煉獄の使者 作:あぷぺあら
「セリカ! おい、しっかりしろ!」
不死者であるはずのセリカの出血が止まらない。グレンは持ち合わせていたハンカチで、首の傷口を圧迫――――幸い呼吸は確保できる場所に傷はあった――――しているが、かなり深い傷のようで、このままでは時間の問題であった。
浅い呼吸を繰り返し、辛そうにまぶたを強く閉じたセリカを見下ろしてグレンは眉を潜めた。フリューゲルの持つ銃弾の特性。魔術や異能の類いを全て否定する弾を、彼は所持していた。本人いわく「弾数には制限がある」とのことだったが、セリカにその弾が使用されたことは明白だった。
数百年生きている不死の人間を、それも大陸屈指の大魔術師であるセリカをこうもあっさりと倒す男が、自分のことを狙っている。そう考えるとグレンは恐ろしくなったが、彼とセリカの相性はもともとセリカの圧倒的不利だったのだ。むしろグレンはフリューゲルと戦うことになったとしても、セリカよりはまともな戦いになるはずだった。
出血が少しずつ収まってきた。しかしそれが傷口の回復によるものなのか、それとも単に血が少なくなってきているのかは判断がつかなかった。しかし後者であればとてつもなく不味い状況となる。グレンはセリカの首筋に込める力を強くしたが、その傷口の肉がうごめく感触を布越しに感じとり、思わず笑ってしまった。
それはセリカの再生が行われているということだった。グレンは安堵し、意図せず力を緩めたが、気を抜くことなく出血を抑えることに集中した。
セリカの再生が行われた理由をグレンは知る由もなかったが、単純に彼女の体に残留した金属の微粒子の量が少ないだけだった。フリューゲルの持っていたナイフは鉛弾と違って硬いために、そのようなことが起こっていた。
再生が行われているのはわかったが、依然として危険な状況なのは変わりなかった。このまま穏やかな出血が続くようであれば、失血死の可能性は十分にあるのだ。両脚の銃創は止血したが、首筋からの出血は無視できなかった。
戦闘の音は続いている。リィエルは負けていないようだが、フリューゲルも倒されていないようだ。物凄い破壊の音がエントランスの辺りから響いてくるが、フリューゲルが再びこちらに近づいてくる様なことはなかった。
凄まじい銃声と、固い大理石を切り砕く音がグレンの居るところまで聞こえてくる。グレンは唇を噛み締めた。早く加勢に行かなければ、リィエル一人だけではやはり不安な要素があった。
「グレン先生!」
突如聞こえてきたその声に、グレンは弾かれるようにして上を向いた。廊下の向こう側から走ってくる声の主は、金の髪を肩より高い位置で切り揃えた碧眼の少女、ルミアだった。
こちらに一直線に走ってくるルミアに対し、グレンは驚きと同時に少しの怒りを覚えた。
「……どうして教室でじっとしていなかったんだ?」
咎めるようなその口調に、ルミアは少し怯んだが、それでも確固とした意思をもってグレンの問いに答えた。
「私達が動かないと、他の生徒が危険にさらされる可能性が高いからです」そしてルミアは少し笑った。余裕の無さそうなグレンに、少しでも心の余裕をもってもらうために。
「私たちは、結構色々なピンチを切り抜けてきましたから。こういったことには迅速に対応できるって、クラスみんなの意思です!」
グレンはそのルミアの言葉には閉口するしかなかった。恐らくクラスの誰に言おうともそうなるだろう。彼女の意思を突き動かすのは、グレンでは到底不可能そうだった。それだけのことができる行動も、言葉も見当たらなかった。
ルミアはそっとグレンの側に座った。その手元には苦しそうに喘ぐセリカがいた。彼女が不死の身体であるということはルミアも知っていたし、そもそも傷つけることが不可能なほどの実力をもつセリカに大怪我を負わせることができる人間がいるなど、考えたこともなかった。ルミアは少しの間愕然としていたが、気をとりなおすと傷口に手をかざすようにした。
ルミアには何が起きているのかは理解できなかったが、それでも自分のすることができる最善を尽くしたかった。そして彼女にはこういったことが得意分野だった。
「《天使の施しあれ》」
白魔の一つである【ライフ・アップ】の光がセリカの傷口を覆った。細胞を活性化させ、自己修復力を上げる基本的な魔術だが、セリカ自身の体質もあり、効果はてきめんだった。生々しい傷痕は残ったものの、血はもう流れてはいなかった。ルミアは完全に傷口を塞ぐつもりでいたのだが、予定よりも修復されていない傷口を見て、少し首をかしげた。
「……まじかよ」
グレンは目を見開いた。何をしても全く効果のなかった傷が、こうもあっさりと塞がってしまったのを見て呆然としていたが、ルミアの横顔を見た。「なんでかな?」と呟いているのは恐らく傷が完全に塞がらなかったことに対する疑問だろうが、フリューゲルのナイフによる魔術を阻害する効果をもってしても防ぎ切れなかったルミアの魔術を見て、グレンは笑わずにはいられなかった。
腕を上げた生徒にグレンは思わず屈服しかけ、慌てて正気を取り戻すためにも頭を振った。
戦闘の音はまだ続いている。リィエルはたった一人でフリューゲルと立ち向かっているのだ。彼女一人だけよりも、グレンが加勢した方が勝率はかなり上がるはずだった。彼もまた、フリューゲルとの相性がいい一人なのだから。
「ルミア。セリカをよろしく頼む」
グレンは立ち上がった。いまだに苦しそうな呼吸を繰り返すセリカだが、一命はとりとめたようだ。それでも大事には変わりないため、医者に診てもらった方がいいなとグレンは考えた。
不死者を治療できる医者など居るのだろうかとグレンは心の中で笑ったが、それは些細な問題に過ぎなかった。セリカは生き残ることに関しては本当に優れているのだから、きっと大丈夫だろうという根拠のない自信がグレンの中にはあった。
「先生は、どうされるんですか?」
「あいつを止める」
戦闘の音がする、廊下の向こうを見据えた。それは金属同士が打ち合う音であり、壁や床が崩壊する音だった。リィエルがいるとはいえ、フリューゲルと直接戦闘しなければならないという事実に背筋が凍りついたが、彼の言葉を信じるならターゲットはグレンだった。それならば遅かれ早かれ戦わなければならない。だったら早い方がいいだろう。グレンは心を決めると、ルミアに背を向けて一歩を踏み出した。
「絶対帰って来てくださいね?」
背中越しに聞こえてきたルミアの声にグレンは片手を上げることで返事をした。だが決して振り返ることはなかった。グレンには自覚があった。今の自分はルミアには絶対に見せることのできない、人殺しの顔をしているはずだったから。
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リィエルの大剣が閃き、フリューゲルの心臓めがけてつき出された。だが彼女の剣先が貫いたのは虚空であり、そこにフリューゲルの姿はなかった。
横から振り抜かれた大振りのナイフを紙一重で回避する。リィエルの喉の奥から
息をついた。フリューゲルの細長い身体がゆらりと揺らぎ、暗い瞳がリィエルを射止めた。ただ抵抗しなければならなかった。ただで殺されるなど言語道断な上に、フリューゲルが変わってしまった理由が分からないのだ。それを知るためにも、リィエルは
リィエルの小さな身体が消えた。すさまじい速度で壁と天井を三次元的に動き回り、フリューゲルの視界の外から攻撃しようと画策したが、フリューゲルの暗い瞳はリィエルを捉えて離さなかった。
だがリィエルにとってそれはまだ想定内の事だった。フリューゲルの身体能力は、それこそ強化を施したリィエルと同等かそれ以上であった。
リィエルの大剣とフリューゲルのナイフがかち合った。普通なら小さなナイフくらいであればリィエルは叩き斬ることができるのだが、フリューゲルのナイフはそれが出来なかった。どうしてそのナイフはそんなに頑丈なのか問答したことがある。高密度化チタン合金がどうとかいっていた気がするが、その時のリィエルには殆ど理解できなかった。尤も、それは今でも変わらないが。
フリューゲルの銃を警戒して、リィエルはいつも以上に動き回った。牽制のため、あわよくばダメージを与えるために斬りかかるが、全てナイフでいなされてしまった。
勢いを殺すことなく、持てる全力のスピードで大剣を振り回す。フリューゲルのナイフはことごとくそれを弾くが、重量の差が出ているようでフリューゲルの長身が少しずつ後退していた。
裂傷も形付けられ、フリューゲルの血が空気中に舞い散る。数滴がリィエルの顔に当たって返り血になるが、彼女はそのようなことを気にするような余裕はなかった。
フリューゲルのナイフを握った右手が、独特な揺らぎを作るのを見た。そして突如リィエルの目の前に鋭いナイフの先が現れた。それでもリィエルが崩されることはなかった。フリューゲルの少しの癖ならいやというほど把握できている。先程見た揺らぎは、恐らく攻勢を変えようとしてナイフを刺突するための姿勢変更だろう。
身を傾けることでナイフをかわし、リィエルは柄の先をフリューゲルの鳩尾目掛けて突き出した。それは凶悪な鈍器となり、フリューゲルの腹にめり込むと、彼の体は軽石のように吹き飛ばされた。
衝撃で周囲の壁や窓が揺れる程の力で殴られたフリューゲルは、猛烈な勢いで壁に激突し、ついに動かなくなった。
常人なら恐らく腹の中身が潰れて大怪我どころの話ではなくなるだろうが、生憎彼は常人ではなかった。腹を押さえながらも立ち上がろうとする彼に、リィエルは一瞬戦慄いたが、直ぐに剣の腹でフリューゲルの頭を殴り、行動を完全に停止させた。
フリューゲルの頭の側面から血が流れ、彼の体は流しすぎた血と、脳を揺らされたことによってまともに動かないようであった。
リィエルは目を瞑ったままのフリューゲルに切っ先を向けた。
「これであなたは終わり。大人しくしてて、フリューゲル」
止めにもう一度頭を殴って意識を刈り取った。彼の丈夫さは理解していたし、やられたふりをして奇襲を行うのは、フリューゲルの行う常套手段だったからだ。
リィエルは眠ったフリューゲルをじっと見下ろしていた。もうじき応援も駆けつけるだろう。そうなったら町ひとつ壊滅させるほどの罪を犯したフリューゲルは、どうなるのだろうか。どう考えても処刑は免れないだろう。その結末はリィエルにとって悲しいものであったが、受け入れることはできていた。或いは突然のことに受け入れる暇もなく、無理やり心を押さえつけることは。
ざくっとリィエルの下から音がした。
ナイフが太股に深々と突き立てられ、急に重量を増した大剣を取り落とした。
「今のは良かったぞ、リィエル。私を倒すとは思っても見なかった」
ずぶりとナイフが引き抜かれると同時に、リィエルの身体がくずおれた。見上げると、そこには奈落の闇があった。フリューゲルの瞳だと理解するのに一瞬の時が必要なほど、
「あ……」
サッカーボールを蹴飛ばすように、爪先で喉を抉られた。リィエルの喉から湿った声が漏れ、先ほどのお返しと言わんばかりにリィエルの身体が宙を舞った。
地面に叩きつけられると同時に、次は左のこめかみに回し蹴りを受けた。皮膚が切れ、流れ出した血が目に入ってリィエル視界を殺した。
フリューゲルのナイフがとてつもない速度で突き出されるのを、リィエルはかろうじて捉えて、持てる力全てで手首を殴った。
しかし、リィエルの頭はフリューゲルの大きな手に掴まれ、力任せに叩きつけられた。その一撃で、リィエルの意識は混沌とした闇の中に葬られた。
それでもフリューゲルは念入りにリィエルの頭を叩きつけた。何度も何度も繰り返して。
やがてゆっくりと立ち上がり、取り落としたナイフとセリカとの戦いで弾き飛ばされたオートマチックの銃を拾い上げ、懐から別の拳銃を取り出した。その銃口をリィエルの頭にねじ込み、引き金を引こうとしたところでフリューゲルの背後から靴音がした。
反射的に照準をその音に向け、そしてその音の主を見た。
「リィエル……?」
白銀の髪をなびかせ、猫を思わせる金の瞳を持った少女、システィーナだった。彼女はただ恐れたように、フリューゲルの足元で血を流して倒れるリィエルを見ていた。
フリューゲルと目を合わせた彼女は、ただ戦いて一歩後ずさった。全てを飲み込んでしまいそうな、暗い闇を孕んだ瞳だった。グレンが赴任してきてからというもの、何かしらの厄介事に巻き込まれることが多くなったシスティーナでも、見たことがない色をした瞳だった。
システィーナは銃口を見つめた。その奥の闇よりも、男の瞳の方が何十倍も恐ろしく感じた。
だが、両者とも動かなかった。フリューゲルは人差し指を少し引くだけで、システィーナの命を消し去る事が出来るが、それはせずにただ少女を見つめていた。グレンやリィエルなら気づくことのできる、ほんの少しの――――フリューゲルの中では大きな――――驚愕した表情で。
フリューゲルが口を開くのをシスティーナは見た。何かしらのアクションがあると身構えたが、聞こえてきたのはたった一言の低い声だった。
「――――
「え?」
それは誰かの名だった。だがその口から発せられた誰かの名は、システィーナの知らない人物だった。
システィーナにとって、男の見せた隙は小さくはなかった。だが反撃には至れなかった。動いた瞬間に殺される予感が存在し、本能が彼女の体を押し止めていたからだ。
そして、彼女の体を止める要素がもうひとつあった。それは男の背後から忍び寄る、別の影だった。
拳が振り下ろされ、男の長身が揺らいだ。その拳は、かつて正義の魔術師を目指した男の拳だった。それはただ、護るために振り下ろされた握り拳だった。
グレン=レーダス。システィーナのクラスの担任講師。
「全く、どいつもこいつも俺の言うこと聞かねーで。じっとしてることもできんとは、
フリューゲルはグレンを見つめた。確かな怒りを宿したその瞳に、グレンは内心恐ろしさを感じるが、それでも退くわけにはいかなかった。教え子は護るという彼の決意からは最も遠い選択だった。
グレンは真っ直ぐにフリューゲルを指差した。
「俺がここに来たからには、覚悟しろよ? フリューゲル。つか白猫! お前も運悪くここに来ちまったんだ。四の五の言わず戦えよ?」
グレンの言葉に、システィーナは少し怒ったように笑った。なんとなく負けるのは嫌だった。「……先生こそ、私についてきてくださいね?」
グレンはその言葉に内心ほくそ笑んだ。いつの間にかタフになったものだ。
フリューゲルの足元に倒れるリィエルを見た。先ずは彼女を安全なところに移動させるのが先決だった。拳をいっそう握った。
「始めようか」
「ああ、
この学院で、三度目の決戦の火蓋が切って落とされた。