「……ヒナタ、大丈夫?」
「…………ごめん」
「ひなたちゃん……せめて何か食べないと……」
「…………多分、吐いちゃうから」
紅に染まった空。それを見たひなたの反応は自分で思っていたよりも遥かに重い物だった。
トラウマに心を抉られ胃の中の物を吐き出してしまった後、ひなたは一時的に発狂して外へと飛び出した。それを止めたのはひなたの吐く音を聞いたシャーレイであり、家を出て数メートルの所で何とかシャーレイがひなたを止め、そのままどうにもならなかったため抱えて家に運び込み、そのままソファに寝かせて組み付き、落ち着くのを待った。
そうしてひなたは何とかして落ち着いたが、代わりに今まで何とか保っていた心の余裕を全て失ってしまい、部屋の隅で膝を抱えて蹲っている事しか出来なくなった。多少は物を胃に居れようとしたが、固形物を食べたらすぐにそれを吐いてしまう始末であり、水ですら飲むだけで大分体力を消費してしまう。
そんな状態のひなたをシャーレイが心配しない訳が無く、紅に染まった空を見て焦ってパニックになりかけていたミラもひなたの様子を見て一瞬で落ち着きを取り戻した。
不安になっていた自分達に対して大丈夫だと慰めてくれた彼女がここまでやられてしまっている。それを見てようやく、今回の事件は彼女にとってどれだけの重荷になっているのか、ブラッドフォードという存在がどれほど彼女の心を抉りとっていった存在なのかを表していた。
怖い。また全てを失う事が怖い。その気持ちだけが大きくなり、そして常に頭の中であの光景がフラッシュバックをし続けている。もう少し平静を保っていられるつもりだった。しかし、現実は予想以上にひなたの心を容赦なく砕きにかかってくる。頭の中で見知った顔が死んでいく度に心を恐怖が染めていき体が震える。腕を斬られてボロ雑巾にされたあの時を思い出し今は無い左手が幻の痛みを訴える。
今こうして部屋の隅で蹲っているのも、それのせいだった。
背中を晒すのが怖い。背中からあのゾンビが、ブラッドフォードが襲ってくるかもしれないから。背筋を張って立っているのが怖い。あの恐怖達が自分を見つけて襲い掛かってくるかもしれないから。
だから、部屋の隅で背中を壁に預けて蹲っている。こうしないと最早自我を保っている事すら無理だった。
「……どうしよう、ミラちゃん」
「……余り刺激しない方が」
そんなひなたに対してシャーレイとミラが出来る事は少なく、今は無理に立たせて移動させるよりも余り声をかけず刺激しないでいた方がいいと判断してひなたの側には居るが必要以上に声はかけない。そうやって時間を消費していく事にした。
しかし、ひなたがこうして塞ぎ込んでしまっている。そして、何時も青い空が紅になり、とうとうブラッドフォードが何時襲って来ても可笑しくないこの状況。家の中の空気が時間経過と共に悪くなっていくのは火を見るよりも明らかだった。
ひなたは時々小さく悲鳴を上げ体を震わし、シャーレイはそんなひなたを見てどうしていいか分からずただ俯き、ミラも自分には何もできないと分かっているから歯を食いしばって俯くだけ。それ以外にどうしようも出来ないのがもどかしくもあり苛立ちにもなっていった。
そうして時間は無駄に消費されていき、気が付けば紅に染まった空に徐々に黒が混ざっていき、何時もは黄色に染まている月が紅に侵食された状態で空へと昇った。それを見て何時もは食事をする時間だとようやくシャーレイは気が付いた。
「……ミラちゃん、何か食べる?」
「……いらない」
「ひなたちゃんは……」
「……」
ミラは食事を拒み、ひなたは言わずがな。かく言うシャーレイも今は食事が喉を通りそうには無かった。
このままじゃブラッドフォード以前にこちらの精神と胃が持ちそうにない。ギスギス、とまでは行かないがどんよりと湿ったような雰囲気に晒されてこちらも参ってしまいそうだった。
「……もう寝る?」
となれば、もう寝てしまったほうがいいだろう。でないとこの暗い雰囲気にやられて参ってしまいそうだし何か変な気を起こしたり変な事をしてしまいそうだ。
その言葉にミラは静かに頷いて同意を示し、ひなたは何も反応をしなかった。だが、このまま彼女をここに放置していくのは危険すぎる。またひなたが発狂して外にでも飛び出したら確実に見つける事は出来ないだろう。だからここは引っ張ってでも彼女をベッドまで連れていく事にした。勿論、立ってくれるのが一番なのだが。
「ひなたちゃん、ベッドに行こう?」
「……」
シャーレイがそう諭してもひなたは反応しない。
仕方ない、とシャーレイはそっとひなたの両膝の裏に手を回し、もう片方の手で彼女を抱え込むように抱き、そのまま持ち上げる。所謂お姫様抱っこだが、今のひなたを持ち上げるにはこの持ち方が一番楽だった。
持ち上げた彼女の体は思った以上にも軽く、その重さが腕一本分だというのにはすぐに気が付いた。
抱き上げられたひなたは暫く動かなかったが、階段を登ろうとした所でそっとシャーレイの首に手を回した。
「……失望した?」
そして、そっと呟いた。
その言葉の意味をシャーレイは暫く自分の中で考え、その言葉が今のひなたの様子。つまりは紅の空を見て発狂し塞ぎ込んでしまう程の弱い自分に対してだと気が付いた。
それに勘づき、小さく笑うとシャーレイは少しだけひなたに己の顔を寄せた。
「そんな訳ないでしょ? どんな事があっても、私はひなたちゃんに失望なんてしないよ」
「……ん。ありがと」
シャーレイの言葉を聞いてひなたは少し表情筋を緩めた。
もう既に知っている。ひなたが弱い事なんて。
強いが、弱くもある。良くも悪くも人間らしさを捨てきれていない。それがひなただ。恐らく、三人の中では一番人間らしい精神を持っている。だから好きになった。だから彼女とずっと一緒に生きていきたいと思った。
彼女を抱き上げる力を少しだけ強めて寝室に入り、そっとひなたを寝かせる。ひなたはすぐに布団を探り当てるとそれを被り、そのまま潜り込んだ。やはり、まだ自分を外界に晒すのは精神的に辛いらしい。だが、それもまた可愛らしいと思いシャーレイは寝間着に着替えるとひなたの被っている布団の中に半分無理矢理潜り込み、自分の体を丸めて抱えるようにして横になっているひなたを見つけるとそのまま抱きしめた。
「おやすみ、ひなたちゃん」
「……おやすみ」
二人で抱き合いながら目を閉じる。が、眠りに着く前にもう一人が布団の中に入ってひなたを後ろから抱きしめた。
「……忘れられた」
「あ、あはは……ごめんね?」
「……すぅ」
「……ヒナタ、もう寝てる」
「え、嘘。はやっ」
ミラに言われてひなたが目を閉じてすぐに眠りに着いているのが分かった。何時もシャーレイの方が早く寝ているためひなたがここまで早く寝るのは意外だった。
が、よく考えれば彼女は今日、精神的に疲弊しきっていた。もしも一人で寝ていたらきっと眠れない位には外に恐怖していた。だが、シャーレイと抱き合って人肌を感じながら目を閉じたから安心して眠れたのだろう。早く意識を落とせたのは単純に疲れていたからか。
理由はどうであれ、ひなたは今こうして眠りに着けている。夢見は恐らく良いとは言えないだろうが、それでも寝ないよりは遥かにマシだ。シャーレイはそっとひなたの髪の毛を撫でるとその後を追うように目を閉じた。
「……あ、実は私、あまり眠くないから眠くなるまで何か話でも――」
「すぅ……すぅ……」
「くぴー……」
「…………えっ、マジ?」
ミラ・B・マイヤーズ。彼女は空気の読めるいい女である。しかし、今回はそれが仇となってしまったのであった。
結局彼女はそっとベッドを抜け出し全力で体を動かし、眠気を催す程疲れてから汗を流し、もう一度ベッドに潜り込んだ。ひなたの体は暖かかった。何だか子供を抱きしめている気分になってしまったのは内緒だ。
****
気が付けば空の紅い朝だった。
そんな奇天烈で二度と来てほしくない嫌な朝を迎えひなたは温もりに抱きしめられながら目を覚ました。
夢見が良い訳では無かった。というか夢を見なかった。それくらいにひなたはぐっすりと眠りに着き、今こうして目を覚ました。目を覚ましてすぐに目に入ったのはシャーレイの寝顔で、彼女越しに見える空は紅に染まっている。
あぁ、あの紅の空は夢なんかじゃなかったのか。僅かに期待していたそれは見事に裏切られた。ついでに言えば窓から差す赤色の日差しが目に悪い。だが、そう考えられる分、昨日よりも幾分か心に余裕が持てているという事だろう。自分でそう考えるが、紅の空が自分に押し付けてくる恐怖とトラウマのフラッシュバックは収まらない。起き上がろうと体を動かした直後に襲ってきたフラッシュバック。特に、恩人であるあの二人の遺体を思い出してしまい、言葉に表せない程の不安を覚え思わずシャーレイに自ら抱き着く。
暖かさに包まれている。しかし、体の底から湧き上がってくるような冷たい恐怖が己を掴んで離さない。怖い。怖い。もう嫌だ。誰か助けて。そんな気持ちが胸を一杯にして自分の心を、体を冷たくしていく。
幾ら力の限りシャーレイに抱き着こうと、彼女の暖かさに身を預けようとそれは消される事が無く、ひなたの体を震わせる。
「んぅ……ひ、なたちゃん?」
そうして思いっきり抱きしめてしまったからか。シャーレイが目を覚ました。ひなたが幾らこの中で一番力が弱いと言っても、最低限の近接戦は出来る様な筋力や体の鍛え方はしている。だから力の限り彼女を抱きしめてしまえば眠りに着いている彼女を起こしてしまうのは必然とも言えた。
だが、シャーレイは青い顔をして自分に抱き着き震えているひなたの様子を見て何時もは覚醒までに時間がかかる頭をすぐに覚醒させ、そっとひなたを抱きしめた。抱きしめられたひなたは少しびっくりしたのか大きく体を震わせたが、シャーレイが抱きしめ返してくれたのを察してその顔をシャーレイの胸に押し付けた。
「ご、めん……こわくて、どうしても……」
「……大丈夫。私はここに居るからね?」
「うん……」
やはり、一晩寝たくらいでは彼女の心はどうにも出来なかった。この紅の空をどうにかしない限り彼女はずっとこの状態だろう。
だが、せめて食事位は出来るようになってもらわないとひなた自身の体が持たない。後で消化に良い物でも作って水と一緒に食べさせないと空腹でも、脱水症状でも倒れてしまうだろう。特に脱水症状を移動中などに引き起こせばほぼ詰みだ。塩と水をちょっとずつ飲ませれば何とかなるが、塩なんてそう持ち運ぶ気も余裕もない。だから、最低限水分補給は出来るようになってもらないと駄目だ。
かと言って無理矢理食べさせたり飲ませた結果、吐き出してしまうと彼女の体力を消耗させてしまうと倒れる時期が早まってしまう。困った物だった。
だが、今は。
「……ミラちゃんが起きるまで、一緒にここにいよっか」
「……うん」
彼女を安心させるために、抱きしめてあげよう。
優しくひなたを抱きしめ、自分の体で紅の朝日を隠す。少しでも彼女の心を安らげるために。
まだガチ発狂ではありませぬ。ただ、精神的にかなり参ってしまい誰かと一緒に居るor部屋の隅に居ないといけない状態に
全部を一回失ってしまった訳ですから、離れてしまうとまた失ってしまうかもしれない。一人の時は背中を何かに預けないとまたボロ雑巾にされてしまうかもしれない。そして、過去のフラッシュバックが止まらない。そんな状態なので三人の中では一番症状が重いですね
ちなみにこの状態だとシャーレイに犯されても無反応です。というか泣きながら謝って塞ぎ込みますね
あ、今日で連続更新終わりです