魔弾使いのTS少女   作:黄金馬鹿

72 / 86
ミラもシャーレイも精神的に結構キテますけど……一番精神的にヤバいのは誰かな、と考えれば……


第六十八魔弾

 翌朝。一度夜中に目が覚めてしまったからか若干寝足りないと思ってしまった。

 ベッドから上半身を起こすと既にシャーレイの姿は無く、階下から朝食のいい匂いがする。対してミラの方はまだ寝ており幸せそうな寝顔を晒している。

 夢でも見ているのかな? と思いながら右手で彼女の頬を突くと丁度いい肌の弾力で指が軽く押し返される。ミラと寝るようになってから暫く経つが、ミラの寝顔を観察したのはこれが初めてかもしれない。ベッドの上に投げ出された彼女の手は程よく筋肉が付き引き締まっており、手のひらには剣を握り続けてきたからか豆とタコが沢山だ。ひなたの手も銃を握り続けてきたため同じような物だが、それでもミラと比べればまだまだだ。

 生まれてからずっと戦ってきたミラとは違い、この世界に来てから戦い始めたひなたの手はまだ外見相応らしさを少しだけ残していた。やはり、自分が弱いのは努力の差もあるんだ、とミラと自分の生まれ育ってきた環境の違いを改めて自覚しながらも右手と両足でベッドの上を這ってベッドから降りる。

 まだ何時も起きる時間よりも少し時間がある。だから無理に起こさずともシャーレイに起こされるまで寝かせておこうとミラを起こす面倒をカットした自分に言い訳しながら寝室内にあるタンスから着替えを取り出して寝間着から着替える。既に慣れた片手での着替えを終え、未だ少し慣れないスカートを履いてから部屋を静かに出る。

 少しアクティブに動けば下着が見えてしまうという下半身の防御の薄さも外なら羞恥心があってあまり履きたくはないが、家の中でならまだマシだ。見られるのは少し恥ずかしいしシャーレイにスカートの裾を摘ままれて中を覗かれた時は思わず引っ叩く位には恥ずかしかったが、それでも家の中で位女の子をしててもいいだろうと吹っ切れた結果だ。それに、まだシャーレイやミラに見られる程度なら他人に見られるよりも万倍はマシだ。

 寝室を出て欠伸をしながら階段を降りていく毎に階下から漂ってくる朝食の匂いは強くなってくる。その匂いに釣られるように空腹を訴えてくる己の腹を右手で抑えながら居間に顔を出す。

 

「おはよー」

「あ、おはようひなたちゃん」

 

 少しの眠さを含めた声を挨拶として出せば、シャーレイの元気な声が返ってくる。昨日の不安を押し殺したような声ではなく、何時も通りの元気な声だった。

 よかった、あまり暗く事態を呑み込んでいないみたいだ、と彼女の言葉を聞いて安心しながら一、二か月程前に勝ったばかりのマッサージチェアに座ろうとする。が、ふと机の上に目をやると、そこには数枚の紙が纏まって置かれていた。マッサージチェアに座る前にそれを覗くと、どうやらそれは先日話された避難所への案内用紙だった。

 避難所へ赴く際の処遇やら何やらが沢山書かれた紙を退けると、避難所の説明が書かれた紙と、どの避難所を希望するかの申込用紙が三人分あった。

 

「シャーレイ、これは?」

「郵便受けに今朝入ってたよ」

 

 と、いう事はあの爺さん達は約束を守ってくれたらしい。人数分申込用紙はあるしどの避難所も説明の前に口外無用と書かれている。

 説明の用紙だけを抜き取りマッサージチェアに置いてから自分のカップにコーヒー、ミルク、砂糖を注ぎ、マッサージチェアの肘掛にそれを置き用紙に目を通す。

 避難所の種類は計三つ。少ないなとは思ったが、元々存在自体一般人には知らされていない避難所だ。余り数多くは無い、という事なのだろう。こういう避難所の存在を知っているのはひなたのように情報屋等を通じて少し裏に触れた人間かミラのようにトップクラスにまで自らを鍛え上げて功績を遺した人間だけだ。

 目をザっと通した結果、まず一つ目の避難所は地下にあるらしい。ここから馬車で三日と割と近い場所にあるらしく、普段は立ち入り禁止区域として指定されている坑道がそこの入り口だとか。次は普通に地上にある。ここも普段は立ち入り禁止だが、仮住居とは思えない位の普通の一軒家が立ち並んでいるらしい。そこを街を覆う結界を数倍にまで強度を高めて更に認識疎外の魔法をかけてミラレベルの人間を数人衛兵として雇った場所らしい。これは避難所なのか? と一瞬ひなたは首を傾げてしまった。ちなみに、ここは馬車で約二十日程かかる。

 そして、最後の一つ。これは何とまぁ、ここから馬車で一週間の場所にある港から更に船で三日の場所にある海上。ここに結界を張って更に認識疎外に人払いまで張って作った海上避難所だ。数キロもある人工島に巨大な建物を作成し、そこを避難所にしているだとか。これ、魔獣一匹近寄らないのではないだろうかと思えてしまった。現代日本ですらこんなの作れるか分からないのに、流石ファンタジー。と呆れやら称賛やらが混じった溜め息を吐いてからコーヒーを一口。まだ苦かった。もう少し砂糖とミルクを入れておくべきだった。

 

「……まぁ、この中なら海上かなぁ」

 

 理由としては、単純にブラッドフォードから距離を取りたいからだ。

 地下でもいいのだが、魔法一撃で地震が発生、そのまま生き埋めになりました。なんてのが想像できてしまうから却下。街っぽい避難所も海上に比べれば十日分も距離は離れているが、これは何だかすぐに発見されて血祭……なんて気がする。それに、移動中にブラッドフォードが動いてこの世とオサラバ、なんてのも容易に考えられる。

 そう思えば海上の方がブラッドフォードにバレないかもしれないし、距離も丁度良く取れる事だろう。それでも見つかったら笑顔で身投げか毒薬しかないが。

 そういえば、毒薬と言えば、既にミラが昨日の内に買ってきた。今はミラの私室に置いてあるが、避難の時はそれをこっそり持っていく事になる。使う事なく捨てるのが一番なのだが、今のうちにその薬を飲み込む覚悟をしておいた方がいいだろう。その場で躊躇してしまう、なんて事がないように。

 

「……朝っぱらから考える事じゃないね」

 

 そんな思考を無理矢理コーヒーと共に胃の中に流し込んで息を吐く。

 さて、そろそろ朝食の時間だろうか、とシャーレイの動きから察してカップを机の上に戻して二杯目のコーヒーを用意しながら起きてからすぐ感じていた尿意の発散のためにトイレへと向かう。

 

「あ、ひなたちゃん。ついでにミラちゃんを起こしてきて」

「え? あ、あー……」

 

 トイレに行きたいから代わりにシャーレイが、と言おうとしたが、よく考えれば今シャーレイは配膳の途中だ。というか配膳しているのだからミラを起こしに行ける訳が無い。何時もはひなたとミラを起こす前に配膳を終えているが、今日はひなたがいる。となると、ひなたに事を頼むのが普通だ。

 まぁつまりだ。ひなたはミラを起こしに行くという手間を自ら作ってしまったという事だ。

 何でそんな二度手間を作ったんだ、と数分前の自分を恨みながら頬を掻いてひなたは部屋を出る。

 

「お花摘みのついでで良ければ」

 

 そんな言葉を残して。

 結局、ひなたは無駄な階段の往復を今朝の運動に追加するのだった。

 

 

****

 

 

 時刻は少し過ぎてお昼過ぎ。

 既に朝食、昼食と食事は終わらせておりシャーレイは夕飯と明日の朝食昼食の買い物へと向かった。

 家に残っているのはひなたとミラのみ。二人は避難所の案内の用紙の前で唸っていた。と、言うのもその理由は二人の行きたい避難所が違ったからだ。

 ミラは地下。対してひなたは海上。シャーレイは何処でもいいと言っていたため会話には参加していないがそれでも二人の間の意見の行き違いは少しだけこの会話を難航させていた。

 

「……ヒナタはどうして海上?」

「そりゃ、他二つに比べて生存確率が高そうだから」

「……海上は逃げ場がない」

「地下だって入り口は一つだけだよ。そこを占拠されたら逃げられない」

「……むぅ」

 

 それに、ひなたにとって地下の避難所というのは少し印象が良くは無かったというのもある。

 創作が多々あった国で生きてきたひなたは地下で起きる事件から始まる、もしくはそれが話の最中にある創作物を見てきた。何かしらのアクシデント……例えば地震等で地下が崩れて生き埋めになったり入り口が知らぬうちに崩落して酸素不足になったり怪獣の光線が入り込んでそのまま中の人間が焼け死んだり。対して海上の物を舞台とした物は余り見たことが無い。時々殺人事件等を見たが、それでも地下よりは何となく印象が良い。

 対してミラが海上を選んでいない理由は、遠いからだった。

 移動の最中と言うのは護衛も付かないため危険が付き纏う。その時にブラッドフォードが動いて三人が見つかり、そのまま殺されるか死ぬより酷い目に……という事も十分に考えられる。だから、なるべく避難所へ早く転がり込めるように一番近い地下へ、と考えていた。

 ひなたの場合は地下に行く危険性、ミラの場合は海上への移動の際の危険性を考慮した考えをちゃんと言い合ったからこそ、どちらも困ったように唸るしか出来なかった。

 お互いの意見がちゃんと筋が通っているからどちらもそれはそうだけど、と言うしかない。

 

「……どうする?」

「どーしよっかねぇ……」

 

 紙を目の前に溜め息を零す。はてさて、どうしたものかと。

 ひなたからしたらミラの言う事は最もだ。近い方がブラッドフォードに移動する際に襲撃されるかもしれない可能性を少なくする事が出来る。が、もしも見つからなかったとしても避難所を発見されれば確実に殺される。

 対して海上なら発見される可能性を少なくする事は可能だろう。まさか海上に逃げたとは思われまい。だが、その際の移動日数が長い。そこで見つかったら本末転倒だし会場でも見つかったらこれまた死亡確定。ちなみに街の方は日数も長いし見つかってもどうせ逃げ切れないしで即候補から外れた。

 

「……でも、やっぱ地下の方がいいかな」

「……その心は」

「移動時間とか安全面とかその他諸々」

 

 だが、よくよく考えれば避難所が襲われたらどちらにしろおしまいではあるし、真祖が結界の類をすり抜けてきた事例もつい数か月前にあった。というか被害に会った。

 そう考えれば海上に居ようが地下に居ようが結界があろうが変わらない訳で。そう思うと移動距離が短い地下行きの方が海上よりもマシに思えてきた。地下の避難所にも勿論全盛期のミラレベルに近い人間が警護に当たっている訳だし、地下ならもしかしたらその場で下に向かって魔法で掘っていけば見つからずに事をやり過ごせる可能性もある。

 そうやって色々と考えた結果、ひなたも地下の方がいいんじゃないか、と思えてきた。身投げで自殺という手段が取れなくなるが、どっちみち毒薬はあるので死に方は海上だろうが地下だろうが同じだ。

 

「……まぁ、ヒナタがそれでいいのなら」

「じゃあ、地下行きで」

「……分かった」

 

 地下行きと言うと日本で見た千年近く強制地下労働を強いる漫画の言い回しっぽくてちょっと思う所があったが、取り敢えずは地下の避難所へ行く事が決まった。書類にもしっかりとそう記入し記入漏れが無いか、名前を書き間違えていないかを確認だけ済ます。

 

「……うん、大丈夫。じゃあ、書類を出してくる」

「ボクも行こうか?」

「……すぐ帰ってくるから」

「分かった。じゃあお酒飲んで待ってるね」

「……真昼間からのお酒はちょっと控えて」

 

 ミラは少し困った表情を浮かべると、書類を何回か折ってポーチに仕舞いそのまま家を出ていった。

 駆除連合までの距離はそこそこある。帰ってくるのは大体二十分後位か、それか三十分後位か。ミラの移動力からしたら後者だとは思われるが、どちらにしろ十分以上は帰ってこないだろう。だからひなたはこれから誰にも文句を言われず飲酒タイムだ。

 座っていた椅子から立ち上がり冷蔵庫を開け果実酒を取り出し、予め作っておいた非常食兼おつまみの干し魚と一緒にマッサージチェアの肘掛に置き干し魚を肴に酒を呑む。真昼間から飲む酒の味に一息吐きながら干し魚を齧る。丁度いい魚のうま味と骨が口の中に刺さる感覚。齧る場所を間違ったと気づいたがそのまま骨ごと干し魚を噛み千切って口の中で噛み砕く。

 

「あー……至福」

 

 アルコール特有の苦みと果実の甘さを味わいながら干し魚を食う。

 シャーレイがもうすぐ帰ってくるだろうが、きっと帰って来たら何か言われるだろう。その時は……まぁ、これは三時のおやつだと言って見逃してもらう事にしよう。

 この胸の不安はこうでもしないと忘れそうに出来ないから。しかし、それはどうしようも出来ない物。かつて己を襲ったブラッドフォードという意思を持った天災とも言うべきか、とにかくひなたのような人間では太刀打ちが出来ない物を見てしまい、今それが自分達の平和を乱そうとしているからこそ、この胸の不安はどうしようもなく肥大していくばかりで拭えなかった。酒を飲んで気を楽にしてもそれを完全に拭う事は出来ずどうしても不安は付き纏う。

 先日は一番年上という既に消えかけている見栄で二人を慰める様な事を言ったが、三人の中でこの事態をどうにもならないと諦めているから何時ブラッドフォードが襲ってくるかという不安に一番怯えているのはひなただ。

 ブラッドフォードは強い。シャーレイには大丈夫だと言った。ミラにはイヴァンがどうにかしてくれると言った。しかし、ひなたにとってのブラッドフォードは己が討つ仇でもあり、恐怖の象徴でもある。慰めた手前二人の前で泣き出すような真似はしなかったがそれでも不安は強い。いや、諦められないとも言えるが。

 もしかしたらイヴァンがブラッドフォードを倒してくれるかもしれない。だが、ひなたは一回ブラッドフォードと対面し、戦っている。それ故に何となくだが分かってしまう。ブラッドフォードはイヴァンよりも格上なのだと。それが何となくだが察せてしまっているから、どうしても酒に逃げてその恐怖とも言える不安から逃げている。逃げないと自分が潰れてしまいそうで、全てを投げ出してしまいそうで。

 荒れていないのはシャーレイとミラという精神安定剤があるからだ。多分、二人が居なかったら今頃ブラッドフォード探しに躍起になって数日後にはのたれ死んでいるだろう。

 この世界はクソだ。クソゲーと無理ゲーを混ぜ合わせてミキサーにぶちまけたような、優しさを暴力でねじ伏せていく理不尽が大手を振って歩いているような世界だ。いや、何処の世界もそうなのかもしれない。力こそ正義。正義こそ力。そんな世界で最強を名乗れない時点で自分の生活を老後まで確保して悠々自適に生きるなんて無理な話だったんだ。

 酒の力を借りても沸いてくる嫌な考えをつまみの干し魚を食らう事で少しだけ忘れ、後は全て酒で嚥下する。畜生、と呟けば嚥下した筈の物が再び沸いてきて、それの繰り返しだ。これをどうにかするには寝るしかない。しかし、ここで寝てしまえば夜中に寝れないから眠れない。嫌なサイクルにハマってしまい何とも言えない気持ちを胸中にしたまま酒を煽る。果実酒の甘さと干し魚の味が妙に合わない。もう少し苦めの酒を用意しておくべきだったかと後悔しながらもチビチビ酒を飲み進める。

 

「ただいまー」

「あ、おかえり」

「いやー、帰ってくる途中に凄く遠くに雨雲みたいなのが見えたから焦ったよー。すぐに洗濯物取り込まないと」

 

 袋が擦れる音を鳴らしながらドアが開けられシャーレイの声が聞こえてきた。買い物に出ていたシャーレイが帰ってきたことで負のスパイラルにあった己の胸中に光が差し込む。

 この悪い事を一旦忘れる方法は酒を飲む以外にもある。それはシャーレイやミラと一緒に居る事。二人と一緒に居れば多少の悪い事は忘れられる。この不安も二人と一緒なら忘れてスルーすることが出来る。二人と居るだけで最高とさえ言えてしまう。心の支えとも言える彼女が顔を見せ、自然と笑みが漏れる。酒と摘まみを置いてから玄関に居るであろうシャーレイに顔を出す。

 彼女は両手で持つには少し多いくらいの荷物を玄関に置いて一息ついているシャーレイを見て少しは荷物を肩代わりした方がいいと判断して彼女の元まで行き置いてある食料品が入った荷物を片手だけで持てる分だけ持つ。

 

「持ってくよ」

「あ、ありがと。じゃあ、台所まで運んでくれる?」

「オーケー」

 

 シャーレイの言葉に従ってシャーレイの先を歩いて台所まで食料品を運ぶ。

 このまま冷蔵庫に食料品を入れる所までやってあげたいが、そこら辺はシャーレイしか分からない事なので置いておくだけにする。彼女には家事関連の事を全て任せてしまっているので少しは手伝いたい気分ではあるが隻腕のひなたが手伝うと逆に時間がかかったりシャーレイが苦労したりする事がある……というかあったので食料品の収納とこの後のご飯の用意を任せてひなたはマッサージチェアに戻る。

 

「あ、またお酒飲んでる」

「バレた? まぁ、こういう時位でしか飲まないからいいでしょ?」

「ちょっと顔が赤いなぁって思ったら……潰れないでよ?」

「そこまでお酒弱くないからね?」

「えー?」

「うっわ信用されてないや」

 

 とは言ってみるがひなた自身酒に強いとは言えない。いや、寧ろ弱い方に入るため文句は言えない。なので度数の低い甘い酒をジュース代わりに飲む程度だがそれでも十分に酔えてしまう。今でさえほんのり頬が赤くなっているなのでこれ以上度数の高い酒を飲んだりしたら顔が真っ赤な茹蛸状態になって変なテンションになってしまう事は間違いないだろう。

 こんな時期なのでそうしてヤケになってみるのもいいとは思うが、それだとシャーレイとミラに酔っ払いの介抱という面倒を押し付けてしまう事になる。流石にそれはしたくない。

 残っていた酒を一気に飲み干して空になったコップを流しに置き、軽く洗う。その際にチラッと食料品を片付けているシャーレイを見たが、やはり半年もこの家の家事を任せていたからか手慣れており鼻歌を歌いながらせっせと自分で決めた区画に合った食品を手早く収納している。それを見ているととてもじゃないが半年前までスラムで生きていた少女とは思えない。元々そうやって家事を趣味にして生きてきたと言われた方がしっくりと来る。

 そんな彼女の様子を見て、聞こえてくる鼻歌を聞き何の曲だっけかと思いながらマッサージチェアの方へ戻りちょっとずつ食べ進めていた干し魚に一気に齧り付いて口の中に入れてから食べられない部分はそのままゴミ箱へ。

 

「あ、ひなたちゃん。ついでに馬車で食べる食料も買っておいたからね」

「んぐんぐ……じゃあすぐに取り出せるように纏めておいてくれる?」

「わかったー」

 

 干し魚を飲み込んでからシャーレイに指示を出す。

 着々と避難の準備は出来てきている。これなら迎えが来たらすぐに荷物を片手に馬車に転がり込むことが出来そうだ。

 あと準備が出来ていないのを考えるが、もう私物は必要最低限纏めておいたし食料もチラッと見たが水も含めて買い込んだ。残りは本当に当日の己の身だしなみ程度だろうか。

 破滅が迫ってきている中での限られた穏やかな時間を感じながらひなたはマッサージチェアに座った状態で空を見た。今日も憎らしいほど青く見下してきている。だが、それが見えている限りはブラッドフォードが襲ってくる可能性は皆無とも言えよう。今の青は平和の象徴とでも言える色だった。

 このままずっと、青が自分達を見下ろしてくれたらいいのに。ついそう考えながら右手に顎を乗せて空を見上げる。

 すると、窓から見える空の端に先ほどまでは無かった黒い雲が見えた。あぁ、そういえばシャーレイが帰ってきてからすぐに雨雲が見えたと言っていたな、と思い出しながら後ろを慌ただしく歩いていくシャーレイの足音を聞く。ボーっと空を見上げながらあの雨雲ドス黒いなぁと思う。

 

「……そういえばあの日もこんな雲が一気に空を――――」

 

 ――そう、こんな感じの、雲が、すぐに、空を。

 シャーレイは何て言っていた? 遠くに雨雲が見えたと言っていた。今見える雨雲はひなたの視線の奥の方に見える物ではなく、ひなたの真上を通るようにして流れてきている雲だ。

 これがシャーレイが買い物から帰る途中に遠くに見えた、だって?

 それだと、可笑しい。この雲の速さは明らかに可笑しい。外は風が吹いているが、雲がそこまで高速で移動するような暴風ではない。

 こうして考えているうちに雲は有り得ない速度で青を塗りつぶしていく。この速さも、有り得ない。速い、速すぎる。

 これじゃあ、あの時と同じ……あの日と同じじゃないか。

 

「う、そでしょ……ただの雨雲だよね? ただの雲なんだよね?」

 

 祈る。椅子から立ち上がり窓を見上げ空を見ながら、この雲から雨粒が落ちてくることを祈る。

 あの日見た雲は雨を一滴も降らさなかった。

 ――あの日の光景が脳内を駆け巡る――

 だから、これはきっとタダの雨雲なのだと。

 ――雲がすぐに移動し、雲が切れた所からは紅色に染まった空が見えた――

 シャーレイがこの後、結局洗濯物が間に合わなかったよと笑って愚痴りながら濡れた洗濯物を取り込んでいる。そんなこの後を脳裏に浮かべてそう信じ込む。

 ――紅に、紅に。全てを壊した紅を思い出し、吐き気が催してくる。己のトラウマを想起させられる――

 そして、その祈りは届かなかったのか。ひなたの真上から雲は晴れていき、空はその色を見せる。

 ――その色は紅で、全てを壊しつくし嘲笑ったあの時と全く同じ色合いをしていて――

 

「あ、ぁぁ……」

 

 雲が、全てその姿を消して、それは姿を現した。

 あの日、一年半前のあの日、ひなたから全てを奪い去っていく序章ともなったあの紅色の空が。

 

「う、そだ……こんなにはやく、なんで、どうして、いやだ、またボクはあいつに……」

 

 あの日の記憶が今まで以上に鮮明に脳内に浮かび上がってくる。

 次々と動く屍と化していく村人達。それを殺す事しか出来ない自分。掠れ低くなった声で食わせろと発狂しながら組み付いてくる優しかった人達。それを泣きながら撃ち殺す自分。仲の良かった老夫婦の死。それを見る事しか出来なかった自分。怒りに身を任せ真祖と戦い、負けた自分。そして見た灰に埋もれ、血に塗れ、真祖の笑い声で蹂躙された村。それを涙を浮かべただ泣き叫びながら見る事しか出来ない、非力な(自分)――

 

「いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ――うぅっ!?」

 

 想起されたトラウマが心を抉り、精神がそれに耐えられない。

 そうして起こした体の反応は、胃の中の物を吐き出させる事だった。




ひなたさん、SANチェック失敗。見事にトラウマ抉られました

今回の件に直面して一番ヤバいのはひなたなんですよね……たった一年半前に全てを根こそぎぶっ壊されて食人鬼化させられた訳ですから

直面しなかったからまだ目を背けていられましたが、見てしまったらSAN値直葬ですよ

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。