煉獄の使者 作:あぷぺあら
カレンが目を開けたとき、最初に視界に飛び込んできたのは訳のわからない肉の塊だった。正確には部屋の中央に転がっている赤黒い塊が何であるかは理解できずにいたが、その見た目でどうやら大きな肉塊であるという予想はついた。
ただ、何故そのような場違いなものが部屋の中央にあるのかという予想はつかなかった。そもそも自分がどこにいるのかすら曖昧になっていた。
部屋は穴や亀裂だらけだった。そしてそれを見たとき、猛烈な記憶の濁流が彼女の脳裏に炸裂した。
この惨状を作り上げたのは私だ。目の前の力に溺れ、それこそ今まで私を力で押さえつけていた男たちさながらに、
もぞもぞと肉が動いた。
醜悪な肉になっても未だにその男は生きているという事実を見せつけられ、カレンは嘔吐した。
床上にねばねばした液体をぶちまけた。それでも込み上げてくる気持ち悪さに耐えられず、泣きながらさらに吐いた。
意味がわからなかった。どうしてあんなに胡散臭い男の事を信頼し、その言葉に乗ってしまったのだろうか。どうしてあんな力に溺れてしまったのだろうか。
自分を殺してしまいたかった。こんな穢れた存在が生きていていいはずはないという思いが彼女を支配し、自我が曖昧になった。懸命に肉塊から目を離すように部屋を見渡し、ガラスの破れた窓を見つけた。
砕けたガラスの破片で首を切ろうか、それとも飛び降りて命を絶とうか決めかねたが、飛び降りた方が苦しまずに死ねるのではないかという予想から、飛び降りる方を選択した。
カレンが立ち上がり、その窓へ走り出そうとしたとき、
「それが、お前にとっての救いか? カレン=ユーズ」
死神の声が、彼女の動きを止めた。何時からそこにいるのか、ずっと見ていたのか、訊きたいことはあったが、体が一切の反応を拒否していた。
ゆっくりと振り向き、その姿を見上げた。
何処までも巨大な男だった。横幅はアンディの取り巻きの方がよっぽどあるが、かかる
それこそ、先程まで生存権を放棄しようとしていたカレンに、死にたくないと思わせるほどに。
「死を望むのか?」男がゆっくりと言葉を繋ぎ、宙をさ迷っていたカレンの思考を強引に現実へと引き摺り下ろした。
答えることが出来なかった。確かにほんの数秒前には死を望み、それを飛び降りという手段を以て成し遂げようとしていたのだ。それなのに、再び正面から問われただけで答えに迷った。
「死は、救いになるの?」答えは出ずに、その問いだけが出た。フリューゲルは微動だにせず、その光のない黒い瞳を細めた。
「少なくとも、俺にとってはそうだ」
俺にとっては――――その言葉はカレンを思考の渦に落とした。そうだ、そもそもカレンにとっての世界に救いはなかった。幼い頃に捨てられ、そのまま死ぬはずだった彼女に手をさしのべてくれた父を失ったときから、彼女の生きる意味はアンディを殺すことだけになっていた。
父はアンディの悪事を世に訴えようとして殺された。商売先に彼らの安い商品を無理矢理買わせ、商売先を失った経済難から、彼らの商会に法外な安値で買い叩かれた父の店は、直ぐに借金まみれになった。金にがめついアンディは、商会のボスが消えたとたんに周囲の小さな商圏すら寡占し、私欲を満たしていたのだ。裏では武器の密輸や、アヘン密売もしていたらしい。
生活は一気に苦しくなったが、父と一緒ならそれでも構わなかった。日に日に痩せこけていく父を少しでも支えようと思っていた。だが、アンディは簡単にその生活を簡単に
カレンという思わぬ副産物を手に入れたアンディは、さぞ喜んだに違いない。何せ父が生活を切り詰めてまでカレンを通わせていた中流階級のハイスクールで、彼女は三本の指に入るほどの美少女とされていたのだから。
アンディはまず、その太った脂まみれの体で、カレンからあらゆるものを奪っていった。抵抗すれば殴られ、ずっと守ってきた純潔は無造作に散らされた。
その時からずっと彼女はアンディへの復讐心をたぎらせていた。外面では従順に従うふりをしながら、その太った首筋を咬みきるタイミングをずっと見計らってきたのだ。
その復讐が果たされた今、彼女の生きるための指標は全て無くなった。彼女の中に残ったのは、目的を達成し、全てを失った虚無だけだった。
生きる意味はもうない。例えここで生き残ったとしても、その後の生活にあるのは苦痛だけであることは目に見えていた。だから彼女は、目の前の死神に助けを乞い、その人生に
ただ一言、「お願い」と。
死神の表情は何一つ動くことはなく、淡々と銃口をカレンの顔に向け、引き金に指をかけた。死は、救いになるの――――? 彼女の問いが頭蓋骨の内側で木霊し、次第に大きな騒音となっていった。少なくとも、俺にとっては―――― 彼にとっての死とは救いだと言った。だったら私は? 私にとっての救いは?
答えを出すことは出来なかった。父なら何と言うだろうか、自らの死を選択した娘に失望するだろうか、それすらも分からなかった。
死神の、引き金を引く動きが妙に遅く見えた。本能は生き残ることを推奨しているのだろう。カレンはそう結論付けたが、理性では死を選択しているのだ。今更覆すつもりはなかった。ただ、ゆっくりと遊び疲れた子供のように目を閉じ、来るべき衝撃に備えた。もう少しで父に逢えるかもしれないという期待と、悪いことをした人間が、果たして父に逢うことができるのだろうかという不安を同時に抱いた。
そして、その思考を放棄した。考えても無駄だ。後は神に委ねよう。
「ストップです、フリューゲル様」
突然その声は響いた。同時に、身を裂くような殺気が部屋の内に充満し、カレンの動きを止めた。
声の主がカレンの背後で立ち止まったのを、気配で感じた。そして刺すような悪寒がよりいっそう強くなり、カレンは身動き一つ取れなくなっていた。何が起きているのか、全く想像がつかずにいたが、背後の女が死神の動きを止めさせたのだという事だけは理解することが出来た。
靴音を立てながら、女はカレンの目の前に立った。
女はにっこりとカレンに向けて微笑んだが、その笑顔の裏側に隠された狂気を、カレンはしっかりと見抜いた。ただ、狂っている分だけ、フリューゲルよりは幾ばくか彼女の理解が及ぶ範囲ではあった。
女はカレンに背を向け、正面からフリューゲルを見上げた。再び冷たい殺気が部屋中をのたくったが、それでもその殺気が“怒り”から沸き上がるもので有ることは、カレンにも想像がついたし、狂っていたとしてもまだその女が人間であるということを、端的に表していた。
「なぜ彼女を手にかけようとしたのですか? 貴方の依頼主でしょう? 女性に手をかけるなどと不埒な行為は、幾ら貴方であろうとも目に余りますわ」
「彼女は死を望んだ。アンディ=ベネスへの復讐という人生の指標を失った彼女に、これ以上生を続けさせるのは残酷な話だ。しかも商業関係の法が整っていないゆえにアンディの市場独占は起き、彼女は暮らして行くだけの経済力を失った。その上で経済的弱者への救済も不十分なこの世界に放り出し、自由を免罪符に放置するのが救いだと、お前はそう言うのか? エレノア」
エレノアは言葉に詰まった。怒りが彼女の感情を突き動かしたが、目の前の男は何処までも冷静で空虚だった。その暗い瞳は、エレノアをまっすぐに射止め、動けなくなったところで再び言葉を繋いだ。
「感情では何も変えられない。変わったとしても一時的なものだ。
「ええ、死は救いではなく、ただの終わりに過ぎませんから。一つの生命の終わりにしか過ぎないそれを、救いと捉えるのは間違いですわ」
「救いは、人によって様々な形態へと変化する」
フリューゲルは淡々と言葉を繋いだ。その言葉に皮肉も非難めいた響きも加えず、ただ事実だけを積み上げていくように。その事が最もエレノアの心を追い詰めていた。
「誰かにとっては金であって、誰かにとっては神である。それがそれぞれの救いだ。俺にとっての救いは死であり、彼女にとってもそうだ。お前たち天の智慧研究会にとっての救いが魔術であるように、人の救いはそれぞれによって形を変える」
「だから貴方は、彼女に死をもたらす、と?」
「依頼の対象を確実に仕留めるのが俺の仕事だ。そこに例外はない。それが例え依頼主本人だろうが、かつて背中をあずけた友人だろうがな」
暗い瞳が、エレノアの心を鷲掴むように彼女を見据えた。その生物的要素を全て消し去ったような瞳に、エレノアは純粋に恐怖していた。
彼が言ったのは、あくまで変えようのない事実であり、覆しようのない真実だった。エレノアに反論する手札は残っていなかった。
カレンはそのフリューゲルの言葉の真の意味を、必死に探していた。救い――――人によって形を変えていくその“救い”は、果たしてカレンにとって死であるのか、彼女の中にある答えは、死を求めていたのだろうか。
答えは否だった。
死神が求めた救いは、死であるのかもしれない。だが彼女の中にある救いはそれではなかった。
『僕の人生にとって、君が生きていることが何よりの幸せなんだ』――――何時かの父の言葉が脳裏に甦った。父にとっての救いは、カレンそのものだった。それなのに父は死んだ。自ら命を絶ったのだ。
じゃあ私は? 私にとっての救いは? 生きて、その先になにかがあるというの?
答えは出ていた。彼女の中で死はもう、彼女を救済することではなく、逃避への手段へと成り代わっていた。
「少し、違うわ」
凛とした声が、広い部屋に響き渡った。大声を出したわけではないが、芯の通ったその声は確実にフリューゲルとエレノアに届いていた。
カレンは見下ろしてくるフリューゲルをまっすぐに見た。冷静になった頭で再びその瞳を見ると、身体中の筋肉が強張る感覚に襲われたが、それでも彼女は恐怖することなく、その何処までも暗い瞳をしっかりと見続けた。
「私にとっての救いは、死ぬことじゃない」
フリューゲルの顔がわずかに歪んだ。それがどのような感情を表すのか、カレンには想像もつかなかったが、それでも関係はなかった。フリューゲルの言葉を聞いて得た答えを、彼にぶつけるだけだった。
「私は生きるわ。ありがとう、死神。気付かせてくれて」にっこりとカレンは笑った。エレノアが怪訝そうに眉をひそめ、カレンをじっと見つめたが、それでも彼女は止まろうとはしなかった。
「私にとっての救いは、生きることよ。あなたとは違う、救いを見つけた。お父さんは、私が生きているということこそが救いだって言ったの。だから私は、お父さんの代わりに生きたい」
「……俺は事実を告げただけだ。それに、これから先の生活は、完全にお前の自己責任になるだろう。誰も支えてはくれない。それでも、生きることを選択するか?」
「生きて見せるわ。確かに私は許されないことをした。人の命をもてあそんだの。例えそれが、他人に操作されたことだったとしても、例えそれが、私の憎む相手だったとしても、引き金を引いたのは私よ。でも、私にとっての死は逃げだった。罪から目をそらして逃げようとしていたの。それは間違いだって、貴方の言葉に気付かされたわ」
カレンはゆっくりと立ち上がった。エレノアとフリューゲルという、彼女の理解には遠く及ばない世界の住人にじっと見つめられ、膝が笑ってはいたが、それでも立ち上がった。自分が見つけた意思を伝えなければならなかった。
「依頼主の意見は尊重しよう」
フリューゲルが銃を懐にしまった。それと同時に、エレノアが纏っていた冷たい殺気も解かれ、部屋の空気が一気に弛緩した。
カレンの膝が力を失い、彼女は床にへたりこんだ。極度の緊張で呼吸が止まっていたのか、肺に空気が急に入り込んできて思わずむせたが、その苦しさは生きているという何よりの証だった。
これからどう生きるのか、それはカレン自身にも見当がつかない。もしかしたら何時かのように、また路上で野垂れ死ぬのを待つだけの身になるかもしれない。
それでも生きると選択していた。フリューゲルが放った言葉は、紛れもない現実だ。そこには一切の脚色も妄想もない。
苦しんだ末に出した答えはそれだった。
この先に待ち受ける未来よりも、もしかしたらアンディに好きにされていたときの方がよほどいい人生を送っていたと言えるかもしれないが、カレンは選択したことに後悔はなかった。
フリューゲルがカレンの目の前へと歩みより、夜の闇を何倍も凝縮したようなその黒い瞳を彼女に向けた。そこから読み取れる感情は何もなかったが、何故かカレンは懐かしさを感じていた。それはまるで、夕食時に父と向かい合って食事をしているときのような、不思議な感覚だった。
フリューゲルはそこから少し屈み、カレンに耳打ちをした。
低い声で一言、「暮らすのなら、帝都から離れた場所にするといい」と。
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「お前が赦せないものは、女性を無下にする男、といったところか?」
「ええ、そうです。男に生まれたからといって、女性に対し酷く穢らわしい事を行う輩は――――」
エレノアはそう言うと、おもむろに左腕を振り下ろした。赤い炎の塊が肉となって転がっているアンディへと放物線を描いて進み、着弾したその直後に爆発を起こした。
肉は苦しそうに蠢きはするものの、悲鳴をあげることはなかった。再生が追い付かず、炎上したアンディは次第に黒い炭へと形を変えていった。
エレノアは嬉々として笑った。燃え盛る炎が彼女の肢体を艶かしく照らし上げ、ステージに降り立った踊り子のように妖艶に体をくねらせて見せた。
「このように報復をしないと気が済みませんわ」
「俺も、選択を間違えていればこうなっていたと?」
「そうですね、切り刻んでそこらの犬の餌にでも成り果てて頂いたかと」
そうか、と他人事のように呟いてフリューゲルは燃え尽きて行くアンディだったものを見つめた。その顔にはエレノアから発せられた言葉に対する恐れも、理不尽とも言える言葉に対する怒りもなく、ただ燃え上がる肉塊を静観していた。
「それではフリューゲル様、私の依頼の達成もお忘れなく」
エレノアは深々と一礼をし、部屋から出た。残ったのはアンディが燃える炎の音と、感情の欠如した瞳でそれを見つめるフリューゲルだけになった。
肉はもう、苦しそうに蠢くことはなく、ただ焼かれるだけになっていた。もうただの肉になり果てているようだ。
「煉獄の炎は、俺を焼き付くすにはあまりにも温すぎた」
アンディを包んでいた炎の勢いが止み、大きな炭の塊と人肉の焼かれたむごい臭いが残留した。その目を背けたくなるような惨状や、吐き気を催すような臭いにすらフリューゲルは反応することはなく、燃え上がっている時と少しも変わらない冷えきった目がそれをとらえ続けていた。
「俺を焼き尽くせるのは、地獄の業火か――――」
言葉を切った。その後でそうした意図を考えたが、どうにも思い出すことは出来なかった。
ただどのような言葉かは覚えていた。
「それともお前か? グレン」