「か、会見!」
もう見慣れた医務室の天井が目に入って、すぐに思考が重要なワードを叩き出した。
慌ててベッドから飛び起きようとして、額をぺしりと押さえられて動けなかった。
「動くな」
「ひっ」
地の底から響いてきたような声音に、思わず喉が引きつった。
額に置かれた手、腕、と持ち主を目だけで探って、恐怖を呑み込む。
「…………」
そこに居たのは、魔王だった。間違えた。能面の悠一だった。
こ、この前の比じゃない!
「お、おはよ、ございまする」
「おはよう。俺がいない間に随分と無茶をしたようで」
「は、はい」
「4日も寝てたよ。いい夢は見れたかな」
「4日も……」
「そっか。まだ寝足りないみたいだし、もっかい寝ようか?」
や、やばい。悠一の能面が一瞬たりとも崩れないぞ。疑問符を付けたイントネーションのくせに全然こっちの意見を聞いてくれそうにないぞ!?
危機を脱したいが、能面から視線を逸らせば終わる。何が終わるのかさっぱりだけど終わる。
「よし、寝ようね」
「ひぃ!?」
額を押さえていた手の面積が広がって視界を覆われ、唇をカサついた唇で塞がれた。
ピーッと音が響いたのを最後に、また眠った。
意識の浮上を察する。しかし、眠る前の出来事が頭を過ぎって、目を閉じたまま慎重に周囲の気配を探る。たぶん、いない。
そうっと瞼を開けると薄暗い天井。最小に灯りが落とされていることから今が夜だと知る。
首を捻ってみると茶髪と青いジャケットが目に入ってドキリとしたが、ベッドに突っ伏して眠っているようだ。
「……───」
名前を呼ぼうとして、掠れた音しか出なかった。ベッド脇のデジタルカレンダーへ目をやれば、どうやらまた日を跨いで眠っていたらしい。
静かに身を起こしてみる。筋肉の衰えを感じて悲しくなったが、まったく動けないよりマシだ。額と項のシールはもう剥がされている。脳は元の運用へ転換出来たようだ。
悠一の頭を撫でようと手を伸ばして、止めた。現在は夜中の3時。
ベッドから素足で降りて、悠一の顔を覗き込むために移動。トリオン体らしく、顔色は良くわからない。それでも、寝顔が相当疲れているように感じた。
───それも、そっか。
悠一は色んな未来を視ている。記者会見がどういう結果になったのかまだ知らないけれど、これからボーダーはまた忙しくなるだろう。こちらの世界事情の忙しさも、
私という荷物まで背負い込む器に感服するしかない。背負い込まれた荷物はどうすれば、自主的に軽くなれるんだろうね。
とりあえずトリオン体と言えど突っ伏した体勢は寝にくいと思われる。結局起こすしかないのかな。
後ろから脇にそっと腕を差し込んで抱きつく形になり、ベッドの上に動かそうとした。うん、無謀だった。筋力が衰えている上に、自分より大きな男性を動かそうなんてアホの試みだったわ。
「…………」
背中から脇を通してホールドして、椅子に座らせた状態。これからどうしよう。首と腕がだらんと力が抜けた悠一を全身で支えながら途方に暮れる。
え、もう一回突っ伏させればいい?
「ぷっ」
「!?」
腕の中から噴き出した声がして、身体をバイブレーションさせて笑う悠一の旋毛を見下ろす。
「……いつ、から、起きてたの?」
「さっき。あーあ、玲の胸が痩せちゃったね」
掠れた声でなんとか喋れば失礼なことを言われた。確かに悠一の後頭部は私の胸の位置だ。点滴の栄養しか摂ってない上に運動もしてないから、そりゃ全体的に痩せるよ。でもさ。
「落としていい?」
「って言いながら手を離してますよ玲さん」
「胸だけ限定して言うから」
悠一が腕を後ろに回して私の腰を掴み、そのまま前へ引っ張られて、ひょいと膝の上へ乗せられた。そして尻を揉まれる。
「お尻も痩せたね」
「……ねぇ、一緒に寝よ」
もう色々と反応に疲れたので悠一の肩を叩く。私の訴えに、悠一は私を抱えてベッドへ上がった。
2人して向き合ったまま横になる。
眠そうに目を細める悠一に、青いジャケットを軽く引いた。
「トリオン体、解除してよ」
「ん、ダメ。ヒゲ剃ってないし」
「いいじゃん」
「ヤダ」
眠そうだし、譲ってくれそうになかったので諦める。妥協として悠一を抱き枕にしてくっついた。トリオン体って温かいけど、悠一の匂いがしないからちょっと寂しい。ん? ちょっと待てよ?
ヒゲ剃ってないってことは、数日家に帰っていない&玉狛支部にも行ってないってこと? ご、ご飯はちゃんと食べてたのか!?
目を閉じてしまった悠一は既に寝ている。輪郭は変わっていないけど、数日前からトリオン体だったら正確性はない。寝食でトリオン体は維持するはずだから、一応エネルギーは足りているってことだろうか。点滴ってむしろ悠一の方が必要なんじゃ……
「おやすみ、悠一」
とにかく、悠一の状態はちゃんと日中に起きてから訊くことにしよう。今は少しでも休んでもらえるように。
*
『訓練生の一部だけ走ったのは囮ですよね。彼らは同意していたのですか?』
──はい。本人の同意を得て、ご家族への説明もしています。
『囮にするのは予め敵の行動が予測出来ていたからのはずです。我々市民にも予測を伝えていればもっとスムーズに避難が出来ていたのでは?』
──ご指摘通り、予測は出来ておりました。しかし、敵の偵察が侵入していることも判明していたので大々的に公表は不可能でした。先日、ご協力いただきました小型トリオン兵騒動の件です。小型トリオン兵は4年前から侵入しておりました。これらを排除しようにも当時のボーダー組織も万全ではなく、設備や人員が十分でなく、下手に手を出せなかったのです。
されど今回、やっと一歩を踏み出して侵入者を処理出来ました。
そして、第一次侵攻の頃から温めていた計画を始動するに至ったのです!
『それは?』
──連れ去られた人間の奪還計画です。
『え!?』
──既に無人機での
『
『危険では!?』
『4人を救う為にさらに犠牲が出る可能性が……』
──あなた方は、この場合「将来を見越して
『…………』
──この奪還計画は今回攫われた4人だけでなく、第一次侵攻で行方不明になった400人以上の市民も対象となります。ボーダーにとって過去最大のプロジェクトと言っても過言ではありません。
我々ボーダーは「戦力」を求めています。それは前線で戦う隊員であり、隊員の援護を担う職員であり、組織を支える母体となるこの都市そのものです!
従来の防衛活動及び、奪還プロジェクトへの市民の理解と参加を期待します。
『奪還計画の人員はどのように決めるのですか? 新しく入った隊員にもチャンスはありますか?』
──隊員から希望者を募り、その中から選定します。
しかし、熱意のある者やトリガーを使う才能が高ければ、新しい隊員にもチャンスはあります。
また、今回の計画が順調に成功すれば次回もあるのですから。
記者会見の映像はここで終わった。
やっと退院許可が出たから身体の慣らしがてら、悠一の放浪任務に付き合っている。公園のベンチで休憩に入ると、端末を渡されて情報を与えてくれたのだ。ちょっと意外。
「根付さんの独壇場だったねー」
「まぁね。というか、玲が遠征任務暴露を進言したんでしょ?」
端末を悠一に返して感想を述べれば、一瞬能面の悠一が過ぎって目を逸らした。
と、トラウマになってる……!?
「こーら、こっち見ろ」
「いひゃいれす」
「目を逸らす玲が悪い」
「はい……」
半眼になった悠一に反論できず、ジンジン痛む右頬を押さえながら返事する。とりあえず能面じゃなくて安心した。
「そういえば、悠一ご飯ちゃんと食べてた?」
「当たり前でしょ。玲はこれからしばらくお粥だから可哀想だなぁ」
「そう? 私お粥好きな方だから問題ないけど」
「……俺は玲の味付けのご飯が食べたいなぁ」
「頑張るよ! というか筋力落ちたからトレーニングも始めなきゃ」
さすがにフライパンとか鍋とかが持てない、なんてことはないだろうけど、大人数の材料は辛いだろうな。学生の時にやった20人前とか今は無理だ。
「体重も戻す?」
「女子に体重は禁句なんだけどなあ? うん、でも体重は筋肉ついたら勝手に増えるよ。脂肪より筋肉が重いし」
「あ、いや。体重っていうか胸のサイズ」
「天誅! セクハラめ!」
手刀を試みるが手首を取られて阻止された。
もう! 何度も胸って言うな! いつの間にお尻から胸に鞍替えしたんだ!
「いやいやお尻は変わらず好きだよ。でも玲ならどこでも好きなんだよ」
「……後半だけなら良かったのに。今はすごくぶん殴りたい衝動があります」
乙女心か? 怒りか?
表現しがたい感情に拳を握っていると、ふと左手の薬指に目が行った。入院生活だったから指輪は外しており、悠一が預かっているらしい。ほとんど外すことがなかったから、無いと違和感が強い。
でも、これで良かったとも思っている。何故なら。
「あのさ、悠一」
「ん? !? 待って、そんなはずは……うわ、俺かっこわるい」
未来視で私の次の言葉を識ったんだろう。口元に手をやって文字通り「しまった」という表情に、期待しても良いのだろうか。
正直、婚約やら同棲やらしてるから、もう言ってくれないと思う。でも自分勝手なワガママを許してくれるなら。
どうか、
悠一は同棲する時に「一緒に暮らそう」と言ってくれたし、両親に「娘さんを下さい」とも言ってくれた。でも、なんだかんだで"結婚"というフレーズは私自身に言ってないんだよね。
「侵攻で私がいなくなるから、なんて思ってたけどなんか違うみたいだし」
「っ違う! 俺は、てっきり……いや、未来視で何度も言ってる気がしてただけだった」
目に見えて落ち込んだ悠一。プロポーズの言葉なんてそう簡単に口に出さないから、未来視で何度も言ってたなら現実で言った気分になるのかな。
そこまで考えて、ある事に気づいて頬が熱くなった。咄嗟に両手で顔を覆う。
「え、どうした」
「…………何度も言ってたってことは、何度もそういう気持ちになってくれたんだと思い至りまして」
「当たり前でしょ」
真剣な声音で肯定されて更に体温が上がる。
暑い! い、今の季節はまだ冬なんだけどな!?
「玲」
名前を呼ばれてゆっくり顔から手を離せば、悠一が左手を取った。
悠一の右手には、いつの間にか婚約指輪があって。
「俺と結婚して下さい」
左薬指の付け根にキスをしてから、婚約指輪を嵌めてくれた。
「っ!! もち、ろん。こんな私でよければ」
「玲だからだよ。玲以外と結婚出来ない」
「……っふ、不束者ですが宜しくお願いします」
「うん」
満足そうにもう一回、今度は唇にキスをくれた。私ばっかり幸せで悔しくなるなぁ、もう。
・迅と八神
中途半端な暗示をかけ続けていた弊害か"結婚"というワードを口に出していなかった迅。匂わせる、遠回しには言ってますがはっきりと八神に言っていませんでした。
それでも、今までの八神にとってそれだけで十分だったのですが、少しだけ欲を出しました。
前話の唐沢から「自分を認めて自信を持て」と言われたことで、少しずつ変わっていくことに。
・メモ
男は行動で愛を示すが、女は言葉と行動で愛を欲しがる。
また、人間にも動物的な本能があり、互いに"匂い"で相性を判断するそうです。相手の匂いが好い匂いだと感じるなら遺伝子的に相性が合うのだとか。特に女性の方が嗅覚は敏感で、匂いフェチのように八神を描写していたのはこういう理由だったり。
それと余談ですが、遺伝子的に相性が合うならキスが凄く気持ち良いらしい。愛情フェロモンなる物が供給されるとか。技巧部分の上手い下手は一切関係なく、触れ合わせるだけで脳が信号を発して快楽を得られる。奥が深いですね。