夜。シャーレイは帰ってこないひなたの事を心配し、しかしスラムまで行ったらひなたに怒られるのは分かっていたため、迎えに行きたくても迎えに行けない。そんな気持ちに心を悩まされひたすらに宿の部屋の中をウロチョロしていた。やはり、ひなたがいない時間というのは落ち着かない。それ故に宿をウロチョロして何とかその気を紛らわせようと必死だった。
だが、よく考えてみると、ひなたがスラムから帰ってこなかった場合、スラムに来ちゃいけないなんて一度も言われていない。ただ、ひなた本人がスラムから帰ってこれない可能性を考えてなかっただけ、というのもあるのだろうが、それでも言われていないならやってもいいかもしれない。ひなたに叱られてもそんな事言われていない、の知らぬ存ぜぬで通しきれるかもしれない。何やかんやで優しいひなたの事だ。きっと許してくれるかもしれない。
「そうと決まれば!」
シャーレイはすぐに自分の上着を羽織り、外に出るためにドアノブを掴みかけた。
が、そのドアノブは勝手に捻られ、すぐにドアが独りでに開いた。内開きなので、徐々に迫ってくるドアを後ろに下がりながら避けると、ドアの向こうから見慣れた小柄な少女が現れた。
「ヒッ!? ……って、ひなたちゃん!?」
「シャーレイ……」
ひなたの様子は、かなり可笑しかった。ローブすら羽織らず、服も体も汚れっぱなしだ。
だが、それ以上に可笑しい部分が沢山あった。
ひなたの顔の八割以上が血で濡れていた。髪の毛も、後頭部から首筋にかけての場所が真っ赤に染まっており、いつもサラサラだった髪はベットリと血に濡れ張り付いている。そして、顔も血に濡れていない場所を探すのが難しい程には血に塗れていた。特に、口に関しては血を吐いたのか分からないが、チラリと見えた歯すら真っ赤に染まり、口回りは特に血が酷かった。
体に関しても、服が殆ど血に濡れ、ひなたの体からは血が出てはいないが、返り血にしてはその血は多すぎた。
目も、前に吸血された時よりもかなり鮮やかに紅に染まっており、真っ暗な場所に放置したら光のない場所で赤く光って見えるのでは、と思えてしまうほどだった。
ほぼ全身を赤に染めたひなたは、一瞬誰かと思ってしまう程だった。ここまで歩いてくる中、すれ違った人はかなり驚いたことだろう。
「……ごめん」
ひなたはゆっくりとシャーレイに近づき、そのまま倒れるようにシャーレイに抱き着いた。
この数秒の情報過多な出来事に脳がパンク寸前だったが、抱き着いてきたひなたを抱きしめ返す位には脳が働いた。だが、どこかひなたの様子が可笑しい、と思い、ひなたに対して言葉を返すことが出来なかった。
だが、ひなたは数秒ほど苦しそうに喘ぎ、再び口を開いた。
「血を……飲ませて……」
「血を?」
ひなたがこうして自ら吸血させてくれと頼むことはあの日以来無かった。
こうして血を望むという事は再び幻肢痛が起きたのか、それともスラムで何か、血が飲みたくなる出来事があったのかは分からないが、ひなたはかなり苦しそうにそう言った。
なら、シャーレイに断る理由はない。ひなたが望むのなら、その程度は容易い事だ。
「うん、いいよ」
「あり、がと……っ」
シャーレイはひなたを抱きしめたままベッドまで移動し、腰かけるとひなたを膝の上に乗せた。
ひなたと顔が向き合うように乗せ、暫し二人で顔を見合った後、ひなたはゆっくりとシャーレイの肩に顔を乗せ、そのままシャーレイの首筋に牙を立てた。
一瞬の痛みの後にそれを上回る快楽が襲ってくる。それを抑えながらゆっくりとひなたの頭を撫でる。
「んっ……ぁ……」
「ん……ちゅ……くっ……」
ゆっくり、ゆっくりと血を吸っていくひなた。前のような、何かを我慢しながらの吸血ではなく、単純に血液を飲みたいがための吸血。
自分の体の中から暖かい物が徐々に抜けていき、若干の寒気を覚えながらもゆっくり、ゆっくりとひなたの頭を撫でる。赤子を慰めるかのようにゆっくり、ゆっくりと。
それが十数分経っただろうか。体が寒気を覚え始めた辺りでひなたは吸血を止め、首筋から口を離した。そして、数回シャーレイの傷口を舐めると、そのまま顔を離した。唾液が赤い糸を引き、ゆっくりと途切れていく。
「今日は、長かったね」
「……ごめんね」
二人で向き合い、言葉を交わす。
そして、ひなたがそのまま目を閉じ、シャーレイの額に己の額を合わせた。シャーレイはそれに驚いたが、きっと物凄い疲れてどうしようも無かったのだろう。
「もう……シャワー浴びないと、血が酷いよ?」
それに、臭いも。
血と肉が混ざったようなその異臭はひなたの元の臭いを完全に打ち消していた。だが、ひなたは酷く弱い力でシャーレイを抱きしめる行為だけでそれを拒んだ。余程な事に巻き込まれてしまったのだろう。こんな返り血に塗れて、それでも生きて帰ってきたのだろう。
そう考えると、今にでも休ませてあげたいが、それでもシャワーくらいは浴びないと返り血も取れないし異臭が明日まで残ってしまう。優しく抱きしめ返してそれを逆に拒否する。
「私が洗ってあげるから。ね? 女の子なんだし入んなきゃだめだよ」
「…………ん」
ひなたはかなり渋々だったが、その言葉を聞いて一言だけ呟き頷いた。ゆっくりと彼女はシャーレイの膝の上から降り、そのまま服を雑に脱ぎ始めた。せめて脱衣所で脱いでほしかったな、と思い、ひなたの脱ぎ散らかした地濡れの服を全て拾って洗濯物を入れる籠に入れた。
「あ、ありがと……」
「いいよ。ほら、先に入ってきて」
シャーレイもここで脱いじゃえ、と思いながら自分の服に手をかけた。
が、何故かひなたの視線を感じたため、脱ぐのは中断してひなたに声をかけた。
「どうしたの? ひなたちゃん?」
「う、ううん。何でもないよ」
顔色が返り血で完全に不明なため、タダの挙動不審な状態になっていたひなただが、ボーッとしていたため、シャーレイの着替えをガン見していた。何とかシャーレイの言葉で我に返ったが、もし声をかけられなかったら脱ぎ終わるまでガン見していたかもしれない。
そそくさとひなたはユニットバスに入っていき、暫くして服を脱ぎ終わったシャーレイが二人分のタオルを手にその後を追った。
浴槽の中でうつらうつらとしていたひなたを見てちょっと笑ったシャーレイはすぐにシャワーでひなたの返り血を落とし始めた。だが、髪に関しては結構べったりとこびり付いており、数回シャンプーを使って髪を洗わないと落ちない程だった。
が、数回洗えばしっかりと落ち、何時もの綺麗な銀髪に戻った。
「……シャーレイ」
「なに?」
髪の先まで丁寧に泡を落としていると、ひなたがふと口を開いた。
「……この傷、どう思うかな」
「どう、って?」
「消したほうがいいかなって……この傷、実は消せるから」
そう言い、ひなたは自身の胸元に大きく残っている傷跡を撫でた。
ひなたにとって、その傷跡は決意の印でもあった。絶対に、あの男を抹殺する、という。もう、他人と密接な関係にはなれないのだから、これをその印として残しておいてもいい、と思っていた。
が、こうしてシャーレイと密接な関係になった以上……自分の全てを肯定してくれるかもしれない女の子に出会ってしまった以上、その決意は印ではなく想いとして己の中に残し、改めて己の人生を始めるために。
復讐のためだけではなく、シャーレイを守るという事も含めた人生を始めるために。
「……ひなたちゃんが消したい、って思ったなら消したらいいんじゃないかな。消せるのに、どうして残しているのかは私には分からないけど、ひなたちゃんの中でそういう踏ん切りがついたなら、消せばいいと思う」
「……そっか」
シャーレイにとっては、こんな自分より小さな年上の女の子がどんな壮絶な人生を送ってきたのかはわからない。が、それでもこの傷は、きっと名誉ではなく何か別の物を忘れないための証明としているのだと何となくだが察していた。
だから、それを消すのがひなたにとってはどんな気持ちなのかは分からなかった。分からなかったからこそ、この傷はひなた本人が消したいと思ったら消せばいい。そうとしか思えなかった。
「……じゃあさ、ボクの秘密が知られたら消すよ」
「秘密? まだあるの?」
「うん。とっておきが」
吸血とは格が違う、とっておきの秘密が。
それを知って、シャーレイがひなたの元を離れることなく一緒に居てくれるのか。それは分からないが、もし一緒に居てくれるという物好きになってくれるなら。彼女と共に生きるため、この傷を消そう。
きっと、あの人達も……あの惨劇の中、ひなたが手にかけた恩人達も、こうしてひなたが復讐だけを生きがいに戦い続ける事は望んでいないと思うから。
「……分かった」
「……後は明日話すね。今日あった事は、ちょっと今日は話したくないから」
いいよ。そう一言だけ言い、ひなたの髪を洗い終わった。
もう上がっていいよ、と言うと、ひなたはシャーレイの持ってきたタオルで最低限、自分の体を拭くとユニットバスから出て行った。シャーレイも急いでシャワーを浴びると、すぐに体を拭いてユニットバスから出た。ひなたは髪も乾かし、下着だけ身に着けベッドで寝ついていた。
こういう所は子供っぽいんだから、とシャーレイは笑いを零しながら寝間着に着替えてひなたの隣に潜り込んだ。シャーレイには、ひなたが今日、どんな修羅場を送ってきたのかは到底予想はできない。だが、今日、こうやって帰ってきてくれた。それだけでもシャーレイは嬉しかった。
きっと、ひなたの言う秘密という物は、シャーレイには予想もつかないような事なのだろう。だけれども、シャーレイにはひなたがどんな秘密を持っていても受け入れる準備は出来ている。彼女に許されるのなら、例え全世界が敵に回っても彼女の側に居続ける覚悟だってある。
二十歳には見えない幼い寝顔を正面にして、シャーレイは眠りについた。きっと、明日もこうして一緒に寝ることが出来ると信じて。
****
目が覚めると、シャーレイの目の前にひなたは居なかった。体を起こして少し周りを見渡せば、ひなたは椅子に座って椅子の肘掛けに肘を立て、手で顔を支えながら煙草を吸っていた。
瞳は片方しか見えないが、既に紅から翠に戻っており、服もちゃんと着ている。今日は何時もの半袖の部屋着ではなく、長袖の部屋着を着ているため、左腕に袖が入っておらず、ひなたの細かい体の動きで袖が独りでに揺れている。
「……あぁ、おはよう、シャーレイ」
「ん……」
朝に弱いシャーレイは寝惚け目を擦りながら現状を把握する。
まず、ひなたは確実にシャーレイよりも早く起きて煙草を吸って時間を潰していたのは分かる。だが、よく見てみると、昨日洗濯していなかった服が窓際に掛けられ干されていた。その中には昨日、返り血で真っ赤になっていたひなたの何時もの戦闘服兼外出着も掛けられており、ひなたが一人でそれを行ったのは明白だった。
それを頭の中で長時間かけて把握していると、ひなたがその視線に気が付き煙草を咥えたまま現状の説明をした。
「明け方に幻肢痛で目が覚めちゃってね。そのまま寝付けないから洗濯でもしようかな、って思って。それに、ボクの服は血塗れだったから、シャーレイにやらせるのは気が引けるしね」
数時間前に目が覚めたひなたは二人分の洗濯物の選択をした後、一人で一時間以上血を落としていた。隻腕でやりにくかったためかなり時間がかかったが、戦闘服兼外出着は一張羅であると同時に頑丈で高いため、何が何でも血を落とそうとユニットバスで一人格闘していた。
その結果、血は綺麗に落とすことが出来たが、いつもの半袖の部屋着とズボンが濡れたため、もう一着の長袖の部屋着とショートパンツでこうして一人煙草を吸っていた。
「……私がやったのに」
「あはは、ごめんごめん。じゃあさ、後ででいいから煙草をカートンで買ってきてくれないかな。無くなっちゃってさ」
そう言いながらひなたは空になった煙草の箱を見せる。
ようやく目が覚めてきたシャーレイだったが、灰皿を見て自分の目を疑った。
毎日灰皿は嫌でも目に付くが、今日の吸い殻は何時もよりも大量にあった。それこそ、一箱分一気に吸ったんじゃないか、と思ってしまうくらい灰皿に吸い殻が刺さっていた。
「ひなたちゃん、流石に吸いすぎ……」
「ん? あぁ、もう一箱分吸っちゃったからね」
「えっ!? それ、この間封を切ったばかりじゃなかったっけ!?」
「あはは……実は、起きてから吸血衝動が収まらなくてさ」
そう言いながらひなたはもう短くなった煙草を灰皿に押し付けてシャーレイの方を見た。
ひなたの瞳は、片方は翠だった。だが、もう片方が紅に染まったままだった。
「ひ、ひなたちゃん……目が……」
「オッドアイだって? 分かってる分かってる。多分、今日一日はこのままだろうから」
今日一日、目が紅のまま。
ひなたの目がこうして紅に染まる時は血を吸いたいと思ってしまっている時だ。こうして片目だけが紅の状態は見たことがないが、少なくともひなたは今日一日中、血を吸いたいと思い続けてしまうのだろう。
「別に、私のだったら吸ってもいいのに……」
「いや、そういう問題じゃなくて……多分、このままシャーレイの血を吸い続けたら戻れなくなるから」
「戻れなくなる?」
「うん。まぁ、簡単に言うとずっと血を吸いたいって思いながら生きていくことになるって事。しかも、吸う量も多くなるから、きっとシャーレイの全身の血を吸っても足りないくらいには衝動が激しくなる」
それは嫌だから。とひなたは呟き、再び煙草の箱から新しい煙草を出そうとしたが、もう空なのを思い出してそれを握りつぶしてゴミ箱に投げ入れた。
「……新しいの買ってくる。多分、お店開いてるから」
「わ、私が行くよ!」
立ち上がったひなただが、シャーレイがすぐにベッドから降りてひなたの肩を押して椅子に座らせた。
予想以上にひなたの力は弱く、押されるがままに後退していき椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、着替えたらすぐに行ってくるね。カートン……取り敢えず沢山だっけ?」
「あ、うん。一カートンって言えば店員が分かってくれるから。お金は勝手に持って行って」
「はーい。銘柄は?」
「同じので」
すぐに寝間着から着替えた着替えたシャーレイは財布を片手に走って外に出て行った。なるべく早く買って帰らないとひなたも吸血の衝動で苦しいだろう、と思い、全力ではないものの走って近くの店へと走っていった。
この世界にはコンビニは無いが、結構遅い深夜帯までやって朝早くからやっている、食料から衣類、娯楽品まで色々と売っている小さな店が結構な店舗ある。シャーレイはそこに走って入っていき、レジでひなたが吸う銘柄の煙草をカートンで買うと、それを抱えて宿まで戻ってきた。
大体、十分もかかっていない位で息を切らしてシャーレイは戻ってきた。
「ひなたちゃん、買ってきたよ!」
「はやっ……ありがと、シャーレイ」
そう言って出迎えたひなたの目は既に両目が紅に染まっていた。どうやら、今日の吸血衝動は余程手ごわいらしい。礼を言って煙草を受け取ったひなたはすぐに一箱を取り出すと、すぐに火を付けて吸い始めた。
ひなたが一本吸い終わると、目は再び翠と紅のオッドアイに戻っていた。それにホッとしていると、落ち着いたらしいひなたがシャーレイに口を開いた。
「いやぁ、こうしていると中毒者みたいで笑っちゃうな」
「あはは……」
その言葉にシャーレイは否定の言葉を返す事は出来なかった。
これは明日から本数減らすの大変だぞ、と笑いながらひなたは呟いたが、シャーレイにとってはどっちにしろひなたの事が心配だった。煙草を吸う量もだが、それ以上にひなたの吸血衝動が。片目が紅であり続けるというのは、ずっと血が吸いたい、という気持ちを抑え続けているという事なのだろう。それはとても辛いし厳しい物なんじゃないか、と思ってしまう。
それなら、少しくらい吸ってもいいんじゃないか、とも。
「……心配してくれてる?」
「うん」
ひなたの言葉に即答で返した。ひなたはその言葉に一言、ありがと。と返して灰を灰皿に落とした。
すぐにシャーレイが灰皿の灰をゴミ箱に落とし、灰皿を綺麗にする。それに対してもすぐにひなたは礼を言い、綺麗になった灰皿に灰を落とした。
そして、暫く無言の時間が続いた。そして、ひなたが三本目の煙草を咥え、火をつけた後に煙草を咥えながらひなたが口を開いた。
「……昨日起こったこと。全部は言えないけどシャーレイにとっては重要な事もあるから、今話しちゃうね」
「私に……?」
シャーレイにとってはそれが皆目検討がつかなかった。隠れ家が崩壊していました、とか乗っ取られていました、とかなら全然問題は無いんだが。どうせ引き払う予定だった場所だ。乗っ取られていても文句は言えど取返しにはいかない。精々、あそこにまだ少しだけ置いてあるシャーレイの私物をとってくる程度だろうか。
シャーレイは気軽にそう思ったが、ひなたはシャーレイから視線を外し、壁を見ながら煙を吸い込んで吐き出してから、何とか重い口を開いた。
「……シャロンと、会ったんだ」
「……え?」
「君を逃がすために撃たれた、シャロンと……会ったんだ」
重々しく告げられたその言葉に、シャーレイは言葉を失った。
ひなたはその様子を見ずに、ただ煙を口から吐いた。その煙は、この空気の重さの中、ふわふわと舞って消えていった。
これ以上は長くなりそうなので次回に回します