都市・ノーヴァス・アイテルに伝わる神話がある。
はるか昔、ノーヴァス・アイテルは神の庇護を受けた肥沃の大地であった。
しかし、人々から次第に神への信仰は薄れ、人々は神を軽視するようになる。
そのことに怒った神はノーヴァス・アイテルを見捨てた。
神の庇護を失ったノーヴァス・アイテルを襲ったのは混沌であった。大地全てを飲み込まんとする混沌。それは人々を脅かし、空を曇らせ、大地を汚し、このままでは人類の滅亡も目前かと思われた。だが、そんな人々の中でも唯一、神への信仰を失わなかった者は神へと祈る。どうか、その御力を持ってこの地を、ノーヴァス・アイテルを救い給え、と。神はその祈りに答え、都市・ノーヴァス・アイテルを空へと飛ばした。浮遊都市と化したノーヴァス・アイテルは地上の混沌から逃れ、人々は空に浮かぶ都市を自らの住処とし、新しい日々を営む。神へと祈り奇跡を起こした者は聖女と呼ばれ、聖女の祈りが都市を空へと飛ばし続ける。
それが都市・ノーヴァス・アイテルに伝わる神話であった。
しかし、最近になってその神話に新たな伝説が加わった。
都市を空へと浮かせていたのは聖女の祈りではなかった。神がノーヴァス・アイテルを見放した際、人々は神の使いたる天使を逃さなかった。天使を捕らえた人々はその力を利用し、ノーヴァス・アイテルを空へと浮かし、浮遊都市とした。その集団の長は国を作り、ノーヴァス・アイテルという都市の頂点に君臨した。以後、人々は捕らえた天使の力の恩恵を受けて長い年月を過ごしてきた。しかし、やがて都市を空に浮かばせ続ける天使の力にも限界が訪れる。浮遊都市では崩落が相次ぎ、やがては都市全体が混沌の地上に落ちてしまう日も遠くはないと思われた。そんな中、囚われた天使を解放しようという動きが都市の中で活発になる。下界に追放になったはずが奇跡の帰還を果たした二十九代目聖女イレーヌ。牢獄と呼ばれる最下層地区に身を潜めて起きながらもその奇跡の力を使い、やがて救世主と呼ばれるようになった彼女を旗頭にノーヴァス・アイテル王家から圧政を受け続けていた牢獄民は決起。ノーヴァス・アイテル王家に対して反旗を翻す。その反乱は次第に牢獄の民だけではなく下層の民、そして、王国軍の兵士たちをも味方に巻き込む一大騒動となり、反乱軍は天使を解放するため、ついにノーヴァス・アイテル王城に迫る。その時、ついにノーヴァス・アイテルに限界が訪れ都市が大地に落下する。このままでは人類は滅亡してしまうのかと思われた最中、奇跡が起こった。天使の御子がその力を使い自らの犠牲と共に地上を覆う混沌を浄化したのだ。浄化された大地に降り立つ都市・ノーヴァス・アイテル。都市が空に飛んだ時と同様、まったく新しい日々の始まりであった。これは伝説であるが、つい最近のことである。何分、大地が浄化され、都市が大地に降り立ってから、まだ一年という年月も流れていないのだ。しかし、人々は知っている。ノーヴァス・アイテルに住む人ならば誰もが知っている。貴族でも平民でも、大人でも子供でも。この都市の救世主の名を。自らを犠牲に大地を浄化した天使の御子の名を。
その名は、ユースティアと言った。
ノーヴァス・アイテルが地上に降り立ってから数ヶ月が経とうとしていた。
都市を覆った未曾有の混乱もようやく静まってきたかと思える頃だった。
国家転覆規模の大反乱に都市の地上への降下。これが大混乱でなくてなにが混乱というのか。
国王から物乞いまで、ノーヴァス・アイテルに住む者全てを巻き込んだ大混乱は天使の御子の奇跡による地上の浄化、そして、都市の地上への着陸という結末を持って終結を迎えた。それは王城の目前で反乱軍と王国軍が激突し、国王リシアが降伏を宣言。その身柄を差し出した最中でのことだった。都市の一部が崩落すると騒ぎ反乱を起こし、ついには王国軍を相手に勝利をおさめる寸前までいった反乱軍も、都市全体が地上に落ちるなどという未曾有の事態に呆然と戦いをやめて経過を見守るしかなく、それに天使の御子の奇跡まで重なってしまえば、それまでの王城を落とせ、国王を殺せ、天使を解放しろ、などといった勢いも何もなく静かに国王リシアの投降を受け入れるしかなかった。反乱軍の指導者であった牢獄を統括する非合法機関・不蝕金鎖の頭目ジークリード・グラードも、反乱軍の旗頭であった二十九代目聖女イレーヌも無用な戦いや殺戮を望まなかったこともあり、反乱軍と王国軍の間では停戦交渉が持たれることとなった。
それまではよかったものの、それからが長かった。反乱軍の中でも、天使の御子の奇跡に心を打たれ、武器を捨て元の生活に戻るもの、これを機に自分が権力の座に座ろうと欲望を丸出しで停戦交渉に口を出してくるもの、体制の転覆までは望まない穏健派、国王を断頭台にかけろ、全ての権力を反乱軍がおさめるべきだ、と訴える過激派。同じ反乱軍といえど、終戦の後の行動・思想は多種多様であり、これを治めるのはジークと言えど困難を極めた。結局、ある意味では内戦の最中に匹敵する大混乱の末に、ノーヴァス・アイテル王家は存続、国王リシアも断頭台にかけられることはなく無事、ただし、これ以降の国政には反乱軍の中核を成した不蝕金鎖の幹部級をはじめとして多くの反乱軍メンバーが関わること。それが決定したのがつい先日のことである。
国家転覆寸前まで行った革命の後の処置としては異例な程、穏健な処置ともいえる。現に国王リシアも投降の直前は自分の首を飛ばすことでこの事態を収めようと覚悟していた程だったのだ。条件付きとはいえ王権は維持。そうなった大きな要因に
ルキウス・ディス・ミレイユ。地上降下直前のノーヴァス・アイテルにおいて宰相として権力を握っていた若き貴族である。彼は悪政を敷いていた執政公ギルバルトを打倒し、牢獄への積極的な援助の姿勢を見せる等、宰相就任前は憂国の士としてその名を知られていた。しかし、ギルバルトを打倒し、宰相に就任したルキウスは政権を掌握。国王リシアを自室に監禁し、自らが政治を執り行い、牢獄民に対する非情な対応も全ては国王ではなくこのルキウスの仕業であったのだ。そのルキウスも内戦の最中の混乱で死亡。責任を取るべき者が死んだ今、ルキウスに利用されていただけの国王にその罪を追求するのはいかがなものか、という意見が反乱軍内部でも語られるようになり、国王も政権も全てはそれらを悪しように利用した奸臣ルキウスに罪があるとしてその存在は継続することになった。
……全てが嘘ではない。しかし、真実を知る者からすれば眉をひそめることだろう。ルキウスの腹心であったシスティナなどからすれば怒り狂うかもしれない。
ルキウスは確かに最終的には国王リシアを監禁し、その意向を無視して戦いの継続を望んだ。それは事実である。しかし、彼はあくまで都市のことを、都市に住む民のことを第一に考え、その結果の行動であり、断じて奸臣と呼ばれるような悪漢ではない。国王リシアも当初はこのような形でルキウスに全ての責任を押し付けることはせず自らの咎である、と責任を認めるつもりであった。そうさせなかったのはルキウスの部屋から見つかった彼の遺書によるものだ。それによると全てが終わった後は自分に全責任を押し付けることで現体制を維持させること。国王陛下には最後の最後で不忠を働いてしまい申し訳なかった、との内容が綴られていた。国王リシアはその、今は亡き
そうして、天使の御子ユースティア、救世主イレーヌ、英雄ジークフリード、稀代の大悪人ルキウス。この四名の名を知らぬ者がいなくなった元・浮遊都市ノーヴァス・アイテルでは今日も人々は営みを続ける。大地に足を付けた、新たなる営みを。
もう何杯目か。数えるのも億劫な気分で陶坏に葡萄酒をそそぎ込む。そうして一気に喉の奥まで流し込む。この憂鬱な気分も酒と一緒に流れていってくれないかと期待するが、生憎と頭の中にまとわり付いて離れない感情は酒と違い飲み込まれて行ってはくれなかった。
安酒とはいえ、不味い。不味すぎる。いつも飲んでいる葡萄酒だが、こんなにも不味いものだったか。馴染みの葡萄酒は、しかし、一向に頭の中を昂揚感で満たしてはくれず、ただただ、頭を重くするだけだった。こんな飲み方をしているのであればドブに捨てているも同然だな。自嘲気味にそう思いながらも、やはり、酒に伸びる手を止めることはできず、ひたすら頭痛の種を飲み込む。
こんなことをしていても、不味いわ、酔えないわ、頭痛になるわ、最低だが、いいこともある。酒を飲んでいる間は少なくとも何も考えずに済むのだ。それはカイム・アストレアには何よりもありがたいことだった。
ノーヴァス・アイテルの地上降下からもう数カ月も経つ。しかし、カイムの心の傷は、脳裏に刻まれた光景は少しも消えることはなく、深々とカイムの心身に食い込んで離れない。酒が、途切れた。もう一杯、と酒瓶に手を伸ばすのもなんだか億劫に感じて、その場でだらりと腕を下げる。気力というものが体から抜け落ちてしまったかのような男は椅子の背もたれに全ての体重を預け、ぐったりと死人のように呆けている。全然、酔えないのに酒気は体中に回っているのかその顔は真っ赤だ。
真っ昼間から自宅にこもり、ひたすら酒に逃避する男。その堕落した姿を見ても誰も彼を元は凄腕の暗殺者であり、ノーヴァス・アイテルでも屈指の実力を誇るナイフ使いであり、そして、英雄ジークフリート・グラードの盟友であるとは思わないだろう。
我ながら情けない姿だとカイムは思う。だが、仕方がないではないか。酒が途絶えたからか、考えないようにしていた思考の渦が再びカイムの脳裏で蠢き出す。
この都市、ノーヴァス・アイテルには平和が訪れた。国を二分した内乱は終わり、内乱の原因になった崩落も、都市が地上に降り立った今では過去のものになり、人を襲う謎の黒い液体も浄化された。混沌に包まれていると言われていた地上世界も浄化されたからそうなったのか、それとも元からそうであったのか、肥沃な大地が広がり、都市の外には未知なる可能性に満ちた世界が広がっている。
ノーヴァス・アイテル王家と不蝕金鎖が共同で行っている政治も両者の利害が対立することはあれど、今のところはそれが大きな諍いに発展することもなく、双方の事情を突き合わせた上で国民のためを第一に考えた政治が行われている。それに加え、牢獄も下層も何も違いはなくなってしまった今となっては国民の間の格差も解消される日も近いだろう。
都市は、世界は、救われた。
これから先、ノーヴァス・アイテルは、ノーヴァス・アイテルに住む人間たちは明るい未来に向かって歩いて行くことだろう。
――――――しかし、そこにあいつはいない。
ズキリ、と頭が痛む。悪酔いするにもまだ早いというのに頭の奥底に鈍い痛みが走る。
そうだ。あいつはもういない。
この都市を、いや、カイムを救う代償としてその身を犠牲にしてしまった。
あいつ――――常に自分には生まれた意味があると言って笑っていた少女。
人の痛みを悲しみ、人の幸福を喜ぶ優しい心を持った少女。
どんなぞんざいな扱いにもめげることなく向日葵のような能天気で明るい笑顔を浮かべ続けていた少女。
みんなを救うためならば、と自らに降り掛かる辛苦も受け入れ、決して弱音を吐かない強さを持った少女。
人に生まれた意味などないと諦めていたカイムに初めて生まれた意味らしきものを認識させてくれた少女。
その少女の名は、今のノーヴァス・アイテルでは誰でも知っている。
天使の御子ユースティア。
力を失った天使が自らに代わり人類への復讐のために生み出した存在。
人類を滅ぼすという使命を課せられていながら、その使命を否定し、人類を救った存在。
カイムの、誰よりも、何よりも、自分の命よりも、大切な存在。
その存在は、もういない。
ティア……。
「…………っ!」
彼女の微笑みを思い浮かべた瞬間、濁った感情が胸の中で渦巻き、葡萄酒の瓶に手を伸ばす。陶坏すら使わずラッパ飲みで瓶の中に残っていた葡萄酒をまとめて飲み込む。それでも胸中に浮かんだ名は、愛しい人の名は消えてくれなかった。その名と共に彼女に向けた感情もまた蘇る。
ティア……! どうして消えてしまったんだ。都市を丸ごと救うなんていうたいそれたことをする必要なんてなかった。自分を犠牲にする必要なんてなかった。ただ、お前が俺のそばにいてくれれば、それだけでよかったのに……! お前がいることだけが俺の望みだったんだ。それにようやく気付たんだ。散々、迷いに迷って、悩みに悩んで、その果てに出た結論。たった一つの答え。俺の、生まれた意味。それがお前だったんだ、ティア。俺はお前という存在を救うために生まれて来たんだ。そのことにようやく気付たのに、ようやく理解できたのに、その時にはもう全てが手遅れになっていたなんてひどすぎる……! 大切さを自覚した瞬間、この腕の中から消えて行ってしまうなんて、ひどすぎるじゃないか……!
瓶の中身はカラになっていた。新しい酒瓶を引っ張り出してくる気力もなく、その場で鬱々とした思考に明け暮れる。胸の中を満たす喪失感。大切な人を喪ってしまったという苦い感情。それを思えば思う程、後悔の念もまた湧き出してきて、止まらない。俺は、後悔しているのか……? 自問し、ああ、そうだろうな、と答える。ノーヴァス・アイテル全体が崩落するかもしれないというあの最終局面。俺は何も、しなかった。何も、できなかった。牢獄の民としてジークやコレットの決起に従うこともできず、それを抑える貴族側の人間として完全にルキウスに従うこともせず、ただただ最後の瞬間までどっちつかずのコウモリのまま右往左往するだけだった。ティアの側にいてやることすらできなかった。なんて無様、なんて滑稽。ジークに自分の足をなくしてしまったと評された男の末路がこれだ。最早、そこには後悔しか残らない。
自分がもう少し何かできていれば、例えば都市の秘密をジークに伝えたりしていれば反乱を防げてルキウスがティアの天使の力を研究する時間ももう少し稼げて、結果、ティアは消えずに済んだかもしれない。牢獄側と貴族側と両方の立場に立てる唯一の人間だったのだ。いくらでもやりようはあっただろう。自分が何かを行っていれば今よりはマシな未来に辿り着けていたかもしれない。そんなことを思い出すと止まらない。
「う、うあああああああああーーーーーっ!」
体が震え、絶叫が飛び出す。俺は、俺は……! 俺は何をやっていたんだ……! 自由な風だなんだとおだてられておきながら、その結果が、これだ。風ではだめだった。居場所をコロコロと変え、信念も持たず、ただ動き回るだけの風ではダメだったのだ。何か一つでもいい。自分の中で譲れないもの、大切なもの、信念。そういったものが持てていれば……。
後悔は先に立たず。どれだけ後悔しても意味はない。そうと分かっていても止まらない。
(俺は立派な人間にはなれなかったよ……アイム……)
最初から最期まで自らの信じる正義を貫き、そして果て、今では稀代の大悪党として語られる兄に呼びかける。やはり自分は兄にはかなわなかった。兄は自分の死後も自分の名が末代まで悪名として語り継がれることすら覚悟の上で、国王を、リシアを、王権を守った。自分にはとてもできなかったことだ。あの兄は最期までルキウス・ディス・ミレイユとしての信念と忠節を貫いたのだ。
一度目の死別の際も、二度目の死別の際も、カイムは兄に託されたものがあった。だが、そのどちらもカイムには果たすことはできなかった。所詮、自分はその程度の人間だったということのだろう。愛しい人一人守れない。立派な人間などではない……。
(ああ……)
酒だ。酒を飲もう。そうすれば、その間は、こんなことも忘れられる。全てを忘れて、楽になれる。カイムは新しい葡萄酒の瓶を部屋の隅から持ってきてそれを陶坏に注いだ。
「今日も飲んだくれているのね」
そうして何杯目か。再び葡萄酒を肝臓に流し込む作業を再開していたカイムに呆れた様子の声がかかる。気怠い思考を働かせて誰かが家に来たのだと悟る。牢獄の、いや元・牢獄の片隅にある裕福でも貧相でもない一軒家。そんなところに訪れる人間はそう多くない。カイムが顔を上げると、そこには綺麗に整った顔たちを持ち、悲しげに眉をひそめた女――――エリスの姿があった。「エリ……ス……」と名を呼ぶ。自らを人形だと語り、生きていく意志も意味もないと語り、それでもいつの間にか独り立ちし、迷い続けるだけのカイムの先を行っていた女。反乱軍に軍医として参加し、自らが危険に晒されながらも献身的に負傷者の治療に当たった彼女は英雄のジークやコレット程ではないにせよ、反乱軍に参加した人間の間では白衣の天使として崇拝されていると聞く。少なくとも、今の自分などよりはよっぽど、立派な人間。
「こんな真っ昼間から酒浸りなんて、呆れるわね」
許可もなく家の中に入ってきたエリスは辺りを見渡す。机の上に置かれたカラの酒瓶と新しい酒瓶。ロクに掃除もされずあちこちに埃がたまった屋内の様子に嘆息する。
「医者として忠告しとく。そんな飲み方をしているとアル中になるわよ?」
答えるのも億劫だった。だが、返事をしなければさらに鬱陶しく言葉を重ねられるだけだと分かっていたので、「放っておいてくれ……」となんとか喉元から言葉をひねり出す。
「俺の体だ。アル中になろうとヤク中になろうと、勝手だろう……」
「カイム……貴方、まさか、クスリに手を出したりしていないでしょうね?」
「はは、今のところは、な。手元にあれば、間違いなく手を出すだろうが……生憎、国が総出で抑え込んでいるからな」
乾いた笑いを漏らす。クスリ――麻薬の類がこの都市のような閉じた世界で出回るのは致命傷だ、とルキウスが言っていたことを思い出す。今、政権を握っているリシアもジークもそれは承知しているようで麻薬の類への規制は徹底したものだった。
相も変わらず退廃的なカイムの様子にエリスは悲しげな顔になる。
「しっかりしてよ、カイム。ジークと女王サマから政権に参加するよう声が掛かっているんでしょう?」
不蝕金鎖の頭目・ジーク。ノーヴァス・アイテル王家の国王・リシア。二人からはそれぞれ自分を補佐してくれ、との要望がカイムの元に届いていた。
「あいつらは俺を買いかぶり過ぎだ。俺にはそんな資格も力も、ない」
「カイムが自分を卑下しすぎなだけだと思うけど」
「こんな飲んだくれに政治なんて出来る訳がないだろう」
言いながら、もう一杯、葡萄酒を飲む。そんなカイムを悲しげに見つめていたエリスだったが、ややあって、少しためらいがちに口を開いた。
「そんなにあの小動物……ティアがいないことがつらいの?」
「…………っ!」
いきなり核心を踏み抜かれて陶坏を握る手に力が入る。思わず眉根を寄せて、エリスを睨み付けていた。そんなカイムの様子にも構わず、エリスは言葉を続ける。
「天使の御子、ユースティア。奇跡を起こしてこの都市を救った救世主」
「黙れ……」
「あの小動物がそんなたいそれた存在だったなんて今でも信じられない」
「黙れ……」
「でも、事実なのよね。あの小動物の力で都市は無事に大地に降り立つことができた」
「黙れと言っている……」
「代わりにあの小動物は消えた。本当、まさしく天使サマとしか……」
「黙れ!」
怒声を発して椅子から立ち上がる。殺気すら込めた瞳でエリスを睨み付ける。エリスは悲しげな瞳で静かにカイムを見返してくる。
「そうだ、ティアは消えた! 俺たちのために犠牲になったんだ! 俺たちが……ティアを殺した!」
「それは少し違うんじゃない? 私は現場に立ち会った訳じゃないけど、ティアは自分の意志で私たちを救おうと……」
「何が違う! 結果としてティアは消え、俺たちは生き延びた! 何も違わないだろう!」
頭に血が上っている。その自覚はあったが、止まらなかった。思いっ切り拳を握り締める。しぼり出すように「俺たちが……いや」と声を漏らす。
「俺がティアを殺したんだっ!!」
絶叫だった。思わず、といった様子でエリスも黙り込む。後には沈黙が残る。ガクリ、と膝が崩れた。その場にへたり込む。「ティア……」とカイムの口から声が漏れる。
「う、うああああああああああっ!」
涙が流れて止まらなかった。ティア、ティア、ティア……! どうして、どうして、どうして……! 何度も自問自答したことが脳裏をグルグルと回る。胸の中の喪失感は何を持ってしても誤魔化すことはできなくて、カイムはその場で、ただ、嗚咽を漏らし、涙を流し続けた。
天使の塔。
ノーヴァス・アイテルの最上段。王宮の一角にそれはある。
かつてノーヴァス・アイテルを空に浮かせるために天使が囚えられていた塔。
ギルバルトが天使の力を使いクルーヴィスという想い人を蘇生させようとしていた塔。
ギルバルトの失脚後はルキウスの管理下になり、力を失いつつある天使に代わりティアの力を用いて都市を維持しようと実験を繰り返していた塔。
その塔も、都市降下直前の最終局面において既にティアの力の暴走を受けて、崩壊している。
今となっては崩壊した塔らしきものの跡だけが残るだけだ。
今ではここは天使の御子ユースティアが奇跡を起こした場所として一般にも解放された場所となっていた。
今日もまた天使の御子が奇跡を起こしたこの地には多くの人々が押し寄せている。人々はかつて天使が囚えられていてユースティアもまた磔になっていた塔の中心部に群がり、祈りと共に花などを捧げている。
空からは傾きつつある太陽から夕焼けの光が差し込む。天井も崩れ落ちてしまったこの塔の跡地にはそれがストレートに降り注ぐ。黄昏の光を浴びてただでさえ感傷的になりつつあるカイムの心はさらに敏感に打ち震えた。
ティア……。
ここは彼女が消えた場所。彼女と最後に抱き合った場所。彼女が自分を救った場所。
悪酔いした頭がズキズキと痛む。あれからエリスが帰った後も一人、酒を飲み続け、それにも飽きるとボーっと何もすることもなく、夕焼けの差し込む部屋の中でたたずみ、その挙句、ここに来てしまった。
ここに来るのは初めてではない。
比較的、頻繁に訪れている場所だった。
ここにいればもう一度、ティアに会えるのではないか。ティアの声が聞こえるのではないか。
そんなありもしない希望にすがって、何度も、何度も、訪れている場所だ。
今日もまた無駄な期待をして黄昏に染まる塔を、天使やティアが磔になっていた所の跡地を見上げる。
胸の中をさみしさだけが満たしていく。心が空虚に染まる。
もうここにはティアはいない。彼女はあの瞬間、ここから消えてなくなってしまった。分かっている。分かっていることだ。しかし、それでも、期待をしてしまう。もう一度、あの声を、もう一度、愛しいあの声を。
そんなカイムの想いが実ったのか。
不意に声が、した。
――カイム。カイム・アストレアよ。
呆然とし、すぐに驚愕する。
声が、した……?
そんな馬鹿な。
もうこの場所には天使はいない。ティアもいない。
いるのは天使やティアに祈りを捧げる人々だけだ。
だと言うのに。
――私の声が聞こえますか? 聞こえていますね。
声は続く。辺りを見渡すも、その声が聞こえているのはカイムだけのようだった。人々は変わらず祈りを捧げ続けている。驚愕しつつも、この声はティアではない、と気付いた。ティアの声とは違う。別人だ。だとすれば誰なのか。「天使……か……?」と口に出してみる。
――そうです。私は天使。貴方がた人間に囚われ利用され続けていた天使。初代イレーヌ。イレーヌ・アナスタシア。
やはり、そうだったか。「天使が今更、何のようだ」と声を返す。いきなり独り言を喋りだしたカイムを周りの人々は怪訝そうな目で見るが構わってはいられない。
「ティアが成し遂げられなかった人類抹殺。それを今更、やろうとでもいうのか?」
――私に、もうその意志はありません。その力も。
その意志はない。簡単に信じられることではなかった。天使は数百年に渡り、自分を囚え、利用してきた人間を恨んでいたはずではなかったのではないか。力がない、という点は信用出来ることではあったが。
――カイム・アストレア。ユースティアを救うことができず、一人、生き残ってしまったことを貴方は後悔しているのでしょう?
訊かれるまでもない。ティアを犠牲にして、生き延びた。そんな自分を、そんな自分の辿った道を後悔しなかった日など、瞬間など、ない。今もまたそのことで胸を掻き毟りたい程の苦悶の思いを抱いているというのに。
「ああ、流石は天使サマだな。よくわかっている。後悔、しているさ。後悔して後悔して後悔して……たまらない。やり直しがきくなら、やり直したいくらいだよ」
――貴方に一度だけやり直させてあげましょう。
一瞬、我が耳を疑った。「……なんだって?」と声が漏れる。
――貴方にやり直しを許してあげようと言ったのです。
やり直しができる。それが許される。その言葉の意味を遅れて頭が理解し、全身が打ち震えた。できる、のか? やり直し。それが、許される、というのか? カイムは空を見上げた。すがるような目で差し込む黄昏を見上げる。
――やり直しを、望むのですね。
「いいのか? 本当に、やり直せる、のか? 俺は、ティアを助けることが、できるのか?」
――チャンスは与えます。ですが、条件があります。
条件。
来たか、と思った。何もかもが思い通り、こちらの都合通りに行くことなどありえない。そこには何らかの対価が要求されるものだ。それを長年の牢獄生活でカイムは嫌というほど知っている。それは天使サマといえど、例外ではないということだろう。「なんだ?」と答える。
――私のことも救うことです。ユースティアだけではダメなのです。この私も救うこと。それが、貴方へのやり直しの条件です。
天使を救う……。それがどういうことか、考え込む。磔になり枯れ果てたミイラのような姿になっていた天使の姿を思い出す。ただでさえ力を失っていたところにギルバルトに力を搾取され続けた結果、あのような悲惨な姿になってしまったというが。その天使を救う……?
できるのか? と自問する。ティア一人救うだけでも大変なことだろう。それに加えて、大崩落が起きた時点から、いや、カイムが生まれた時点から、既に多くの力を失っているという天使を助けるということは……。
(……いや、やってみるしかない)
ティアを助けられる可能性があるというのなら、この取り引きを飲むしかない。どの道、自分に選択の余地などない。ティアを助けるためなら自分は何だってする。決意を新たにカイムは黄昏を、声がしているような気がする方向を見上げた。
「わかった。あんたも助ける。俺に出来る限りの全てのことをする。ティアもあんたも、救ってみせる」
そのカイムの言葉から間があった。疑っている、のだろうか? しかし、ややあって、再び天使の声が響く。
――分かりました。では、もう一度だけ、カイム・アストレア。貴方にやり直しを許しましょう。
その声と共に祈りを捧げていた人々が呆然と空を見上げる。カイムも呆然となった。かつて大崩落の直前に起きた
なつかしい、声がした気がした。
耳をくすぐる声。
大崩落で喪った母親がかつて幼い頃のカイムにかけてくれたのであろう声と似た印象を受ける声。
幼子をあやすように、やさしく、全てを包むこんでくれるような包容力に満ちた声。
その声が自分の名を呼んでいるのだとカイムは遅れて気付いた。
この声は……。
そう思ったところで意識が覚醒へと導かれていく。
「カイムさん」
ああ、この声だ、と思った。
自分が求めていた声。求め続けていた声。
ずっとずっと、聞きたかった声。
カイムはうっすらと目を開ける。
「あ、カイムさん。やっと起きてくれましたね」
声の主が笑う。微笑む。カイムはハッとして体を起こす。自分が寝台の――それも自分の家の――上で横になっていたのだとその時、はじめて気付いた。
声の主はそんなカイムを見て笑っている。陽光の下、穏やかに咲き誇る向日葵を彷彿とさせる温和な笑みを浮かべている。
ああ……。
カイムはもう何も考えられなくなった。ずっと、会いたかった人。ずっと、見たかった笑顔。
嬉しい。愛おしい。なつかしい。胸の中が感情で溢れ、ぐちゃぐちゃになる。そんなカイムの様子に彼女(・・)は驚いた顔で「カ、カイムさん……?」と困惑の声を漏らす。カイムの目の前にいる彼女。目の前で息をして、笑って、そして、今、困惑している彼女が誰なのかを確かめた瞬間、カイムはもう止まらなかった。
「ティア! ティア! ティアッ!」
叫びながら、彼女――ユースティア・アストレアに駆け寄り、その小柄な体を全身で抱きしめる。「きゃっ」とティアは声を漏らし、「カ、カイムさん!?」と上擦った声で困惑の意を表したが、構っていられなかった。カイムはその体を、たしかにこの世界に存在しているティアの体を確認するかのように、力強く抱きしめる。ティアの体はやわらかくて、あたたかくて、その感触を全身でたしかめると共にもうどうなってもいいという気分になる。ティアが、いる。ここに、いる。生きて、ここに、存在している。それだけでもう、どうでもいい。何がどうなってもいい。ティアがここにいるのなら……。
「もう。カイムさん。一体、どうなさったんですか。急に私を……その、抱きしめたりして」
それからしばらくカイムがようやくティアの体を解放した後、ティアが頬を朱色に染めて、照れ臭そうに呟く。「い、いや……」とカイムはしどろもどろに声をもらした。
「寝ぼけていたんだ。大した意味はない」
「そうですか? そんな風には見えませんでしたけど……」
「そんなことはない。意味はないったら、ない」
カイム自身、照れで顔が赤くなりそうなのを堪え、そっぽを向いて断言する。「そうですか。カイムさんがそう言うのなら、そうなんでしょうね」とティアは笑っていた。その笑顔を見るだけでカイムは嬉しくて死にそうになる。
ようやく冷静さを取り戻せたカイムは自分の置かれた状況について探ってみようとした。今は朝のようだ。場所はカイムの家だろう。ティアを身請けした後、引っ越した後の家だと分かる。
「ティア、都市は浮いているか?」
「はい?」
頭のおかしい人を見る目をされた。都市が浮いているか。そんなことを訊く人はいない、と言うように。「いや、何でもない」とカイムは続ける。
「そうか。浮いているんだな、それならいい」
「はぁ……。都市が落ちちゃったりしたら、それこそ大騒ぎになっちゃいますよ。それにそんなことになったら私もカイムさんも生きていませんよ」
「そうだな……」
実際には目の前の少女の力のおかげで都市が地上に降りた後も人々は生きていられたのだが。それを今、言っても信じてはもらえまい。
「ティア。今は何月何日だ? 俺がお前を身請けしてからどれくらいたった?」
カイムの問いになんでそんなことを訊くんだろう? とティアは怪訝そうな顔をしたが、律儀に答えてくれた。ティアの言った日付はカイムがティアをリリウムから身請けして、その条件として不蝕金鎖の根城の娼館街から離れた場所に引っ越してからたいして日が経っていなかった。
空に浮かび続ける都市、引っ越したばかりの自分、そして、ここに存在しているティア。それらの存在を確認し、カイムは確信する。
「……戻って、来たんだ……」
万感の思いを込めて口にする。ティアはやはり不思議そうな顔をしたが。
天使は言った。やり直しを許しましょう、と。自分のやり直しはここから始まるということか。
これから何をするべきなのか。何をすればティアも天使も、救うことができるのか。考えることは山ほどある。やるべきことも山ほどある。だが、今は。
「ティア」
「はい。なんですか、カイムさん?」
「……いや、なんでもない」
おかしな、カイムさんですね、とティアは笑う。
今はこの何よりも愛おしい少女が側にいる。その幸せを噛み締めよう。
そう、思った。