夏目が八神を初めて見たのは、C級隊員緊急特別任務 選抜面接でだった。
「こんにちは、八神玲です。どうぞ椅子に掛けて?」
その時相手は、柔和な笑みを浮かべていた、と思う。夏目がそう曖昧に覚えているのも無理はなかった。
面接を受けることが初めてというわけではなかったが、やはり何回受けても緊張する。
更に、言いたいことを必死に頭の中で纏めていた夏目に、面接担当者の顔をしっかりと見る余裕がなかったのだ。
二度目に見たのは、特別訓練の最中だった。
「あ、八神さんだ」
共に行動している雨取が訓練の最中にそう声を上げたので、視線の先を追えば佐鳥と端末を指差して話す女性がいた。
面接担当者だった人だと、ぼんやりと合点する。
夏目としては、そこで初めて"八神玲"を認識した瞬間だった。
同じポジションで仲の良い雨取と、特別訓練が始まってからたまに喋る空閑から、八神の話をなんとはなしに聞きながら「あの人はA級なんだ」と漠然と考えていたのを覚えている。
夏目の中では完全に他人事であり、どれだけ口頭で"凄い"と言われても実感の湧かない人物だった。
何故なら、八神から"強者"という凄味を一切感じなかったから。
強い人間とは、その場に居るだけで空気がごっそりと変わる。何をするにも独特の雰囲気を持っている。
それは所謂、カリスマ性だ。
八神にはそれが無い。
もしも空手の試合で組み合ったら「ラッキー」と思えるような気迫の無さだった。
それが一変したのは、やはり第二次大規模侵攻でだった。
数々の人間の転機と言っても過言ではないあの戦いで、夏目出穂もまた、転機が訪れた者である。
「きをつけッ!」
B級隊員の三雲がやられ、誰もが恐怖で叫び出しそうだったその瞬間、八神の鋭い声音が場を引き締めた。
思わず丹田に力が入った夏目は、息を吐き出し無駄な強張りを取り払って思考を取り戻す。
自然と惹き寄せられた視線。
その背中は、鮮烈だった。
前方のA級隊員たちよりも見劣りしていたはずの背中が、広く大きく見える錯覚。
空気がピンと張り詰めて、色さえも変わったような雰囲気。
声だけで存在を
鋭い声から柔らかな声に落ちても、その背中は変わらずC級隊員たちに安心を与える。
特別訓練では感じたこともないカリスマ性が、そこで発揮されていた。たった数分の光景が脳裏に焼き付いて離れない。
あの場にいたC級隊員たちすべてが、八神を見る目を変えたのは紛れもなかった。
頼もしかった。格好良かった。
同じ女として、憧れた。
シューターだと思っていた八神が、雨取を経由してスナイパーだと知った夏目は、彼女のランク戦ログを探して再び圧倒されると同時に、落胆する。
憧れの彼女と同じ戦法が自分に出来るとは思えなかったからだ。
しかし、夏目が憧れたのは八神の戦闘スタイルではなく"心"である。"在り方"とも表現できるが、つまりはそういう目に見えない部分だ。
だが、そんな曖昧な部分を真似るなど出来はしない。
他人に憧れるという点では、夏目は詳細を知らないが緑川も同様だった。
彼はピンチを救ってくれた迅に憧れて同じトリガーを取得し、隊服版とは別に、リスペクトの意味でサングラスを付けたトリオン体デザインを設定している程である。
そんな緑川でも戦闘スタイルは迅とは異なる。己に合ったスタイルでA級部隊に堂々と所属している。
夏目にはまだ己に合ったスタイルなどわからない。早々に正隊員へ上がった緑川とは違い、C級隊員のスナイパーとしてもまだまだ未熟だった。
それならば先ずは形から、とログの映像を手本に撃ち方だけでも真似を始めた。すると数日で命中率が上がったように思えて、夏目は単純に嬉しかった。
これは夏目の気のせいではなく、見て学び成長している証なのだが、彼女は自己の努力を見せびらかすタイプではなかったので実感がなかったのだ。
学校やボーダーで雨取から師匠についての話を聞く度に、夏目の脳裏にはいつも八神の背中が浮かぶ。
もしも自分が師匠を見つけられるなら、彼女のような───。
「お、玲さんの撃ち方に似てんじゃん。紹介してやろうか?」
「!」
当真にそう言われた時、夏目は思い切って頷いた。
斯くして八神に弟子入りを果たした夏目は、1日の短時間であるが順調に学んでいく。
訓練相手の比率は、やはりもう1人の師匠になった当真との訓練の方だ。
感覚派の教え方に当初は夏目も戸惑いを覚えたが、すぐに順応した。
達人の域には遠いものの、夏目も武道家の端くれ。どれだけ型に嵌めた動きを教えられようと、結局は自らの感覚で芯を捉えなければ身にならないと知っている。師匠2人が教えるのは技の入口だけなのだ。
八神の訓練も先ずは簡単な口頭説明から始まり、すぐに実践へと移った。
一番始めに行ったのは移動訓練だ。
トリオン体での地形踏破訓練にスナイパー銃を持って素早く移動する。ポジションとしての基礎だと言われれば夏目も真剣に取り組んだ。
次に隠密行動とそれに対する狙撃手の行動について。
狙撃手の射線を切ることは重要な手であり、狙う側と狙われる側のどちらの行動も八神は夏目に指導した。また、同じポジションのスナイパーだけでなく、他のポジションの行動の特徴も大まかに教え、狙い方や逃げ方の基本も挙げた。
現段階で八神と夏目の訓練内容はこの2つがメインとなる。
止まった的ではなく、動く的。更に、撃った後の素早い移動と射線。
C級の単純な訓練から数段ランクアップした訓練に夏目は目を白黒させたが、その分楽しみが増えたように感じた。
憧れた"在り方"は未だに掴めない。そもそも夏目の感覚であるそれを、自身が的確な表現も出来ないままではまさしく雲を掴むようなもの。
されど、中学生の夏目には、ただ「憧れた」それだけで十分だった。
「──で、ですね! なんと、今日の合同訓練で26位になりました!」
「えぇ!? すごいじゃん!」
夏目が端末に表示された数字を指しながら八神の前に提示すると、彼女は目を丸くしてからすぐに満面の笑みになって喜んだ。
自販機エリアのベンチで隣り合って座り、夏目は嬉々として今日行われた狙撃手の合同訓練の一つである、捕捉&掩蔽訓練の成果を報告していた。ちなみに夏目の猫は八神の太腿の上で丸まっている。
的中数20、被弾数9で82点の26位。
夏目自身も驚きの点数と順位だったが、同時に納得の点数だった。
当て方や逃げ方は2人の師匠に教えてもらった通りに実践したおかげで、彼女はカウンターをほとんど受けることがなかったのだ。
捕捉&掩蔽訓練は、撃った後が不利となる。
初期に東が考案した頃とは違って現在のこの訓練は銃種がイーグレットに限定され、音も光も発さない仕様となった。故に、相手を見つけることがかなり難しくなっている。
しかし、撃たれた後は自分を撃った相手との距離を数秒見ることが出来る為、反撃がやり易くなるのだ。
「けっこう逃げれたんですけど、やっぱりB級とかA級の先輩からはムリだったッス。リーゼント先輩なんて500mっすよ500m!」
「当真くんだからねぇ」
「他にも訓練一位の先輩を狙ったら、避けられた上に返り討ちにされましたぁ」
「訓練一位って……奈良坂くんかな? そっか~避けられちゃったかぁ」
ガックリと肩を落として顔を正面に向けた夏目に、八神はクスクスと柔らかく微笑む。
夏目の被弾はほとんどが返り討ちにされたものである。夏目の射程圏外からの狙撃と、射線の切り方が甘かった時に撃たれたものもあるが、それ以外は挑戦した結果だった。
前半で順調に的中数を稼いだ夏目は「訓練だから」と思い切って、A級やB級の隊員へ狙いを定めたのだ。
マップを慎重にかつ素早く移動していく中、夏目は自信を持って狙撃出来る地点を複数決める。
もし、その地点に誰かが通れば絶対に撃ってやると意気込んで待ちに徹し、見事撃ち抜いた。
正隊員をも撃ち抜いた己に、思わずその場で「よっしゃ」とガッツポーズを作るほど喜んだのだが、すぐに撃ち返されて点数が伸び悩む結果となる。
奈良坂への狙撃に至っては、自信を持って定めた地点であったのに逆に射線を見切られて先手を打たれ、動揺している間に逃げられた。正にカウンタースナイプである。
「実戦形式の方が楽しかったなぁ。あ、チカ子も実戦形式が得意みたいなんで、やっぱり師匠がいるかいないかの違いってヤツですかね? チカ子と言えば100点越えで19位でした! ユズルはなんか手ェ抜いてたっぽいスけど、なんだかんだでアタシより上の順位でちょっと悔しかったなぁ」
撃たれた時は悔しい。同年代より下のランクで置いてけぼりを食らったみたいで、悔しい。
けれど、どんどん成長している己を感じられて訓練は楽しい。
目に見える形で順位や点数が表示されると、更にそのことを実感した。
格上に挑戦したことを当真も八神も咎めなかった。
むしろ当真は「おれに撃ち返してこねーうちはまだまだだぜ」と不敵に挑戦を促してくる。
八神も「先に稼いでから挑戦した? え、すごく計画的。B級に上がっても通じるよ。訓練日程を見直しておかないとね」と今後のことを考え始めた。
一線級の師匠たちを持つアドバンテージは、通常の狙撃訓練よりも実戦形式の訓練で明確に差を顕した。
師匠の有無を知る夏目だからこそ、それを強く実感する。
「そういえば、さっきユズルがチカ子に
日頃の訓練での試みや、合同訓練での反省点と改善点とを報告していく。やがて女子会のノリで恋バナに発展させたところで、夏目は八神から返事がないことに気付いた。
正面に向けていた顔を隣へ向ければ、八神は座ったまま瞼を閉じていた。膝の上で丸まっている猫の温かさが心地よかったのだろう。
話の途中で眠られたことに夏目は少しだけムッとしたが、よくよく見れば目の下にうっすらと隈が浮かんでいる八神の顔を認めて、それを引っ込めた。
「あ!」
ゆらりと、夏目とは反対方向に倒れそうになった八神に慌てて手を伸ばしたが、その手は届かず空を切る。
猫が起きて慌てて夏目の足へ飛び移った。
「はい、キャッチ」
されど、八神が床に落ちることはなかった。
「あ、えーと……ぶっ飛び先輩」
いつの間にか現れた迅がトンと、優しく八神の体を支え、流れるようにベンチへ座って膝枕へと移行した。
「ん? ぶっ飛び先輩ってオレのこと?」
「はい」
「ははは! いいね、気に入った。ちなみにオレの本名は迅悠一ね。玲の彼氏です」
キラリとエフェクトを出して自己紹介してきた迅に、夏目は微妙な顔をして頷いた。
夏目の迅への第一印象は『大侵攻の際に建物へぶっ飛んできた人』である。
八神に彼氏がいることは夏目も承知しており、生身の左薬指に指輪をしているのだから当然だとも思っていた。
しかし、八神の普段の性格から考えて、彼氏はもっと落ち着きが有って冷静な人だろうと予想していたのだ。
期待を裏切る飄々とした迅の態度に、夏目は尊敬する八神が弄ばれているのではないかと訝しんだ。
少女の怪訝を知る由もない八神は、スヤスヤと迅の太腿を枕に眠っている。
そして乗せている迅も夏目の心情を知ってか知らずか、八神の三つ編みをスルリと解いて寝やすいように調え始めた。
「悪いね。玲は夜間任務でずっと起きてたからさ」
「マジっすか? 眠いなら言ってくれればよかったのに……」
「いや~最近弟子がかわいいって自慢してたからね」
「そう、なんですか」
夏目へゆるりと笑った迅が、優しく八神の頭を撫でる。
その様子に夏目はドキリとして、しかし、それはすぐに治まった。
何故なら、迅の笑みは一心に八神へと向けられたものだからだ。
三つ編みにより緩く癖がついてウェーブが掛かる黒髪に、迅は遊ぶように指を絡ませる。寒色の瞳は色に反して熱を持ち、他人が入り込む隙間など有りはしない。
周りの女子より恋愛経験が低い夏目に、向けられたこともない熱い感情の側面は、端から見ているだけでヤケドしそうな程。
夏目は「これが『リア充爆発しろ』ってことか」と確信した。
遊びであんな目が出来るわけがない、と結論した夏目は、とある事を訂正すべく口を開いた。
「先輩……"ぶっ飛び先輩"ってのやめます」
「えぇ? おれ気に入ってたけどなぁ」
髪に触れている方とは反対の手を八神の頬へ添えたままに、迅は残念だという表情で夏目を見る。夏目はその光景をしっかりと目に納めてから、言った。
「"ぶっ飛び先輩"じゃなくて、"激甘先輩"です」
夏目はそう言い切ると、猫を抱いてベンチから立ち上がった。
「じゃ、激甘先輩アタシはこれで。師匠にもムリしないよー言っといて下さいッス」
「お~」
手を振ると迅もそれに応えてヒラリと手を振った。
「そんなにおれ甘いかな……甘いか。そりゃ
去って行く夏目を見送って、迅はもう一度、八神の柔らかい黒髪をなぞるように触れたのだった。
・憧れフィルター
少なくとも大侵攻の際にあの場にいたC級隊員は「すごい」くらいは思っています。
夏目ちゃんの場合は雨取ちゃんや空閑から事前情報があったので。