煉獄の使者 作:あぷぺあら
「それで、あなたの怪我は大丈夫なの? バーナード」
「ああ、何とかな。急所は外れたようじゃ。――――外したのかもしれんが」
バーナードは豪快に笑って見せた。フリューゲルに襲われたという事実を、少しでも和らげるために。今のこの話題は、きっとイヴを刺激することになるだろうという予想の下だった。
「そう、それならよかったわ。今回、全員を呼んだのは他でもない。これの話をしに来たの」
イヴはそう言うと、机の上に粉の入った小さな袋をおいた。薄暗い部屋の中で、微妙に薄緑の光を放つそれは名状しがたい不気味な印象を与えた。まるで
「これは?」
全員を代表してバーナードが問いを発した。裏社会にはこのように怪しげな薬が度々蔓延しているが、発光するものというのはここにいる誰も見たことが無かった。グレンにはその色がまるで蛍のように見えた。
「“フラッピング・ライト”って呼ばれる、この頃流出しだした麻薬よ。今までの流出していたアヘンなんかよりも、かなり安価に売られているわ。単体では大した効果はないけど、市販の安酒と混ぜて服用することで
「それが、わしらを呼んだ理由か? 使用した相手を死徒化するような凶悪な副作用がない限り、特務分室ではなく、警備隊の役割じゃないのか?」
バーナードは苦い顔をした。宮廷魔導士団が出張るような理由ならば、それこそ外道魔導士がテロ行為を企てているなどという武力行使が必要な状況が妥当だが、今回イヴが彼らを呼んだ理由が、麻薬に関することだと言う。
グレンもまた、渋い顔をした。理由はそれだけではなく、もっと厄介事を彼女は持ってきていると本能が告げていた。
「ええ、勿論それだけじゃないわ。あなたたちを呼んだのは、これに関するもっと厄介なことよ」
「この女、やっぱりか」
グレンがつい声に出してしまった。若干の焦りと共にイヴの顔色をうかがうと、怒りの表情と共に彼を睨み付けていた。何となく素直に謝るのは癪だったので、片手を上げることで謝罪の意を示したが、それについても更に腹を立てたようだった。
イヴはしばらくグレンを睨み続けていたが、ため息を一つ吐くと、人差し指と親指で透明な袋をつまんで目線の高さまで持ち上げ、振り子のようにゆらゆらと揺らした。揺らすたびに光が尾を引き、彼女の顔を照らした。
グレンには、何故か
イヴは手のひらで袋をキャッチして、話を続けた。「これも、他の裏で出回る薬の例に違わず、人間の感情を著しく高揚させるわ。今までのものとは比にならないくらいにね。だけど勿論、副作用もあるの。厄介なのはその副作用でね……」
そこでイヴは一度言葉を切ると、そばにおいてあったコーヒーを手にとって、口をつけた。常に冷静な彼女にしては、珍しく精神を乱されているようだった。
がしがしと乱暴に赤い頭を掻いて、イヴは頬杖をついた。遠い所を見つめるように、掌の上の光に目を向けていた。グレンには何となくその視線の意味を察していたが、火に焼き尽くされる趣味はないため、それを口には出さなかった。彼女にとってフリューゲルという存在は憧れであり、そして巨大な爆弾であった。
「その副作用だけど、どうも服用しすぎた人間は呼吸器系の筋肉が硬直するらしいの。これ、何処かで聞いた事がある症状じゃない?」
「“蛍の灯火”……!」
がたりと大きな音と共に立ち上がったのはクリストフだった。元々内気な彼は、一斉に視線を集めたせいで赤面し俯いてしまったが、その場にいる全員が彼と同じ考えに至っていた。
広範囲にいる敵を殲滅するのに最適な兵器。毒ガス兵器のようにも思えるが、使用する本人いわくそれよりも質の悪い代物。
強制的に呼吸器系の筋肉を硬直させ、呼吸困難に陥れて範囲内の生物を問答無用で
その原型は、爆弾内に仕込んだ透明な液体だった。爆発による高温によって急激に気化し、爆風によって広範囲にばら撒かれることができるという原理だった。フリューゲル本人は、当時あまり使おうとしなかったが。
イヴは袋をそっと机の上に置き、微笑を浮かべてクリストフを見つめた。「ご名答よ。副作用による症状が、フリューゲル=シュトロブルクの使う“蛍の灯火”による症状と一致しているの。つまり、裏社会で出回る麻薬が我々の知識を越えたレベルに達しているわ。でも、何故彼がこんなことをしているのかは見当もつかない。話を聞く限りフリューゲルは相当変わってしまっているみたいだから、考えるだけ無駄でしょうけど」
机の上で灯る淡い光を、グレンはただじっと眺めていた。その光に見いっていた。清流で飛び交う小さな命の
がしりと伸ばしかけた手首を掴まれた。バーナードの大きな掌が、グレンの腕をしっかりと掴んでいた。
強い精神力を持つ彼にしては珍しく、焦ったような目で咎めるようにグレンを見ていた。「気をしっかり持て、グレ坊。持っていかれてはいかん」
ようやく、グレンは自身がしようとしていることに気がついた。無意識に魅せられていた、その光に。奥歯を噛み締め、己を叱咤した。自らの精神的な弱さをまざまざと見せつけられた気分になった。
「今グレンを見てもらったらわかるように、この薬は輝きそのものに催眠効果に似たものがあるわ。防御魔術で防ぐことはできるけど、一般の市民にそれは難しいでしょうし、傷を負って弱っていれば宮廷魔導士団ですら落とし込めるほど強力なものよ。これは一刻を争う事態だと、女王アリシア七世も危惧していらっしゃるわ。この薬の出所を捕らえて根絶する。そうすればフリューゲルに近づく道も増えるかもしれない。だから、全員気合いを入れなさい」
ここでフリューゲルの名を出してくる辺り、イヴはまだグレンを取り込む腹積もりらしいと、彼にとって予想することは容易かった。彼女にとって、相手の魔術を阻害するグレンの固有魔術は、外道魔術師を狩る為の都合のいい駒のはずだった。
そしてフリューゲルもまた、その駒の一つだ。
完全な初見殺しに近い“体質”を持ち、標的となった人間の命を一切の例外もなく確実にその鎌で刈り取って行く死神。そう、彼の仕事には一切の躊躇もなかった。相手が家庭を持っていようが、不幸な身の上で堕ちるしかない人生を歩んでいようが、他人なら心に揺らぎが生じるような事があろうとも、フリューゲルは鎌を振り下ろすその腕を止めることはなかった。その標的が、例えかつて背中を預けた戦友であったとしても。
いや、彼にも人の心はあったのだろうか。細かく震える銃口と、悲しげに歪んだ彼の顔が
――――帰ってきたらどうする? 町ひとつを壊滅させた男だ。極刑が免れるはずもない――――現実を冷静に見つめる自分が問いかける。それは違う。はっきりと否定した。フリューゲルは、友人として殺す。化け物ではなく、共に戦った戦友として。
皿に盛り付けられたパスタを掻き込んだ。唐辛子と黒胡椒の辛味で、泡沫に溶けかけていた意識を無理に覚醒させた。相変わらず上手い味付けのしかただった。フリューゲルが薦める理由もよくわかった。グレンに奢ることになったアルベルトには感謝するしかなかった。一気に胃袋へ押し込み、その味を堪能した。今ここにいない彼の代わりにも。
空になった皿にフォークを置き、息を一つ吐いて机の上の光を見る。都市のアンダーグラウンドで蔓延るその光が、どのようなフリューゲルの意思を継いでいるのかは分からない。だが少なくともかつての彼は、そのような事をするような男ではなかった。それでも、例えどんな意思がその行為にあろうとも、その行為が人の道を外れていることには変わりない。
それならば。グレンは拳を固く握った。
それならば、俺がその道を正してやる。
お前が望んだように。
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夜、例え帝国最大の都市であり国内の何処よりも発展したそこにも、平等にその闇は訪れる。
その夜は新月で月が顔を潜めているせいか、星々が普段よりも一層己の存在を主張していた。そこにあるのかどうかすら定かではない脆弱な光を、ただ忘れないでほしいと訴えかけているようだった。
石炭が主な燃料になっている世界だが、それ以上に主流であるのは魔術によるエネルギー精製の為、空気が澄みきっていた。少なくとも星の輝きを遮らない程度には。
しかし、その空気には香りがあった。澄みきった純粋な冷たい無臭であるはずの夜の空気に混ざる、焼けつく血の臭いが漂っていた。
大きな通りの裏側、昼間ですらなかなか日が射さないその場所で壁にもたれ掛かるようにして倒れている小太りの男がいた。焼けつく血の臭いは、その男の肩の孔から放たれていた。
男は怯えた瞳で、目の前に立つ男を見た。
用心棒として雇っていた屈強な男たちは、目の前の男になす術なく死骸に変えられた。意味が全く分からなかった。魔術師としても、また純粋な肉体的戦闘能力を見ても、並の兵士よりも余程優秀であるはずの男たちが一撃で動くことのない肉塊に変えられる様は、その男にとって信じがたいことだった。
そして気がついた。用心棒の放った軍用攻撃魔術が目の前の男に直撃する瞬間に、まるで霞のように消え去っていったことを。
その特徴には聞き覚えがあった。魔術を根本から消し去る能力を持つ人間など、それ以外に考えられなかった。
「死神、フリューゲル=シュトロブルク……アルザーノ帝国魔術学院を、襲撃した、テロリスト、か……!」
男は太った体を小刻みに震わせながら、息も絶え絶えに目の前に立つ死神に訊いた。気丈にその瞳を見ようとして、しかし直視することはできなかった。月の出ていない今日の夜の方が、星がある分死神の瞳よりもよっぽど明るく感じられるほどに何もない瞳だった。
男は知っていた。人が人を傷つけるとき、その瞳には少なからず光悦の輝きを宿すと。だが、目の前の闇にはそれがなかった。ただ銃口のようなぽっかりと口を空けた暗闇だけが存在していた。最早生物かどうかを疑うほどに、その瞳には何もなかった。
答えの代わりに下顎を蹴飛ばされた。顎骨が砕ける音が男の脳に響き、数本の歯が宙を舞って地面に転がった。くぐもった悲鳴をあげた。その声は大した音量でもなく、まして人のいない裏路地で誰かが見つけ出す事など不可能だった。
涙を流し、上手く動かない血の滴る顎を押さえて呻いた。痛みに悶える暇もなく、次は喉をブーツの爪先で抉られた。
「ぐえっ」と蛙を踏み潰してしまったときのような不快な声と共に男は壁に叩きつけられ、血の混じった吐瀉物を撒き散らした。喉が潰れているせいで掠れた悲鳴しか上げられなかった。ただ混乱していた。襲われる理由が分からなかった。
何故こんなことに。俺は出世街道まっしぐらだったはずだ。ローレン=ガルシアのいない今、これから権力を積み上げ帝国の商業界で中心的な人物となり、あらゆる富を得ることができたはずだった。
「理解できていないようなら、
女の声がした。そして、その声の主は暗闇の中から唐突に現れた。気配すら感じられず、それは幽霊のようにそこにいた。些かこの夜の裏路地には不釣り合いなメイド服に身を包まれた女だ。その女が憎悪に満ちた瞳で男を見下ろしていた。
「カレン=ユーズという少女の名を、貴方は覚えておいででしょうか? アンディ=ベネス」
その女から訊かれたのは覚えのない女の名だった。カレンなどという何処にでもいそうな女の名を、何故こいつは――――
そう考えたとき、今度は女から顔面を蹴飛ばされた。鼻がひしゃげ、少なかった前歯も完全になくなった。ただ、理解が追い付かずにいた。何故見ず知らずの女に恨まれているのか、何故帝国でも有名な殺し屋に命を狙われているのか。
「フリューゲル様」
銃声が響いた。無事だった方の肩にも焼けるような痛みが走った。
「
アンディが叫び声をあげてめちゃくちゃに転がるのを、女は、エレノアは冷めた目で見つめていた。
「喉だけは治して差し上げましたわ。もう一度お訊きします。
「
アンディはわめき散らしながら、涙と涎を垂れ流して命乞いをした。だが、エレノアは男の言葉に対して更に不快感を露にするだけだった。
「ならばミカエル=レイビッチという男の名は?」
突然届いた低い男の声に、アンディはびくりと肩を強張らせた。聞いたことの無いほど何もない声だった。その問い自体に興味はなく、ただ事務的に訊いているような声だった。そこに生物的な感情といったものは何一つとして無かった。
そして、その名前も聞き覚えは無かった。
「な、なんだお前たちはさっきから! 知らない人間の名前なんか出すなよ!」
「そうか。二人ともお前は知っているはずだ。己の私欲を肥やすために利用し尽くした男と、その娘。親父の失態を無かった事にすることと引き替えにお前が無理矢理抱いた女の名前だ。今回の依頼主はその女だがな、お前をできるだけ苦しませた上で殺害してほしいそうだ」
銃口が向けられた。今度は確かな重みを孕んでいた。絶対的に命を刈り取ろうとする、死神の意思の重みが。
「これがアンディ=ベネスの答えだ。お前は満足か?」
「ええ、この男が女に対する敵以外の何者でもないということを知ることができたので、多少は」吐き捨てるようにしてエレノアは答えた。「本当は私が直々に手を下したい所ですが、ここはフリューゲル様のお仕事の邪魔をするわけにはいきませんわ」
「ま、待ってくれ! 金なら幾らでも――――そのカレンとやらの娘よりも積むから、命だけは!」
「悪いが、
銃口が、真っ直ぐにアンディを見つめた。
「よせ――――」
四発の銃弾がアンディの四肢に撃ち込まれた。元々ダメージを負っていた彼の腕は限界を迎え、根本から腕が千切れて転がった。あまりの痛みにアンディは白目を剥きながら泡を吹いて痙攣していた。声すら出ていなかった。
やがて動きが止んだ。失血によるショックで、もう彼の魂は肉体から解き放たれていた。そこにあるのはもう、物言わぬ肉塊だけになっていた。
「魂が解放された。この男にも安寧はもたらされた」
「フリューゲル様。貴方は死を“解放”と解釈しているのですか?」
「ああ、死によって魂は苦しみから解き放たれる。だが死にきれなかった魂は、苦しみ続けることになるのさ。ずっとな」
そう言ってフリューゲルは拳銃を懐に仕舞った。そしてエレノアを見た。薄っぺらな笑顔と共に。
「お前は、解放を願うのか?」
「私は、解放されることよりも寧ろ私の依頼が達成されることを願っていますが」
「できるだけ早く達成できるよう、善処しよう」
突然、拍手の音が響いた。フリューゲルは咄嗟に銃を向け、エレノアは魔術を放てるように掌を向けた。
それにも関わらず、靴の音は一定のリズムで二人のもとへ近づいてきた。そして闇の向こうからその音の主は現れた。
青髪の、眼鏡をかけた男だった。その顔は、まるで珍しいものを見つけた子供のように煌めく笑顔をしていた。
人の死骸が転がっているにも関わらず、その笑顔には混ざり気が一切無かった。
「初めまして。先ずは自己紹介からかな、
その男、奏太は右手に耀く粉の入った袋を人指し指と親指で摘まんでいた。
少し設定を変更します。
ソウタの髪色、黒→青
理由は単純にキャラとして薄かった事と、今後の展開に必要であったことです。