君咲学院に甘い香りが漂っていた。
「うん、我ながら中々の出来ね」
かえでは、調理実習で作ったクッキーの味に満足そうに微笑んだ。
「あら、ママへのお土産を別にしても結構余るわね。そうだわ、食べ切れないのも勿体無いし、あいつにでもあげようかしら?」
わざとらしい口調で独り言を言いながら、かえではコソコソと調理実習室を抜け出した。
その楽しげな後姿を同級生達が微笑ましそうに見送っていたことに、かえでが気付くことはなかった。
***
廊下に女の子が落ちていた。
「女の子ゲットだぜ!」
転校生は女の子をゲットした。
「あ、あれ? 転校生くん?」
落ちていた女の子――“
「あ、そっか。またわたしってば廊下で倒れちゃったんだね」
つゆりが転校生に運ばれるのは既に両手の指の数を超えている。そのため、目覚めたときに転校生の腕の中にいても驚かなくなっていた。
「いつもゴメンね。もう大丈夫だから下ろしてくれるかな」
つゆりは申し訳なさそうに頭を下げる。
「ふふ、女子高校生と合法的に密着できるチャンスをこの僕がそう簡単に手放すと思っているのかい?」
「もう熱は下がって……これだけ密着していれば体温が高いのはバレちゃっているよね」
「つゆりんは何も心配せずに黙って目を閉じていればいい。後は僕に身を任せてくれ」
「保健室に運んでくれたら先に帰ってくれて大丈夫だよ。少し休めば熱も下がると思うし、わたしは慣れているから一人で帰れるからね」
つゆりは転校生に心配をさせないように熱で辛いのを我慢して笑顔を見せる。
「あのね、つゆりん。ここで弱っている女子高校生に付け込んで優しくしなかったら、僕は中年になった頃にきっと後悔をすると思うんだ。どうしてあの時、弱った女子高校生を優しく送ってあげて、それに絆された女子高校生に少しエッチなお礼をしてもらわなかったんだってね」
「うん、ありがとう。本当は少しだけ辛かったんだ。送ってもらえたら助かるよ」
転校生は腕の中の弱った女子高校生を揺らさないようにと、細心の注意をしながらも出来るだけ急いで保健室へと向かった。
***
保健室で少し休んで熱が下がったつゆりは、転校生に手を繋がれながら帰宅する。
これは別に転校生に下心があるわけではなく、彼女が転ばないようにと繋いだだけだ。そう、転校生に下心はないのだ。
転校生は、君咲学院の女子によく妙な事を口走るが、全ては女子のことを気遣ってのことだ。
困っている女子を助けるときに、女子が遠慮をしたり、必要以上に恩に感じたりしないようにと転校生が自分の姉に対策を相談した結果、下ネタ混じりに喋れば遠慮とか無くなるぞ。という女子同士なら有効なテクニックを教えられた結果だった。
転校生にとって幸いなことは、君咲学院の女子達は異常なまでに転校生の真意を見抜くことに長けていたため、彼のセクハラ発言が問題視されることは無かった。
もっとも、卒業までに誰かが注意してやらないと、後々大変なことになりそうではある。
***
つゆりは転校生の手の温もりを感じながら、不思議な感覚になる。
幼い頃から病弱だった彼女は、同じ女子の友達も少なかった。
男子とは小学生の頃、用事があるときに喋った程度だった。
そんな自分が高校生になってから、しかも女子校であるはずの君咲学院に入学したのに、男子と手を繋いで帰宅している。
まるで青春ドラマのヒロインになったかのような錯覚すら感じてしまい可笑しくなった。
「うふふ、なんだか変な感じだよ♪」
「急に笑いだしてどうしたんだい、つゆりん」
急に笑いだしたつゆりに対して、転校生はまるで幼子を見る父親のような優しげな笑みを浮かべた。
「ムム、転校生くん。その微笑ましいものを見たって感じの顔は、年頃の娘に向けるものじゃないよ」
一瞬前まで機嫌の良かった女の子が急に不機嫌になる。そんなこの世の不条理を目の前にしても転校生は動じなかった。
ソッと壊れ物に触れるような優しい手つきで、つゆりの頰に手をやると視線を合わせた。
「つゆりは、僕の大事なお姫様だからね、どうしても向ける視線も優しくなっちゃうんだよ。大目に見てくれないかい?」
「はうっ!? 頰に触れるのは反則だよぉ」
それにこんな時だけ呼び捨てにするのも反則だよぉ、と小さく呟くつゆり。
仲良しの姉から伝授された“不機嫌になった女子の宥め方”が成功した転校生は、心の中だけでガッツポーズをとる。
この方法は、不機嫌になった女子に一定以上の好感度がなければ逆効果だと聞かされていたため、転校生の喜びもひとしおだった。
「つゆり、夕陽がとても綺麗だよ」
「あうう、転校生くん、夕陽はまだだよぉ」
つゆりの言う通り、まだまだ夕陽の時間ではなかった。だが転校生は、つゆりだけをジッと見つめながら綺麗だよと囁いたのだ。本当に夕陽の時間だったとしても彼は夕陽など見ちゃいないだろう。
いつの間にか二人は抱き合うような形になっていた。
まるでキスをする直前のような距離にまで近付く二人。
つゆりの顔は、まるで夕陽を浴びたかのように真っ赤に染まる。
転校生は熱い視線をつゆりに向けたまま思う。
(しまった!? これは“不機嫌になった女子の宥め方〜彼女バージョン〜”の方だった!?)
転校生、痛恨のミスである。
“不機嫌になった女子の宥め方〜友達バージョン〜”を使えば問題なかった。
転校生はここからどうしていいのか分からずにテンパってしまう。
まさか、このまま彼女バージョンに従ってキスをするわけには……してもいいのか?
フェミニストの転校生といえど、そこは思春期真っ只中の男子高校生だ。
魔が差したとしても誰も咎めはしないだろう。
そう、これは仕方ない事なのだ。
自分の腕の中に真っ赤に熟れた可愛い女子高校生がいる。
――タッタッタッ☆(怒れる女子が走っているような音)
これを放置して、何がフェミニストだ! 何が男だ!
――ブワッ☆(怒れる女子が助走をつけてジャンプしたような音)
僕はいくぞ!! 転校生の覚悟が決まった瞬間だった。
「つゆりちゃんに何をしている!! 天誅ゥーっ!!」
「ブキャラッ!?」
ゆりの手本ように美しい飛び蹴りが転校生に命中した。
「大丈夫!? つゆりちゃん!!」
「えっ、えっ、どういう状況なの!? どうして転校生くんは吹き飛んでいるの!? そしてどうしてわたしはなっちゃんに抱きしめられているの!?」
「大丈夫、大丈夫だから! 薄汚い野良犬はわたしが吹っ飛ばしたから安心して!! つゆりちゃんは何も心配しなくていいから!!」
「えっ、えっ、野良犬ってなんのこと!? それより転校生くんは大丈夫なの!?」
「大丈夫、大丈夫だから! ゲスな畜生は地獄に送ったから安心して!! つゆりちゃんはわたしに全てを任せてっ!!」
「えっ、えっ、わたしは何を安心すればいいの!? そして、なっちゃんに何を任せればいいの!?」
ゆりは混乱から立ち直れないつゆりを問答無用に連れ去る。
二人が去った後には、地面に大の字で倒れる転校生だけが残された。
ピクリと転校生の指が動いた。
どうやら彼は辛うじて生き残れたようだ。
ピクピクと痙攣しながらも彼の口から微かに言葉が漏れる。
「ね、姉さん、怒れる女子の宥め方…教えて…くれ……」
本日の教訓――その場の雰囲気に流されるな。
安心して下さい。スカートの下はスパッツなので飛び蹴りもへっちゃらです。