黒羽と遭遇したその翌日。『前回』同様、黒羽に関する捜査資料の閲覧許可が下りた、とフィオネから聞かされた。しかし、やはり『前回』同様、関係者宅以外への持ち出しは許可されなかったようなので下層にあるというフォオネの家で見ることになり、カイムは不蝕金鎖が所有している羽狩りも持っていない牢獄の詳細な地図を片手に自分の家に案内するフィオネの後ろを付いていっていた。
関所の長い階段を登り、ノーヴァス・アイテルの最下層に位置する牢獄から中段に位置する下層に移動する。カイムは牢獄が出来てから下層に行ったことがない、という訳ではないが、それでも久しぶりに訪れる下層の空気はやはり牢獄とは違った。牢獄と比べれば遥かに澄んだ空気が一面に広がる。下層は貴族たちの住む上層と比べれば別段、裕福な訳でもないのだが、それでも牢獄よりは遥かにマシである。道端には浮浪者もいなければ、打ち捨てられた死体もない。ぶちまけられた糞尿や吐瀉物の類もなく、鼻をつく悪臭などとは無縁だ。道行く人々の笑顔も多く、多少大げさな表現だが、世界が違う、としか言い様がない。そんな下層をフィオネの案内で歩いて行く。ややあって彼女の家に辿り着いた。
「ここが私の家だ」
「他に住人はいないのか?」
母は既に他界し、父は羽化病を発症し、治癒院送り、兄は行方不明。その事情は『前回』聞かされて知っているがそれを知っているのも変なのでカイムは一応訊ねた。「今は私一人だ」とフィオネが答える。
そして家の中に入ってみれば(『前回』来た時、同様、フィオネの性格が現れているかのように整理整頓された家だった)フィオネの持つ黒羽の捜査資料、カイムの持つ牢獄の詳細な地図、そして、昨夜、現れた黒羽の逃走経路を突き合わせて、黒羽の根城を推測する作業を開始した。しかし、その最中もフィオネはどこか心ここにあらずといった今ひとつ集中できていない様子が見受けられた。昨夜の黒羽との遭遇で黒羽が行方不明の兄ではないかと疑っているのだろう。それが分かっていたカイムはそのことを指摘することはせず、資料や地図とにらめっこし、黒羽の根城に当たりを付けているように見せかける作業に集中した。
「大体、見えてきたな……」
カイムのその言葉にフィオネも頷く。捜査資料と地図、昨晩の逃走経路を照らし合わせて見れば黒羽が牢獄のどの辺りを根城にしているのかが何も知らなくても大体は分かってくる。これならカイムの持つ未来の知識を、『前回』の知識を持ち出し、黒羽の根城に辿り着いてもそこまで違和感はないだろう。黒羽の根城の候補は絞り込めた。後は直接行って確かめようという話になり、カイムもフィオネも席を立つ。
下層から関所の階段を降り、再び牢獄に戻る。鼻につく饐えた臭い。ああ、帰ってきたんだな、という少しの感慨も抱く。ここは最低最悪の場所だ。しかし、長年、牢獄に居るせいか、そんな最低最悪の場所にも親近感のようなものを感じるようになってしまった。無駄口は叩かず、フィオネと二人して黒羽の根城を探す。候補は幾つかあったが、カイムはストレートに当たりの場所を目指した。
「これは……!」
フィオネが驚愕の表情になる。打ち捨てられた民家の残骸が残る場所にはここ最近で何度も見た黒い羽根が重なり合うように落ちていた。「どうやら、ここが根城で間違いがないようだな」とカイムは言いながら落ちている黒い羽根の一つを拾い上げる。それは昨日、火事跡で見つけたような枯れ葉のような羽根ではなく、瑞々しさを保っており、最近、抜け落ちたものだと推察することができた。次にカイムは石壁の方に目を向けた。そこに『前回』同様、文字らしきものが掘られているのを見つけ「何か書いてあるな」と呟く。『前回』はカイム一人では発見できず、フィオネが見つけた文字だ。
「フィ……オ……? フィオ、か。どういう意味だ?」
多少、わざとらしいか、と思いながらもカイムはそんなことを言ってフィオネの方を見る。フィオネの顔色が露骨に変わった。しばらくの沈黙。カイムも何も言わず、フィオネを見守る。その末にフィオネは「カイム」と口を開いた。
「昨日、人間を化け物に変えてしまう研究がされているという話をしたな?」
「ああ」
「あれは……どこまで信用できる話だ?」
真剣な瞳でカイムを見るフィオネ。カイムは「どこまで、と言われてもな」と答えた。
「所詮は噂話だ。眉唾なことに変わりはない、と思うが」
「そうか……だが、それはもしかしたら、真実かもしれない」
フィオネはあくまで真剣な表情を崩さない。壁に刻まれた「フィオ」の文字を見ると、思案するように眉根を寄せる。
「カイム」
「なんだ?」
「これから話す話は他言無用を約束してくれるか?」
真剣な瞳がカイムを見る。兄に関する話だろう。それを察したカイムは真剣な表情を作り、「……分かった」と頷いた。
「人を化け物に変えてしまうという研究の噂、その研究所と噂されていた場所の跡地、昨夜の黒羽との邂逅、そして、この黒羽の根城。これらを見て、私の中では一つの推測が成り立つ」
「それは……?」
「…………」
フィオネは最後に言おうか言わないでおこうか逡巡している様子だった。もう一度、カイムの顔を見て、決心したように口を開く。
「黒羽は…………私の兄ではないかと思うのだ」
ざぁっと風が吹き抜けた。地面に積み重なった黒い羽根が舞い上がる。
「兄、だと……? どういうことだ?」
カイムは何も知らない風を装い訊ねる。「私の兄はな……」とフィオネが続ける。
「防疫局の隊員だった。しかし、ある日突然殉職したのだ。理由も何も知らせられず、遺体すらも見つからなかった」
「…………」
「そして、昨夜、黒羽と正面から相対して見て、その姿には兄の面影があった。最後に、これだ」
フィオネは石壁に刻まれたフィオの文字を示す。
「フィオ、とは兄が私のことを呼ぶ時に使っていた呼び名だ。そのことを知っているのは家族くらいしかいない」
噛み締めるようにフィオネは言った。その声音には未だ半信半疑といった様子が見え隠れしている。あるいは信じたくない、という願望もあるのかもしれない。カイムは慎重に言葉を選んだ。
「殉職したはずのお前の兄さんが化け物になって人を殺して回っているというのか?」
「……ッ!」
フィオネの顔が歪む。そうだろうとは思ってはいても認めたくはないことだろう。それを言葉にされたことで実感したのだろう。だが、フィオネは現実から目をそらすことはしなかった。
「……そうだな、そうではないだろうか、と。私は思っている」
フィオネは地面に落ちていた黒い羽根を一つ拾った。まだ抜け落ちたばかりと思わしき羽根を見つめ、彼女は何を思っているのか。「話は分かった」とカイムは言った。
「決して他言はしない」
「ありがとう、カイム」
カイムの言葉にフィオネは微笑む。しかし、次いでカイムから放たれた言葉に困惑の表情を見せた。
「それで、お前はどうしたい?」
「どうしたい……とは?」
「黒羽がお前の兄かもしれない。それは分かった。だが、問題なのはそこから先だ」
カイムはフィオネの瞳をしっかり見据え、続ける。
「俺たちに黒羽の捕獲命令が出ていることに違いはない。いや、これから先も黒羽の犯行が続くようなら目的が黒羽の殺害に変わることもそう遠くない話だろう。あいつはとても人の手に終えるような輩じゃない」
不蝕金鎖の構成員が黒羽に殺され、報復としてジークが用意した猛毒の入った小瓶を思い浮かべる。『前回』はそうだった。妹のフィオネの説得でも黒羽を完全に正気に戻すことはできず、結局は殺すしかなかった。
「そんな状況で、お前はどうしたい? 黒羽に対して何をするつもりだ?」
カイムは真っ直ぐにフィオネを見る。フィオネは気圧されたようになりながらも、しかし、ハッキリと答えた。
「私は……兄と話がしたい。化け物になってしまった兄を説得できるなんてたいそれたことをやれると思い上がっている訳ではない。だが、話がしたいのだ。一度だけでいい。私は、兄と話がしたい」
「殺されるかもしれないぞ?」
「それならそれで、構わない。私は兄の真意を見極めたいのだ」
合格だ、とカイムは思った。目の前に立つフィオネの瞳から強い意志を感じる。化け物そのものと化した兄に対しても怯むこともなく、ただその真意を知りたいと思うその覚悟。その強さ。それがあればこそ、こちらも全面的に協力できるというものだ。
「羽狩りにも不蝕金鎖にも言えないことだな」
「ああ……」
「お前が兄さんと話がしたいというのなら、それは俺たちだけでやらなければならないことになる……」
困難な事態が容易に想像できることにカイムが渋っていると感じたのだろう。フィオネの表情が曇った。「……だが、やってみる価値はある」と続けたカイムの言葉を聞いてその表情はパァッと晴れる。
「カ、カイム! 協力して……くれるのか?」
「ああ」
フィオネの声音は喜びに染まっていたが、しかし、どこか解せないという風に疑うような顔をする。カイムがこんな無茶苦茶(と思える)なことに協力してくれることを喜びつつも、疑問なのだろう。フィオネから見てカイムは合理性を何よりも重視する人間に映っているはずだ。そんな人間が合理性も欠片もないこんな無茶な要望を聞き入れてくれることが疑問なのだろう。実際「だが、何故だ?」とフィオネは言った。
「協力を仰ぐ立場でこんなことを言うのも何だが……私の提案は相当、無茶苦茶だぞ? カイム自身にも命の危険が及ぶかもしれない。なのに何故、この提案を受けてくれるのだ」
「そうだな……」
どう答えたらいいものか。カイムは考え込んだ。それが黒羽を生け捕りにする最善手だから、というのは『前回』を知る自分だからこそ分かることだ。フィオネの提案通り、黒羽を羽狩りや不蝕金鎖の目の届かない場所におびき寄せ、ティアに浄化してもらう。そうすれば、黒羽を生け捕りにするという目的はかなう。だが、そもそも何故自分はそんなことを考えるのか。別に『前回』同様、黒羽の死で幕を閉じてしまってもそこまで問題はないはずだ。自分がやり直しをしたのはあくまでティアを救うためだ。勿論、黒羽を生け捕りにすることが、黒羽の持つ情報が、ルキウスの手に渡ることがティアを救う上でメリットになり得ることではあるが、無理をしてやるほどのことでもない。何故、その黒羽を、そして、フィオネを救うようなことを考えるのか……。考えた末、口に出たのは兄から告げられた言葉だった。
「立派な人間になれ、と俺に言った奴がいる」
「立派な人間?」
「ああ」
カイムは頷く。
「俺はこれまで立派な人間であったことなど一度もなかった。だが、今回、アンタに協力することがその立派な人間になる第一歩かも知れない。そう、思ってな……」
言ってみてカイム自身も自覚した。それは本心だった。結局、『前回』は立派な人間になることなどできず、兄との二度の死別、その二度の最期の言葉も無駄にして終わった。だから『今回』こそは立派な人間になりたいと、少しでも多くの人を救える人間になりたいと思っているのかもしれない。
カイムの言葉から何かを察したのだろう。「その言葉をカイムに言った人は……」とフィオネが遠慮がちに声を発する。
「俺の兄だ。大崩落で死んだがな」
なんてことのないようにカイムは答えた。フィオネは「……そうか」とだけ呟いた。やや気まずい沈黙が場に立ち込める。そんな空気を払うように「それで」とカイムは口を開いた。
「兄さんと話をするというがどうやって兄さんと二人っきりになるつもりだ? 黒羽は神出鬼没だぞ? ここで待ち伏せをするのか?」
「ここに兄にしか分からないメッセージを残す」
フィオネは石壁に刻まれたフィオ、という文字を見ながら言う。
「日時と場所を指定しておく。兄ならば、黒羽が兄ならば……それを見て、会いに来てくれるはずだ」
それはたしか『前回』はカイムが提案したことだった。『今回』はフィオネが自力で思いついたのだろう。その提案に異論はない。『前回』はフィオネの残したメッセージを見た黒羽はフィオネに会いにその場所に訪れてきてくれた。清廉の鏡の娘より、という文章で始まる文をフィオネは壁に刻む。清廉の鏡とはフィオネの父親の渾名だ。黒羽、クーガー・シルヴァリアにはその意味が分かるはずだ。時間は明日の夕刻を指定し、場所は娼館街の南外れを指定する。その文章を書き終わるのを見届けると、カイムは「勝負は明日、だな?」とフィオネに声をかけた。
「ああ。何としても兄を説得してみせる」
強い決意を漲らせて、フィオネも力強く答える。
さて、明日か。カイムは考え込む。ティアに話しておかなければな、と思う。勿論、フィオネの説得も重要だと思うが、黒羽を浄化できるかどうかはティアにかかっているのだ。勝負は明日。カイムは自分にそう言い聞かせ、フィオネと共に黒羽の根城を後にした。