回生のライネル~The blessed wild~   作:O-SUM

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○今章のあらすじ


 『恋愛』編、始まります。






2章 赤肌のボコブリン
名無しの子鬼


   * * * * *

 

 

 「その土地」は、どうしてこんな台地となったのか――

 

 それを正確に知る者は、現代にはいない。

 もしそうした疑問を抱く者がいたとして、さらに原因を探ろう思い立って過去の歴史をどれだけ遡ってみたところで、はっきりとした経緯を特定することは難しいだろう。

 

 最も有力にして唯一の方法は当時の出来事を言い伝えとして語る、僅かな古文書の記述に手掛かりを求めることではあるが、先人達が当時最も後世に言い残したかった【厄災】の脅威を伝える目的で編纂されたソレでは、この「台地」が生まれた背景を探る灯火としてはあまりに頼りなかった。

 いくつかの関連する記述を見つけることは出来るかもしれない。しかし御伽噺として語られる昔には既に、台地はその場所で泰然と(そび)えていることが伝わっているとするモノばかりであり、今を生きる者にその来歴を知る手段は皆無と言って良かった。

 

 文献や資料が無いなら現地に行って台地を登り、直接調べれば何かが分かるのではないかと考える者もいる。

 だがそんな思い付きは実際に台地へと赴き、その威容を目にしたことのない者だから出てくる提案であると断言せざるを得ない。そしてもし実物を見てなおその意見を変えないならば、その者は嘲笑をもって蔑まれるだろう …… どうやって『登る』気なのだ、と。

 

 大陸の地上と台地の頂上を分けて隔てる岩盤は、その頂上に存在するはずの平地に至るまで角度がほとんど存在せず、断崖絶壁となって聳え立っている。下界たる地上からどれだけ見上げようとも、厚い雲を突き抜けてなお続くその巨大な壁面は、真っ当な視力でその頂点を伺い知ることなど不可能だった。

 

 もちろん翼を持ったリト族がどれだけ羽ばたこうと、雲の上に霞む台地へ辿り着けるはずもなく、山に生きるゴロン族がその太い腕を駆使したところで、海抜にして途方もない高さにある頂上へとその指を掛けることなど夢のまた夢である。

 台地より唯一地上へと流れ落ちる滝は、あまりにも異なる落差によってその大部分が地表に辿り着く遥か上空で飛沫となり、霧となって雲を形成するままという有様なのだ。もし地表に落ちる僅かな滝の一部を辿ってゾーラ族の者が滝登りを敢行しようとも、途中で水を掴み損ねるか体力が尽き、挑戦した者は滝の上流に流れるとされる川の名が示す通りの『黄泉の川』へと流れ着くこととなるだろう。

 

 行くことも出来なければ、戻ることも出来ない。地に住まう者には、ただ見上げることしか許されない秘境中の秘境。

 そんな成り立ち不明の巨大な台地を、人々は『はじまりの台地』と呼ぶ。

 

 王国が【厄災ガノン】の手によって崩壊してより、もうすぐ100年が経ちながらも人がそうして呼び習わすのには理由がある。……その土地は決して、人跡未踏の地という訳ではないのだ。

 

 かつての王国を知り、今も生き残っている祭祀や村の老人曰く―― その台地には王国が建国される際に深い謂れを持って建立された大神殿、『時の神殿』なるものが存在するという。

 その神殿を直接見たことがある国民は決して多くはなかった。恐らく王国がまだ国体を維持していた時代には、ただ祭事の対象として台地を尊んでいたに過ぎなかったのだろう。しかし国の象徴であった王城は【大厄災】の折に崩壊し、その原因が封印された今も、不吉というにはあまりにも禍々しい気配を漂わせる土地へと姿を変えてしまっていた。

 【厄災ガノン】の爪痕が色濃く残る世界を生きる人々にとって、そんな無残な王城はかつて繁栄した国を想う対象として見ることは難しい。

 

 そうした背景があるからこそ、『はじまり』の象徴に関わる逸話を持ちながらも実体が見えないその台地が、昔の栄華を重ね透かして記憶の中の亡国を穏やかに偲ばせる対象に選ばれ、世代を超えて尊ばれるようになったのである。

 

 懐古の念に駆られた時。

 女神の加護に感謝を捧げ、あるいは求める時。

 人族は皆あたかも縋るように、『はじまりの台地』へ祈りを捧げるようになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――もちろん、それは人族側の事情にすぎない。

 

 『はじまりの台地』は言わば、外界と隔絶された陸の孤島である。

 その切り離された世界の中に、下界の人族の想いなどが影響する余地などはない。100年に迫る年月の経過はその地に朽ちた神殿や祠だけを残し、生きた人族を絶滅させるに至っていた。

 

 台地の上に今も息づくのは虫や獣、鳥……そして魔物のみであった。

 

 いわゆる【大厄災】を経て、天上に昇るようになった赤い月がもたらす『ブラッディムーン現象』の加護により、台地に住まう人魔の力関係が逆転させていたことなど、台地へと往来する手段を失って久しい地上の人族には知る由もないだろう。しかし現実として、人々が祈りと共に見上げる台地の頂上は、既に人の領域ではなかった。

 かつての繁栄の影を感じさせる建築物の残骸だけを残し、生存競争に敗れて絶え果てた人族に代わり土地の覇権を握った魔物こそが、今の台地の支配者なのである。

 

 天敵を排し、食物連鎖の頂点となった彼らの命が脅かされることは激減した。命半ばに死ぬ個体より生まれてくる個体の数が上回る状況が続き、群れの規模は年々大きく膨らんでいる。

 群れの中には時々新しいコミュニティが生まれ、新天地を求めて別の場所へと独立するなどの変化も度々見られた。その繰り返しで今や広く台地に分布するようになった魔物であるが、肥沃な食物に富み、清水も溢れるこの巨大な箱庭は、そうした増え続ける魔物達の腹を満たし続けた。

 いずれは食糧不足に陥り、群れ同士が争う未来が訪れるかもしれない。しかし【厄災】の加護は食物にまで及び、赤い満月と共に再び実りを迎える食糧を前にしては、その心配は杞憂で終わりそうですらある。

 少なくとも今、台地に住む魔物達にとって常に命の心配をしながら腹を空かせる生活とは、遠い過去の出来事でしかなかった。

 

 衣に不満はなく、食に満ち、住む場所を脅かす存在もいない。

 大手を振って世を謳歌するようになった彼らは、それぞれのコミュニティの中で独自の文化生活を形成するに至っている。

 

 『はじまりの台地』の中央よりやや北部に広がる、かつては『精霊の森』と呼ばれた森と、台地の東部に建てられたまま既に廃墟となって久しい『時の神殿跡』の境目に位置する地域一帯―― を縄張りとする、台地において一際大きな群れもまた、そんな文化を築いた部族の一つであった。

 

 現在、【厄災】が再び封印された年より、99年の歳月が過ぎていた。

 ……そして明日はその100年目を刻む、節目ともいうべき時でもあった。

 

 本来、魔物の多くは暦を用いる習慣がない。

 大陸中にいる彼らと同族の種もほとんどはそうした文化を持たなかったが、彼らはその中でも例外に当てはまる部族だった。人間達の残した廃墟より獲得した知識の欠片から、拙いながらも年月のしるし方を学んでいたのである。

 それは年単位の経過をかろうじて計る程度のモノではあったが、その記録に基づいて彼らは大きなイベントを催す計画を立てていた。そしてその開催日は偶然の一致か、明日の夜に定められていた。

 

 内容は族長の元で執り行われる、『最優の雄』を決める決闘。

 世界を加護で満たして自分達を救った魔物の神に捧げる、神聖にして特別な意味を込めた行事であった。

 

 彼らの一族は名誉と共に()()()()を賭けた、その一大行事に大きな関心と熱意を寄せていた。

 イベントの会場となる(ねぐら)の中心、自然と人工物の狭間に位置する場所に前々から設営していた戦いの場には、老若男女を問わず多くの者達が集まっている。

 ……前日にも関わらずそれだけの者が集まっているのは、何も設営準備のためばかりではない。以前より予定していた催しである以上、既にそれほど人数を要する作業は残っていないのだ。形を整えた石を並べて作った円の中を砂で高く盛り、遠くからでも舞台上で戦う者達の姿が見えるように(あつら)えられた空間は、この瞬間に戦いが始められたとしても立派にその役目を果たすだろう。

 

 では、何故彼らはそこにいるのか?

 

 それは明日の決闘に参加する、部族を代表する屈強な狩人達が狩りから無事に戻ってくるのを願うためであり―― そんな彼らが持ち帰る肉が前日の『宴』として今夜、この場で盛大に振る舞われることを知っていたからであった。

 狩りの成果は決闘の儀に影響するものではなかったが、大抵の参加者達はここぞとばかりに奮起し、他のライバルよりも大きな得物を狩ってみせることで牽制、あるいは観客に力を見せつけるのである。

 

 そして今回の催しに参加する顔ぶれの中に、あの()()()も参加するというのも、この場に多くの野次馬を集まる要因の1つだろう。

 人族の暦にして1年ほど前に訪れた、赤い月の祝福を受けて蘇る同胞達に混じるようにして現れたソイツは、かつて誰よりも足手纏いであった。だが半年も過ぎた頃には縄張りを荒らしていた巨大な熊を打ち倒すようになり、今や優勝候補に挙げられるほどの注目株となっていた。

 

 ――太陽の陽が、もうすぐ夕方を示す角度へと傾こうとしている。

 そろそろ狩りに出掛けた雄達が帰ってくる頃合いだ。

 

 かつてソイツから分けて貰った、巨大な熊肉の味を思い出した1匹のボコブリンの腹を鳴らす音が、祭り前夜の喧騒の中に紛れて消えていった。

 

 

 

   *   *   *

 

 

 

 (今日は、風が強かったんだなぁ…… )

 

 千切れるようにして飛ぶ雲が形を変えながら、いつもより早いスピードで空を流れている。

 

 見上げることを強制された視界に映るのは、背の高い木々から突き出るようにして伸びまくった枝の向こう側。折り重なった木の葉の切れ間から覗く、ぼんやりと赤く染まり始めた空だった。

 

 (……なんて馬鹿なことをしちゃったんだろう )

 

 自分を跳ね飛ばした大猪が、反転する気配が伝わってくる。どうやら、そのまま駆け抜けてどこかに消えてくれるなんて幸運はなかったようだ。倒れた時、強かに打ちつけてしまったことでぼんやりとする脳を包む頭蓋骨に響く振動は、猪が地面を掻いている動作に過ぎないのか―― それとも、もう突進してきているのか。

 

 死ぬ。

 そんな思いが色濃く浮かんでくる思考も、ぐちゃぐちゃに混乱した上に痛みで胡乱(うろん)な頭では、あまり恐怖を感じることもなかった。

 

 ただ思うのは、身の程知らずの妄想に振り回されて馬鹿げた行動を取ってしまった、愚かな自分への後悔と罵倒だけだった。

 

 

 

 

 

 ――自分は、まだ『赤肌』である。

 

 ようやく最近、皆に混じって狩りに参加出来るようになれたという程度の実力しか持たないのに、青肌の戦士達もが参加する決闘の場で勝ち残れるなんて、夢にも思っていない。

 それでも戦士の末席に身を置いている以上は『宴』に参加することは義務みたいなものだから、安穏と集落に留まっているわけにはいかなかった。今日という日だけは、『最優の雄』を決める前哨戦ということで集団の狩りを認められていない。しかし、尻込みする姿を皆に晒すことは出来ない。

 

 決闘の場で、仲間を守り敵を倒せる「戦士」の力を示すことが難しいにしても、狩人としては糧を得られることを証明しておかないと、今後の生活に差し障りが出かねない。臆病者の(そし)りを受ければ最悪、2度と狩りに連れて行って貰えない可能性すらあるのだから。

 

 けれど、それと無茶をするかどうかは話が別だ。

 生きてこそ――。 死んでしまったり詰まらない怪我をしては元も子もない。

 

 有力者達は大型の獣が生息する狩場の森へと先を争うように分け入って行ったけど、自分はそうしなかった。大型の獣と出会えたところで、自分が仕留められるとは思わない。視界の悪い危険が多そうな場所を避け、見晴らしの良い水場を沿って山を登ることにしたのだって、その辺りの場所は大きな獣も少なく、いても小さな鳥や野兎がせいぜいだということを知っていたからだ。

 

 自身の実力なら、そんな獣の1匹でも狩れれば御の字。最悪川を泳ぐ魚を数匹確保出来たなら、狩りの成果としては十分だろう。

 

 (そう思っていたのになぁ )

 

 ――そんなことを考えていた先に見つけてしまったのが、こちらに背を向けたまま川の水を飲んでいる、1体の大猪だった。

 

 手を出すべきじゃない。

 最初は、本当にそう思ったのだ。

 

 身体を包む毛皮はごわごわと分厚く、呼吸する度に膨らむその皮の下からは、みっしりとした筋肉の躍動が感じられる。飢えて痩せた獣の気配は皆無であり、十分な餌を獲得している強者の風格すらひしひしと伝わってくるのである。手に持った唯一の武器である棍棒では、とてもあの猪を仕留められる気がしなかった。

 そして時折顔を上げて周囲を見渡す猪の口元。背後から盗み見る中でも気付けるほどであった巨大な2本の牙が、下アゴから突き出ている様はとても恐ろしいものだった。仮にこのまま忍び寄って棍棒の一撃を運良く打ち込めたとしても、あの筋肉の塊を一撃で倒すことは不可能だろう。逆に筋力を活かした突進を喰らって、あの牙に突き上げられるのがオチだ。

 

 音を立てないように、慎重に。足元へ細心の注意を払いながら後ろ足で後退する。

 川沿いに登る中で、魚の影は確認できたのだ。数匹回収して帰れば、それで狩りの成果としては及第点。何も危険を犯す必要はない。

 

 そう考えられる自らの冷静さに安心しながら、ゆっくりとその場を離れようとして―― 目の前の恐ろしい猪が唐突に足をふらつかせ、たたらを踏む姿を目にしてしまった。

 

 思わず、また一歩下がろうとしていた足を止めてしまう。

 

 (もしかして、怪我をしているのか? )

 

 弱っている?…… そんな意識でもう一度猪を観察し直せば、その足元はひどく頼りなく震えているようであった。水を飲みながらもしきりに周囲を見渡そうと顔を上げる姿は、襲撃者に怯える小動物を思わせる。よくよく見れば、顔には何度も固いモノで殴打されたことが伺えるアザのようなものまで浮かんでいるではないか。

 

 恐らくは何者かの攻撃を受けた後、命からがらここまで逃げてきたのがあの大猪なのではないだろうか。そしてそのダメージは見たところ、その身体に色濃く残っている。

 大猪が、再び後ろ足をふらつかせた。

 

 ――もしかすると、今ならあの大猪を倒すことが出来るかもしれない。

 

 他の戦士達の獲物だったのかもしれないが、逃げられたというのであれば、ここであの獣を自分が仕留めることは横取りに当たらない。

 ……『赤肌』の自分が、巨大な猪を倒す。

 それがどれだけ褒め称えられる偉業となるかを想像してしまった。

 

 下がるために動かしていた足を、前に踏み出す。

 もう頭の中は、どうやって目の前の獲物を仕留めるかを考えることしか出来なくなっていた。

 

 そして想像の翼は逞しくも、既に猪を持ち帰る自分の姿を幻視することまで始めている。

 勿論、狩りの成果で『最優の雄』に認められるはずもないとは分かっている。そして、決闘においてはこんな幸運は働かないだろうということも。

 しかしこれほど大きい猪なのだ。間違いなく、今回の狩りでは最も大きな得物として称えられることになるだろう。族長の覚えも良くなることは間違いない。

 ……そしてあの麗しい雌の瞳に見詰められ、甘く言葉を交わす関係を築く切っ掛けを作ることだって、夢じゃなくなるはずだ。

 

 にじり寄る足を、駆け足に変える。

 

 ようやく物音に気付いた得物が、慌てたようにこちらを振り返るももう遅い。そして振り返った頭は丁度、自分が全力で棍棒を振り下ろすには絶好の場所に差し出されていた。

 降って湧いた好機に心を震わせつつも、その脳天を割るべく欲に滾った棍棒を振り下ろした――

 

 

 

 

 

 ……確かに、棍棒は大猪の頭を捉えた。

 千載一遇のチャンスをモノにしたと、その時の自分は幸福の絶頂にあったと思う―― しかし、幸運は「猪の頭に棍棒を当てるまで」という期限付きだったのだ。

 振り下ろした棍棒は獲物の額を確かに叩いてはいたが、その感触は「浅い」の一言に尽きた。なぜなら下アゴから大きく伸びた二つの牙が棍棒の根本に食い込み、勢いを大きく殺してしまっていたからだ。

 そんな一撃では猪から命は勿論、意識を奪うことも叶わなかった。

 煩わしそうに頭を振る獣。その牙に深く食い込んでしまっていた棍棒は、その勢いに負けて手から取り上げられてしまった。

 唯一の武器が奪われたことで混乱した頭は、その場から逃走することよりもソレを取り戻すことを優先させた。そして思わず手を伸ばした体勢で固まった愚かな自分の隙を、正当な怒りに燃える獣は見逃さなかったのである。

 

 直後、腕を上げてがら空きとなった腹に突き刺さったのは、猪の鼻先だった。

 予備動作など存在しない。ふらついていたはずの足とは思えない瞬発性を圧倒的な筋力で実現させた、大猪の突き上げである。

 牙が身体を突き破らなかったのは、その先端に棍棒が突き刺さったまま、盾の役割を果たしたからに過ぎない。だが、それは刃物が鈍器に形を変えたというだけの話でもあった。

 

 筋力と体格、そして重量。あまりにも格差がある両者の衝突は、子鬼の身体を宙に高く打ち上げるという当然の結果となった。

 羽を持たない生き物としては長い滞空時間をかけて地面に叩き付けられる子鬼と、勢い余って走り抜け、おぼつかない足取りで不格好なブレーキを掛ける大猪。ふらつきながらも再び頭を振ることで、ようやく牙から抜け落ちた棍棒には無惨な二つの大穴が刻まれており、殴打する武器としては二度と使い物にはならないことは明白だった。

 子鬼は小さく呻くだけで、未だ立ち上がることも出来そうにない。

 

 

 ――こうして互いに一撃を交換し合った戦闘は、あっけなく大猪に軍配が上がったのである。

 

 

   *   *   *

 

 

 木漏れ日から注がれる光に僅かに目を細めながら、頭に伝わる振動が急速に大きくなっていることに気付いた。どうやら、いよいよトドメを刺す気になったらしい。

 寝転がってるのに頭がぐらぐらと揺れている。気持ち悪くて、油断すると吐きそうだった。幸い骨は折れていないみたいだが、しばらくの間はとても立ち上がれそうになかった。

 ……調子に乗って獣の戦力を見誤った以上、この結果は仕方がないのかもしれない。

 もう、ここから生き延びる可能性は皆無だろう。

 

 (願わくば、こんな愚か者にも『祝福』の加護が訪れますように……)

 

 そう願いつつ、自分の頭を叩き割る蹄を見たくなくて目を閉じた。

 土を蹴りつける音が近づく。

 

 

 ――その時だった。

 差し込んでいた陽の光をすっかり隠すほどの大きな影が自分の頭上に現れたのを、(まぶた)の裏に感じたのは。

 初めは猪なのかと思った。何故なら、もう地面を鳴らす蹄の音が耳に聞こえなかったからだ。頭を踏み抜かれ、痛みもなく死んでしまった後の、ほんの僅かに許された思考の猶予なのだろうと。……しかし頭を揺らす気持ち悪さは健在のまま、自分はまだ生きていた。

 影の正体を確かめたくて思わず目を開いてみても、そこには光を溢す木の葉が見えるだけ。どこに消えたのかと首を巡らせてみれば、果たして大猪が向かってきていた方向に決定的瞬間が起こっていた。

 

 ソレは、まるで坂道を転がり落ちる岩のようだった。

 恐らくは自分を跨いで超えた時から始めていたのだろう、前転しながら跳躍を続ける身体。地面に手や足を叩きつけながら加速を加え、ほとんど球体のような高速回転を繰り返しながら大猪に迫るそれは、確かに同族のモノであったように見えた。

 いつの間にか止んでいた蹄の駆ける音は、真実足を止めていたからだというのも分かった。そしてその大猪の顔には、意味不明なモノを見たというだけではない、明らかな怯えの色が浮かんでいた。…… 恐らくはあの顔のアザをつけた存在こそ、今回転する勢いを活かして高く跳ねた同族なのだろう。

 

 (そう、か。最初にあの猪を獲物にしていたのは、彼だったのか…… )

 

 ――棍棒の風を引き裂く音が、離れた自分の耳にも聞こえてくる。

 直後周辺に響き渡ったのは『ゴズン! 』なのか、それとも『ドゴン! 』だったか。とにかく肉と木の棒がぶつかったにしては余りに重々しい重低音と、

 

 ――プギィィ……

 という、断末魔と呼ぶには余りにか細い大猪の悲鳴だった。

 

 

 

 やがて二度と動かなくなった大猪の絶命を確認したらしい同族が、こちらを振り向く。正面を向いて顔を見せた命の恩人は、やはり自分が思っていた通りの人物だった。

 

 体格や身長は、自分とほとんど変わらない。肌だって赤色である。

 自分をはじめとした部族の者達には頭頂部に小さな1本角が生えているのに対し、彼は小さくねじれた2本角が額より生えていることを除けば、外観的な違いは無いと言っていいだろう。その姿は、間違いなく自分達と種を同じくする子鬼だった。

 ……そんな彼がやや孤立気味なのは、部族のアイドル―― 麗しの雌――が、公然と彼への好意を隠さなくなったからだと思っている。かくいう自分にとっても彼女は憧れだったので、やや嫉妬混じりではあるものの、彼のことはそれなりに知っていた。

 

 赤い月の祝福を受けて生まれたばかりの頃は、後ろに転がってばかりいた妙な者だったことを覚えている。けれど時が経つ内に前例の無い早さで強くなり、集落を脅かす獣として畏れられていた巨大熊を単独で討伐した時から、彼は青肌の戦士達を差し置き『最強』を噂される1人となった。

 

 強さこそ正義の世界。彼の力を疑う者はいない。

 けれど表情に乏しく、この地に復活する前はどこにいたのかを一切語らない彼の内面に触れた者も、またいなかった。

 今も奥歯を噛みしめたような厳めしい顔ながら、感情の読めない無表情をコチラに向けていた。

 

 その顔に見下ろされて正直、結局はあの猪に歯が立たなかったものの、もし獲物を横取りしかけたことを責められたらどうしようなどと内心縮こまっていたものだったが、彼はゆっくりと片手を伸ばして、こう言った。

 

 

 ――生きていて良かった

   起き上がれそうなら、手を貸そう

 

 

 初めて聞くその声の呟きは低く、けれど樹齢を重ねた大木を思わせる不思議な安心感を抱かせる雰囲気を漂わせるものであり…… 木の葉の切れ間から落ちる光が彼だけを照らし抜き、背後に巨大な猪の骸を背負った彼の姿は、あまりにも戦士として映えていた。

 命を救われた直後ということも手伝っているのだろうが、それは今まで自分が見てきた戦士達の誰よりも格好良く思えたために、これは麗しの雌が夢中になるのも無理はないな、と思えてしまう。

 

 まだ少しふらつく頭を宥めつつ差し出された手を掴んで起き上がり、彼と同じ陽の光を浴びる―― いつか自分も、この『ナナシ』のような強い戦士になろうと思えた。

 密やかな嫉妬はもう、柔らかな光の中に溶けていた。

 

 

 

 

 

 

 

   *   *   *

 

 

 ……この時、彼の手を握った際に抱いた高揚が純粋な憧れと感謝の感情であることを確かめるため、後から麗しの雌を眺めてちゃんと興奮できるかを再確認し、結果自らが雄として正常であることが分かった時。

 赤肌の子鬼は、心の底から安堵した。

 

 

 

 





 BL展開はありません。


 ボコブリンの知能が妙に高そうなモノローグ描写になっていますが「オレサマオマエマルカジリ」ばかりでは文章書くに書けないので、拙作に登場する魔物のINTは大体高い設定であることをご容赦下さい。

 原作には「はじまりの台地」と呼ばれる、台地というよりは「ギアナ高地に存在する超巨大なテーブルマウンテン」染みた地形が登場します。その存在に対する考察は割愛しますが、そこはリンクを操作するプレイヤーが、「ゼル伝BotW」の世界に初めて触れる場所だったりします。
 使い慣れないswitchのProコントローラーを持ち、現実と同様に全く同じ配置は存在しないリアルなフィールドを自由に歩きつつ、なんとなくプレイしていると自然に「あの場所はこの辺にあったよな」とフィールドの絵を記憶していたと気付ける、計算された自然物や敵の配置にとにかく夢中になったものでした。
 そして台地に限っても十分広大なフィールドではあるのですが、いわゆるそこはプロローグ。
 外に踏み出した途端、縮尺狂ったのかな? と思えるほどにメチャクチャ広がるマップに度胆を抜かれるのは、BotWの中でも5指に入るwktkポイントではないでしょうか。
 そんな思い出補正もあって拙作では100年後の世界でも聖地扱いさせていますが、これは捏造です。

 ※大猪=モリイノシシ
 考えなしに斬り掛かっても思わぬ耐久力からトドメを刺せない場合が多く、反撃の突進を受けて跳ね飛ばされることになる。これをやられると誰も見てないソロゲームのはずなのにちょっと恥ずかしい。


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