののまったく言う事を聞いてくれなかった。
子どもの中に義手の子がいるのが目についた。事故か何かで失ったのだろうか?
それよりも反応がないことでエディは尻すぼみだ。
じぇんじぇんダメですし……
「何だ、その気の抜けた声は?」
呆れたようなグランの声がエディに投げかけられる。前門の子どもたち。後門のお父様である。
「う……お父様……」
エディは半ば抗議するようにお父様に視線を返す。
精一杯、出したつもりです……いうこと聞いてくれなくていじけそうです。
エディの顔を見て眉を上げたグランが鼻を鳴らして立ち上がる。
「がきどもっ! 年齢順番に前から並べっ!! 一〇秒以内で飴二つだぞ」
腕を上げてグランが指を二本突き出す。すると、一斉に子どもたちが走り出し年齢順に整列してみせる。まるで飼い慣らされているかのような動きだった。
ガーン……それってありなんですかー。
おとーさま。餌付けしてましたか、そーでしたか。
思わずエディはジト目で見るもグラスアイを付けたその表情を読み取ることは難しい。
「服を脱がせろ」
「はぁい……」
それでも役に立つこともある。予防注射の針を見て何人かの子どもたちが泣き出してしまう。
「大丈夫、ただの皮下注射……ほんのちょっとチクリとするだけ……」
そんな子に近くで励ますように寄り添うのがエディの仕事となった。嫌がる子を押さえつけるのは少し嫌だったが。
初めは恐る恐るだった。が、全員が注射を打ち終えるとまるで歴戦の看護婦にでもなったような気持ちになっていた。
最後に飴玉を入れたかごを持って子どもたちの間を廻って飴を渡していく。
義手の子がニッカリと笑って飴玉を掬っていた。その少年の顔が印象に残る。
全部終わって医療器具をカバンにしまいお父様を待った。
すぐ後ろで院長とお父様が話をしている。その声が漏れ聞こえて来る。町の設備の話のようだ。
「感染症を防ぐには衛生をもっと重視しなければならない。もっと清潔にしろ」
「閣下、そうしたいのですが、水が足りないのです。先日、近くの井戸が壊れまして。隣の区画から引くにしても規約があって……」
「フェルナン、町内議会を開け。爺さんどもに何のための議会所か思い出させろ」
この町の水事情はそれなりに問題もある。だがそんな問題はエディの預かり知らぬことだ。町のことは町で、城は城で水を賄っている。
シュロの町は観光資源の維持のために区画の整理を思い切り行えない難点があった。
工事をすれば改善されるが大きく景観を損ねる。違法な増築がされた区域もあり、それも問題となっているが、町のことは町の人間が決めることとして領主は口を出していない。
各区画で使用される井戸水は上水道を流れるもの以外での他区への利用は制限されているから、この区画の井戸水が使えないとなると生活に支障が出かねない。
入り組んでいる貧民街は特に手を入れるのが難しい。
その後、拙いながらエディが絵本の読み聞かせを子どもたちに披露した。
院長夫人が希望したことでエディに頼んできたのだ。「どうしましょうか?」とお父様に聞くと、「お前が自分で決めろ」と言われました。
何とかつっかえながらも最後まで話し終える。
すると、まばらながらも拍手が起こった。
まだ表現方法は鍛えようがあるってことでしょうか?
少しだけ前向きに考えるエディであった。
◆
「病院に寄る」
シュロにも小さな病院がある。領主にして病院長というもう一つの肩書がグランにあるのだ。先日、エディが保護した少女がそこに入院している。
どうしよう……お話してくれるかな?
孤児院で朗読に使った絵本をお見舞い用として持っていた。
保護した赤毛の少女は全然口を聞いてくれなかった。
「どれが好きかな?」
何冊かある絵本の表紙は原色が豊かな色合いの絵だ。電子本よりも子どもにはこういう絵本が受けるのだ。
エディの部屋の本棚に絵本がいくつかあって良さそうなものを選んで持ってきていた。
エディの問いかけには答えず、アイラという名の少女は絵本を食い入るように眺めている。
手に取ったのは騎士とお姫様の物語。ありふれた絵本の内容だ。アイラは俯いたまま絵本のページを捲る。
エディは沈黙に詰まって言葉を捜した。答えてくれない相手への対処法は知らない。
両親を目の前で殺され、自身も強姦された少女にかける言葉を持たなかった。起こった惨劇と、防げなかったことの罪悪感が胸に落ちて少女の前で委縮してしまう。
慰めの言葉を自分が言っていいものかさえわからない。
「エディ、行くぞ」
その声に顔を上げてアイラを見るが、少女は相変わらず無言でページを捲っていた。
「エディ」
促すようにグランの声が響く。
「もう行くね。バイバイ……」
仕方なく立ち上がり小さく手を振ってエディは別れを告げる。アイラは最後まで顔を上げることはなかった。
滞在した時間は短いものだった。何かできたのかといえば何もできることはなかった。
「お父様」
「何だ?」
ディグを運転するグランが答える。
病院を出てディグはセントラル広場に差しかかる。セントラルはシュロで一番人で賑わう場所だ。観光客の大半がここに集まってくる。
市内の安全速度は四〇キロに設定されている。小型のディグがレンガの路地をすり抜けていく。通行人が避けるのを待って前に進む。
「あの子はどうなりますか?」
「引き取り手がいなければ孤児院だな」
グランは視線を前に向けたまま答える。
「孤児院の子たちにもあの子のような目にあった子がいるのですか?」
エディは目線を下げる。思い出すのは凶行の現場だ。二つの家族が無残にも殺害された。犯人は流れの騎士。
「腕のない子どもがいただろう?」
「はい」
孤児院に義手の少年がいた。きらきらした笑顔でエディの印象に残った子だ。
「あれは運良く助かった。親は片親でな。酒場で因縁をつけてきた男に殺されたんだ。犯人は流れの騎士崩れだ。賭博のトラブルで斬られた。そのとばっちりで子どもも巻き込まれた。その犯人は自分が犯した罪の代償を自身で受けることになった」
そこでいったん言葉は切られる。
緩やかなカーブを曲がると、ディグはゆっくりと城へ向かう道を上がり始める。
「……その子は叔母に引き取られたが、女はろくでなしの呑み助だった。その女は病で死んだ。わしが女を看取ったとき、子どもはろくに食べ物も与えられていなかったのだろう。がりがりの瘦せっぽちになっていた。部屋の隅でうずくまってな。それで孤児院に入れた」
「そう……ですか……」
応えてエディは自分の手元を見つめる。お互いに無言になる。
「お前が気に病むことはない。お前を行かせたわしの不注意だ」
それだけ言うと、グランはその後は無言になって城までディグを走らせていた。