回生のライネル~The blessed wild~   作:O-SUM

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○前回のあらすじ

 ガノン「 ( ˘ω˘ ) スヤァ……」




芽生かされた憎悪

   *   *   *

 

 峡谷の頂上から見渡す景色を、かつて人間だった自我は素直な感動を持って眺めていた。

 

 1万年から変わらず雄大にあり続ける巨大な火山。人を寄せ付けない神秘の力を保ち続ける、コログ共の立て籠もる森。起伏に富んだ山々は年月の経過によって記憶の中とは色や形が大きく様変わりしているものの、その変化こそが目を楽しませる。

 眼下を流れる河の煌めく光は穏やかに流れ、そこには時折飛び跳ねて小さな波紋を作る魚がいる。鳥は隊列を組むようにして空を渡っており、力強く羽ばたく様からは、命の脈動を感じてならない。吹き抜けていく風の音は繰り返す音色など一つとしてなく、常に新鮮な響きを奏で続ける。

 

 ……所詮こんな感慨を抱く意識など、周囲に纏っている魔力が尽きれば消えて失くなる幻に過ぎないのは分かっている。

 魔力で編まれた一時の靄のような体では風を感じる触覚も無ければ、草の匂いや土の味を感じられる嗅覚や味覚に類する感覚器もない。

 しかし、目的とするモノを探し出すために生み出した疑似的な感覚器であるところの視覚と聴覚から伝わるモノだけでも、魔力にこびりついているだけに過ぎない泡沫の自我は思うのだ ――やはりこの世界は美しく、だからこそ俺は求めたのだ、と。

 

 

 けれどそんな景色の中にあるもの全てが、俺の歓迎するもので溢れているということはない。峡谷の頂上にいた存在などは、その最たる例外と言えた。

 封印の地に縛られながら、片時も忘れられず求め続けた憎い、憎いあの気配を垂れ流す"マスターソード"。主の剣士の手に収まるその存在は記憶の中と寸分変わらない姿のままであり、刀身が放つ燐光は払っても払っても我が夢に纏わりつく、世界を侵す汚らしい染みであることを示していた。

 

 かたわらに寄り添う女には気配こそ皆無であったものの、あるいは抱いた怨念は剣士以上の熱が籠もっていたかもしれない。

 何故ならばその顔立ちには、"姫巫女"の直系であることが伺えたからだ。

 この世で最も尊ぶべき「力」をわずかにも帯びていないにも関わらず、ただ受け継いだ血の恩恵と神に縋る弱い心だけで俺の野望を摘んでみせた、いつかの日に対峙した腹立たしい女の面影が残っていたのだ。

 

 この美しい世界の中、変わらず在り方を保ったまま生を謳歌するヤツら。

 (かた)や封印の闇に押し込められ、憎悪と怨念に縛られてのたうつ己。

 

 

 ――嗚呼、忌々(いまいま)しい!

 ――ヤツらの声、笑顔、存在! その全てが恨めしい!!

 

 

 この自我を生み出した大本たる本体は万年を重ねる封印の繰り返しの中で、とうの昔に意識を砕いてしまったというのに。最早夢も野望も抱くことは許されず、積み上げた憎悪と怨念の底の底でただ嘆くことしか出来なくなったというのに!

 

 

 ……そんな怨敵達から視線を転じてみれば、地面に這いつくばる魔物達の中でも最も頂上に近く、そして最後まで立っていた魔物が息絶えようとしている姿が目に入った。

 

 左胸を貫通している刃は、ライネル種が好んで振るう武器の特徴を持った剣だ。最後の激突の際、"マスターソード"を弾かれた剣士が、ポーチから取り出して突き刺したモノ。それが倒れ伏すライネルの背中を貫通してその血に染まった刃を晒している。

 同族の剣によってトドメを刺されるとは、無謀な戦いに臨んだ愚かな魔物の最期らしいという思いも抱きはしたが…… 実のところ、その間もなく死体となるだろう個体に対する悪意は、今となってはそれほど強いものではなかった。

 

 これは、魔物が持つ力の上限の低さを考慮すれば当たり前の思考だろう。

 

 どのみち、魔物達は一般人を征する時には都合の良いモノではあるものの、逸脱した例外を除けば女神由縁の力を持った者達には全く及ばない存在でしかないのだ。多少数が増減したところで、封印を破った時に訪れるだろうヤツらとの戦いにおいて、趨勢を傾ける要素には成り得ないのである。無為に失ってしまったことについては眉を顰めないこともないが、それでもその程度に過ぎない。

 何より、数千年の時を超えても未だ世界に存在する、女神の気配が具現化したような者達を再び目の前にしていることが大きい。負の感情の鎖から解き放たれているはずの泡沫の自我であっても、コイツらの何もかもが許容出来ないほどの憎悪と怨念を噴き上がらせている現状で、その他の存在に対して傾ける悪感情などはあってないようなモノである。

 

 

 ――だからこそ、考えることが出来たのだろう。

 このまま無為に朽ち果てさせるには、この死にゆくライネルは少々惜しい、と。

 

 山頂に移動し終えた時には戦闘は佳境を迎えていた様子であり、その最後の最後を眺めることしか出来なかったが、このライネル種の上位個体であった魔物は、いずれの加護のバックアップも得られていない身にもかかわらず、"マスターソード"の力を正しく解放した強者であったはずの剣士と優に十を越える剣戟を繰り広げていた。

 魔物の群れを引き連れた戦闘開始から遡ったならば、目にした戦闘以上の応酬を重ねていただろうことは想像に難くない。燐光を纏った"マスターソード"の力を知る者としてそれだけの戦闘に耐えられる魔物の存在など、およそ想像すらしたことはなかった。

 

 腕力、瞬発力、反応速度―― そして魔力。この個体が持っていたそれらの「力」は、本体から悠久の記憶を引き継いだ己にとっても、過去に比肩する魔物は数えるほどしか存在しないレベルであったと思えるほどであった。何より駆け引きや剣を取り回す技術などは、決して種に備わった暴力のみで生きていた魔物であったとは思えない。

 恐らく種を代表するような、当代随一の傑出した力と意識を持った存在であったことは間違いないのだろう。

 

 魔物の本能で我が本体の復活が間近に迫っていることを察したのか。それとも優れた知性でもって、"マスターソード"の脅威を嗅ぎ付けたのか。

 ヤツは知ったのだ。人の勇者を倒さなければ、魔物はいずれ滅びると。

 そしてこれほどの軍勢を成すほどに木端の魔物を集めたのだ。力に慢心せず、周囲に呼び掛け、恐らくは魔物達の今後を憂えた結果の挙兵だったのだろう。

 経過はどうあれ今も残る"マスターソード"の欠けた刀身をみるに、きっとこの個体はあの剣士をそれなり以上に追い込めたに違いない。

 ……まだ我が本体の復活には遠く、周囲に残された魔物もいない以上、その頑張りは全くの無駄となってしまったワケだが。あの程度では半日とせず修復してしまうだろう。

 

 戦いの終わり、いくつかの器官ごと心臓を破壊された必殺の突きを受けた後。すぐにも倒れ込んで不思議ではない致命傷の中でも腕を真っ直ぐ伸ばし、飛び退く剣士の額へと僅かに爪を引っ掻けられたのが、恐らくは唯一の戦果だろう。

 あんな、細い細い一筋の血を額から零させるためだけに、あの魔物は背負い込んでいただろう全てを無為に終わらせたのだ。

 

 

 ――無念だろうナァ……

 

 

 あの必死に伸ばした爪の先に得た感触は、魔物にどんな思いを抱かせたのか。

 満足だろうか?

 後悔だろうか?

 それとも……憎悪だろうか? 

 

 

 ――口惜しかろうナァ……

 

 

 惜しむらくは、この個体が持つ魔力は憎悪と怨念に濁っていないという1点か。

 

 ライネル上位種。生まれつきなのか、それとも後天的に獲得したのか…… その身に宿す魔力の質は、【厄災】の分体たる思念をして極上だと断言できる代物であった。

 【魔王】なき世界で、これほどの力を持つ魔物。

 ……一度気になれば、興味は次から次へと沸いてくる。

 最早どうしようもなく、この個体が消えることが勿体なく思えてきた。

 

 何かしら強い現世への執着さえあれば、魂はしばらく屍に留まることが叶うはずだ。

 もし本体が蘇り、今度こそ女神の加護を持つ者達を打ち破ったならば我が魔力は大陸に満ちる。そうなれば『あの月』が、もしかするとこの魔物の魂にも影響を与え得るかもしれない。

 

 だが逆に現世への執着が薄ければ、その可能性も無い。

 この魔物が使命感などといったものに突き動かされた個体であり、今も"マスターソード"に対して大した隔意を抱いていないのであれば、現世に留まるだけの強い感情を別口で用意させる必要があった。そうしなければ遠からず、この魂は大陸より消え去るだろう。

 もしかしたら、怨の念に含まれない執着を既にして持っているのかもしれないが、思念にとって感知できる感情といえば、憎悪に始まる負の感情以外には有り得ないのだから。

 さて――?

 

 ――シュゥゥ……

 

 ……思っていたよりも、魔力の飛散する速度が早い。

 意趣返しに死にかけの魔物を蘇らせる程度の魔力ですら、峡谷に辿り着いた頃には失われており、

これ以上の喪失は自我を保つのも難しくなりそうだった。

 

 "マスターソード"と"姫巫女"のどちらか、あるいは両方に何らかの災いをもたらすためにここまで来たのが本来の目的なのだ。これ以上、この魔物に時間を割いている場合ではないかもしれない。

 "剣"や"姫巫女"に干渉したり危害を加える方法を模索する時間はもう、ほとんど残されていないだろう。思いついたとして、それを実行に移せるだけの余力など、最早無いに等しくもあるのだが。

 

 

 ……そんな考えがもたげた時だった。

 靄の耳に相当する感覚器から、かつて人だった意識が騎士と姫の会話を拾ったのは。

 

 ソレは最初こそ、ただ己の憎悪に燃料を投下するだけの戯言として聞き捨てていたが、目の前のライネルが聞いたならばどういう意味を持つのかに思い至った時、消えゆく思念は、靄の中にあるはずの脳裏に閃くモノが走るのを感じた。

 ヤツらの行う何気ない会話。

 これこそが当代随一の魔物を現世に縛り付ける憎しみの鎖となるのだと、直感したが為に。

 

 

 ――これは悪意ではなイ、『親近感』ダ――

 ――無駄なりに楽しい戦いを魅せてくれた魔物の大将殿に贈る、【魔王】の残滓からの褒美とでも思って欲シイ――

 

 自我の消滅まで一刻の猶予もない。

 思念は、躊躇うことなく恩賞の下賜に踏み切った。

 内容は『魔力の譲渡』。

 それまで自らの存在を維持させるために、離れようとする魔力を必死に手繰っていた思念にしてみれば、それは正しく致命的な行いである。

 

 ……一気に喪失する魔力と共に、自我が急速に薄れていく。

 二度とは浮かび上がらない闇の中に自らを溶かす感覚は、極めて短時間でありながらもこの世界を生きた思念にとって、ありもしない背筋が凍りつく錯覚を覚えるほど恐怖をもたらしていた。

 

 しかし【魔王】の残滓は、それでも暗い愉悦の感情に己が身を委ねていることをはっきりと自覚し。その全存在と引き換えに、歪んだ褒美を眼下の魔物へと注ぎ切った。

 

 

   * * * * *

 

 

 ――峡谷の頂きにある岩陰より、自らの信頼する騎士の戦闘風景を見守っていた姫巫女は、その魔物がようやく倒れたことを見届けた。

 

 戦いは終わった。

 最後の最後、騎士の手より"退魔の剣"が弾かれたのを見た時には思わず悲鳴を上げてしまったが、騎士は自身が贈った魔法のポーチから予備の剣を取り出し、それをもって魔物を討ち果たせたことに深く安堵する。

 一瞬予見した、騎士を永遠に失ってしまう未来は姫巫女の精神に強い負担を掛けたが、それがどんな感情から起因する心の動きなのかは、まだ彼女が自覚するところではなかった。

 

 魔物の群れを残らず切り伏せ、姫巫女を守りきったその騎士は、もう動かない魔物を油断なく見据えたまま、未だにその場に留まったまま。

 剣士の目からすれば危険が残っているのかもしれないが、姫巫女からすればその魔物は完全に息絶えているように見えた。だが、こと戦闘における判断において、彼女は彼を疑うことはない。

 

 ならばこそ、"退魔の剣"を一刻も早く騎士の手に届けるべきだと、彼女は考えた。

 幸い剣が弾かれた岩陰は、自分の隠れていた場所からほど近い場所にあり、自分が騎士の元に行く途中で拾える場所に転がっていることは確認していたために、そう考えて実行することに抵抗はなかった。

 

 潜んでいた岩陰より出て、拾い上げた"退魔の剣"。

 その刀身に刻まれた傷は、今まで見てきたどんな戦いの後よりも深いモノであるように彼女には思われた。今回の魔物の襲撃は、それほどまでの激戦であったのだ。……守られるばかりの自分の無力さに再び胸が締め付けられるが、今はそれよりも優先することがあると思い直す。

 慎重に、慎重に。万が一魔物が動き出そうものなら、すぐにも"剣"を彼に放って岩陰に避難出来るようにと、じりじりとした動きで騎士の元へと歩き始めた。

 

 ――けれど、その警戒は彼女の思った通り、騎士の杞憂だったようである。

 

 もう少しで大きな声を出さずとも、彼に声を掛けられる場所まで近寄れる。そんな距離まで近づいた辺りで、騎士は戦闘に備えて身構えさせていた体の力を抜いたのだ。彼の中でも、この周囲には危険が無くなったことを確信出来たのだろう。

 ……姫巫女に振り返った騎士の額から流れる一筋の血筋を見て、かつてない負傷に軽いパニックを起こして心配する心を爆発させた彼女を宥めることは、戦場においては一騎当千の彼にしても容易いことではなかったが。

 

 周囲の安全がとりあえず確保されたことを確認した姫巫女は、「まず治療を」と自らのために戦ってくれた騎士に詰め寄るも、頑なに持ったままであった"退魔の剣"を手放すこともしなかった。

 危ないから、と剣を受け取ろうとした彼であったが、彼女は「疲れているのでしょうから、私が元に戻して差し上げます」と譲らない。

 汗に塗れ、泥と返り血で青い英傑の服をマダラに染める彼の姿と見比べ、ただ峡谷を登っただけで何もしていない己の不甲斐なさを痛感した末、少しでも、そしてすぐにでも彼の負担を減らしてあげなくてはと思い至った結果の、やや無駄な熱が篭った思いやりであった。

 

 下手に抵抗しても埒が明かないと感じた彼は身を屈め、背中に背負った鞘へと"退魔の剣"を納める行為を任せることにする。その後、既に血が止まっている額の傷の治療を買って出る彼女の好意もまた、素直に受け取ったのであった。

 ……その際、姫巫女が剣の重さにふらついて鞘口から滑らせてしまった剣先が、少しだけ首元を掠めて地面に突き立った時こそ、この一日で騎士が最も死を感じた瞬間だったのかもしれない。

 

 謝罪と共に繰り返した姫巫女の挑戦の後、"退魔の剣"は主の背中に再び納まることになる。

 この時、剣は騎士の手を一切介することなく、第三者の手によって鞘へと戻されたのだ。

 

 

 

 

 

 ……だから、騎士は気付かなかった。

 

 

 もしその手に"退魔の剣"を持っていたのならば、剣に宿る意思を通してその存在と事象を察知することが出来たかもしれない。

 そうであったならば、もしかすると。

 騎士はもう遺体と呼んで間違いのないライネル族の身体から首を斬り飛ばし、徹底的に破壊し、バラバラの細切れに解体することに踏み切れたかもしれなかった。騎士にあるまじきその所業を決断させるだけのおぞましさが、その肉体に宿ろうとしていることを感じ取ることが出来ていたのなら。

 

 だがそれも、「たられば」の仮定に過ぎないだろう。

 仮に彼が自ずから剣を鞘に収めるべく手に持っていたとしても、怪我は浅くとも体力を大きく磨り減らしていた状態である。戦闘を終えて一度緊張を完全に解いた彼の警戒心は、普段と比べるまでもなく散漫なモノであった。

 

 ……であるならば、結局は気付けなかった可能性が高い。

 それほどまでにソレは、霞のように希薄な存在であったのだから。

 

 この世で最も忌むべき邪悪として語られる【厄災】の名を冠する者から生み出された、粘性を帯びる泥を思わせる魔力。それが不可視ながらも粘つく輝きを伴い、死を待つだけだったはずの魔物の身体にゆっくりと注がれていたことを、魔物の大群をようやく跳ね除け、お互いの無事を静かに喜び合う騎士と姫巫女の2人が気付けなかったとしても、責められる者など在りはしないのだ。

 

 

 ――例えその結果、100年後のハイラルに大きな災いの種を残すことになろうとも。

 

 

   *   *   *

 

 

 "剣"と"姫巫女"の目を掻い潜り、注がれていく【厄災】の魔力。

 しかし魔力に宿っていた思念が予想していたように、その結果が「【ライネル】が復活する」という奇跡に繋がることはない。

 

 単純に奇跡を満たす条件が、この場には揃っていなかったということもある。

 それにそもそも注がれている魔力の総量自体が、【ライネル】という強力な魔物を復活させるためには絶対的に不足していたのだ。……更に付け加えるならば、その魔力は身体を貫通している傷口や破壊された臓器には一切干渉していなかった。

 【厄災】の魔力が向かい、収束している場所。

 ――それは、【ライネル】の頭部であった。

 

 思念にとっては幸いなことに、魔物の魂は肉体が死んでなお、未だ身体に留まっていた。

 立ち会いの中で心臓を破壊され、循環する血を失ってゆっくりと脳死を待つばかりであった彼の脳。そこに黒い魔力が干渉する。

 激痛と後悔、そして謝罪の念に満ちたまま混濁し、肉体の死と共に消失したばかりの意識を再び現世の肉に引き摺り戻すべく、魔力はその力を行使した。

 

 やがて動かない肉体をそのままに、強制的に活動を再開させられた【ライネル】の脳と精神であったが、このままではその人格に許される行為といえば、僅かに伸びた死の間際の猶予時間を使って、暗い闇の中で思考することのみでしかない。

 【魔王】の残滓が保有していた魔力量ではそれ以上の蘇生が難しかったといえばそれまでであるが、それでもその全てを『蘇生』させることに使っていたならば、少なくとも宿った魔力が尽きるまでの時間内という制約はあるものの、【ライネル】の頭部は完全な五感を取り戻すことが叶ってはいたのだ。

 しかしそうならずに脳のみの蘇生に留まった原因。

 それはかつて【魔王】であった人格が意図する『褒美』にあった。

 

 当然ではあるが、魔物と人では意思疎通に用いる言語が大きく異なる。

 紡いできた歴史や文化が大きく異なり、種族単位で敵対している関係でもあることから、お互いの言語に精通する者を見つけることは難しい。

 しかし、かつて人であった【魔王】は人の言葉を解することは勿論、【魔王】と化した後は魔物の言葉に込められた意味すら感覚的に理解出来るようになっていたために、その人格と知識を引き継いだ残滓にとっても、その『褒美』をもたらすことは然程難しい作業ではなかった。

 

 魔力の後押しを受け、【ライネル】の脳がゆっくりと覚醒していく。

 

 活動を徐々に再開する脳の片隅には、注がれた魔力の大部分を費やすことで生み出された目に見えない贈り物が鎮座している。その一時的に生成された魔力塊には感覚器としての機能が持たされ、創造主である思念体からはたった一つの役割を与えられていた。

 

 ……『魔物の脳が理解できる意味へと、"人"の言葉を翻訳して伝える』というただそれだけを、かつて【魔王】であり今は【厄災】となった男の残滓は、その感覚器に求めたのだった。

 

 

   *   *   *

 

 

 【ライネル】としてこの峡谷で"剣"と戦っていた魔物―― その存在が『俺』であることを再び認識した途端、それまでの自分が完全に閉ざされた闇の中にいたことに気付いた。

 

 闇に飲まれる前に浮かべていた思考を思い出すに、途切れる直前までは酷く朧に淀んでいた状態であったはずの自意識が、今は驚くほど明瞭な状態であることにどこか違和感を感じてしまう。それとも死後の者達は皆、こうした心持ちを得るのだろうか?

 

 ……そもそも、自分は死んだのか?

 

 これが死ぬ間際に訪れた瞬間を引き延ばした意識の覚醒状態なのか、それとも完全に死んだことで死後の世界と呼ぶべき場所に意識が移動したのか…… こんなことを考える思考を自我であると認識しながらも、その自分が今一体どんな状態にあるのかが、まるで判断出来なかった。

 

 何しろ今の俺は、「考える」以外に出来ることがないのだ。

 

 目が見えない。

 耳が聞こえない。

 "剣"がどこからか取り出した()()()()()()によって心臓ごと肺を突き破られ、口の中に溢れ返っていたはずの血の味や匂いが一切感じられない。

 致命傷であったと断言出来るその攻撃を受けた後、それでもと必死に伸ばした手の爪先から得られた感触は既に欠片も無く、地面にうつ伏せに近い体勢で倒れこんだはずの体から伝わるべき岩肌の冷たさは勿論、自分が立っているのか座っているのか、それともやはり寝転んでいるのかすらもまるで分からない状態だった。

 

 だから新しい情報を得られない頭に巡る思考は、既に決着がついた戦いを振り返ってしまう。

 死ぬ寸前もしくはもう死んでいる状態であるはずの己にとって、その行為は無益であると分かっているのに、それでも考えてしまう意識は止められない。

 

 ――"剣"を持ち主の手から弾き飛ばしただけで何かを達成したような気になり、その油断を突かれたことで致命傷を負わされた。

 その際に使用してきた得物がかつて討ち取られた()()()()()()(俺の真似をして剣の柄尻に刃を取付ける行為が若者の中で一時流行ったが、振るわれた剣の意匠は間違いなく、かつての弟子がしつこく出来栄えを自慢してきたものだった )であったことに思うところが無いでは無いが、倒した敵の武器を戦利品替わりに用いることは珍しいことではない。それを卑怯だと罵るべきではないだろう。剣士が持っている武器が"剣"のみであると思い込んでいた、己が愚かであっただけに過ぎないのだ。

 ……胸に突き込まれた剣は背中まで一息に貫通し、それがあの戦いの決着となった。

 

 "剣"が単独で孤立しているという状況を知り、【ライネル】としての勝利を優先させるために『彼』の、ネメアンの窮地を知ってなお見捨てた。仮初ではあっても安寧の中に暮らしていた魔物達を戦場へ引き摺り込んだ。

 なのに得られた戦果は、時間を置けば完全に修復してしまうだろう"剣"の傷と、倒れ込む間際、最後の足掻きとして振るった右腕の爪先が、ほんの僅かに剣士の額を引っ掻けてようやく負わせることが叶った、小さな小さな傷とも言えない傷のみだった。

 

 もしこの何も感じられない空間が既に死者の世界であるとしたら、それはある意味で心安らかな場所と言えるのかもしれない。これが死んだ魔物が一堂に会するような空間であったならば、積み上げた命に報いれなかった自分は、激しく非難を浴びたことは間違いない。

 

 (……あぁ、でも)

 

 そんな断罪の場が設けられるのならば、俺はそこに行きたかった。

 そこには多分、『彼』の魂もやってくるはずだから。

 

 【ライネル】にあるまじき行いだろう。唾棄すべき弱音だろう。

 こんな者だと知っていれば称号を譲りはしなかったと責められ、失望と共に見放されることになるかもしれない。

 それでも俺は、彼にもう一度会いたかった。

 会って、彼に謝りたかった。

 

 この戦いに参加を強要した魔物達。

 【ライネル】を信じて同行してくれた同族達。

 永い封印を破り、これから復活する我らの魔王を手助けすることが出来なかったこと。

 今も大陸の上で生き、そしてこれから生まれるだろう全ての魔物達に、"剣"という厄災の脅威を取り除いてやれなかったこと。

 

 まるでその時が来た時の予行練習をするかのように、同じところをグルグルと巡る俺の思考は、己の果たせなかった責任を挙げながら当時の自分の無力を嘆き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 そうして自省と自虐を繰り返すこと暫し。

 ――――――ふと、『声』が聞こえることに気付く。

 

 無明と無音の空間に響く音。

 それは、確かに声だった。

 

 これは、1組の雌雄が会話をしているモノだろうか。

 失意に苛まれていたこの場においては、ひどく相応しくない感情が宿っていることが伺えるその声はどこか不快であった。だが刹那とも永劫とも区別のつかないあやふやな時間を闇の中で過ごすことを強いられていた意識は、砂漠の中で一滴の水を見つけたような飢餓感を持って、ようやく訪れた外部からの刺激に飛び付いた。

 

 声を拾っているらしい『耳』を無意識に澄ませ、その内容を聴き取ることに努める。

 どんな下らない話でも構わない。自分の置かれた現状を、まずは少しでも探れる材料が欲しかった。

 

 ……声を発しているのは主に雌であり、その声自体には聞き覚えが無かったものの、時折混じる雄が発する相槌の声が、その2人の正体を察せさせた。

 雄の声質は"剣"を振り下ろす際の気合の掛け声など、この闇の中に包まれる直前まで間近に聞いていたのだ。まず間違いなく、この会話は"剣"の主と、その同行者の間で行われているものだと断言出来る。

 ……だが何故。ヒトの言葉など学んだことのない己が、ヒトの会話を聴き取ることが出来ているのだろうか。不思議と声の主がそうであると確信出来たり、そこに至るまでの過程に違和感を持たなかった自分の思考に今更ながらの気持ち悪さを感じてしまう。

 

 

 

 しかしそんな疑問は、すぐさま頭の中から跡形もなく押し流された。

 交わされる人族の会話が、【ライネル】の心をかつてないほどに揺さぶったのである。

 

 

 ――たいした傷では……ないようですが……

 ――けれどこのところ、少し無茶し過ぎです。貴方だって不死身じゃないんですよ?

 

 (それは多くの戦士達の命に加え、俺の全てを捧げてようやく得られたたった一つの戦果、あの小さな額の傷を指しているのか? ……少しの無茶をする程度の労力を払うだけで、容易く殺し尽くせる程度の存在だと、ヤツらは俺達を見做しているのか……!?)

 

 その言葉からは一切の虚飾を感じられなかった。

 心を込め、真摯に相手へと語り掛ける者の口調だった。

 だからこそ、その程度の認識しか持たれなかった己の力不足が情けなかった。そして、魔物の未来を賭けたはずの戦いを何とも思っていないその会話が、彼らに対して今までさほど抱いていなかったはずの感情を浮上させた。

 戦いの最中、戦士として感じていた剣士への賞賛の気持ちの裏で、ヤツは味方や同族に殺戮の限りを尽くした怨敵だと、倒れる魔物の数を数えつつ、しかし冷静に立ち回るべきだと沈めてきたはずのその感情。

 鎌首をもたげたその熱の名前は―― 憎悪。

 

 

 ――最近、魔物に襲われたという報告が増えています。あのような強靭な種族までも混じってきていると……

 ――やはりこれは、厄災復活の予兆と考えるべきなのでしょうか……

 

 (魔王の波動が我らを暴れさせているとでも思っているのか……! 貴様達が喰うためでもなく魔物を殺すから、我らは自衛のために戦ったのだ! 熟練の戦士が狩りや襲撃に加わるのは、そうしなければ弱い者を守れないからだ!

 ……厄災、復活だと?

 それが我らの魔王のことを指しているのであれば、見当違いも甚だしい! その名は地に満ちていた魔物を、住むには適さない山や僻地にことごとく追いやり、見つければ有無を言わずに狩り殺す、貴様達にこそ相応しいはずではないか……!

 少なくとも魔王の力は、魔物の生を脅かしはしない。全ての存在に分け隔てなく、魔力というささやかな祝福を授けるだけに過ぎないのだぞ……

 ……厄災は、【厄災】と呼ばれるべきは、貴様達の方だ!! )

 

  魔物の守護者たる勇者を自認する【ライネル】の矜持がそうさせるのか。魔物に恵みをもたらす神を不当に貶められたことに起因するのか。……それとも、脳の片隅に宿る魔力が何らかの影響を及ぼしているのか。

 【ライネル】の意思は、ただ叫んでいた。

 声は変わらず出ないまま。それでも(はし)る思いの噴出を止めることは出来なかった。

 

 その瞬間だけ、『彼』への悔悟の気持ちはなく、率いた者達への負い目も忘れ、"剣"を十全以上に扱う強者へ確かに抱いていた戦闘者としての敬意を完全に捨て去った、特定の個人へ向けて怨嗟を叫ぶ1匹の獣がそこにいた。

 

 

 ――さぁ急ぎましょう

 ――最悪を想定し、万全の構えを敷いておかねばなりません

 

 

 待て、と。

 

 気炎を上げ続ける脳がそう叫ばせようとしたその時。一度は完全に晴れたはずの思考をに覆い隠していた靄が再び、今度は急速に広がり出すのを感じた。

 どうして、何故今なのだ、と意識を零す【ライネル】にはその原因を思い至ることは出来ない。自身の脳を延命させるために注がれた【魔王】の魔力が今、完全に霧散してしまったことなど、その時意識を失っていた彼に気付けるはずもないのだから。

 

 まだ奇跡的に考える力を持っていた意識の欠片は、せめて最後に殺意を浮かべようとしたものの、思考を侵す漆黒の闇は何ら配慮することなくその全てを飲み込み、心臓を破壊された生物が本来あるべき形へと肉体の状態を戻したのであった。

 

 

 

 

 ――休憩が終わり、下ろしていた腰を上げる2人の人族。

 去ってゆく彼らの背中を止める者は、ここにはもういない。

 

 オルディン峡谷を並んで下り始める"剣"と"姫巫女"の背後で、ようやく【ライネル】は『死体』と成り果てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   * * * * *

 

 

 

 ――グジュ。

 

 肉塊が、嗤った。

 

 

 

 




 主人公死亡(ガチ)

 そして魔王の残滓による【ライネル】への手厚いアプローチ
 (やり方が厄災寄り鬼畜方式なのは仕様)


 明るい話が書きたい……キャッキャウフフ分が絶望的に足りない……

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