煉獄の使者 作:あぷぺあら
「とは言ったものの……」
グレンは口の中で呟いた。まともにやりあって勝てるかどうかは、システィーナはおろかグレンですら怪しいところだ。しかしフリューゲルの足元に倒れているリィエルを救出しなければならないのもまた事実だった。
グレンはフリューゲルの瞳を見つめ続けた。夜の闇を思わせる黒く、暗い瞳。かつて背中を預けた戦友はそこにはおらず、そこには敵が存在していた。恐らく今まで戦ってきた誰よりも厄介な敵が。それはもう、事実としてグレンの目の前にあった。
フリューゲルの体がほんの少し揺らぐのを見たグレンは、彼との距離を一気に詰め、拳を振り抜いた。紙一重でかわされたが、グレンにとってそれは予想の範囲内だった。間髪入れずに後ろへ回し蹴りを繰り出すが、これも腕でガードされ、グレンの体は反動で少し後方に下がると、丁度システィーナの目の前に立つ形になった。
フリューゲルは歯を見せて笑った。感情のこもっていない、全くの無機質な笑みだった。
「強くなったか? グレン」
「こっちにも色々あったからな、強くもなる」
冷や汗が背中を伝う嫌な感覚をグレンは感じた。かなり本気で蹴ったつもりだ。普通の人間なら二度と元に戻らないレベルで腕を粉砕されていたことだろう。それにも関わらずフリューゲルの腕は健康なまま、しかもダメージを受けた様子がないという絶望的な状態だった。
強くなった自覚はある。任務に追われていた特務分室時代よりも魔術講師をしている今の方が戦闘能力が高いというのは、何かの皮肉かと思ったが、それよりも信じられないのはフリューゲルだった。
どう考えても昔よりも強い。以前すら敵う気がしないグレンだったが、今目の前で対峙するとわかる、埋めようのない“差”ができてしまっているように感じた。
敵を倒すための力と、殺すための力。その差は歴然だった。
依然としてフリューゲルから発せられる殺気は押し潰すようにグレンとシスティーナを襲っていた。幾多の戦場を抜けてきたグレンですら肌が粟立つ程の猛烈な殺気。それをまともに受けているのだ。無事でいるはずがないと、グレンはシスティーナをちらりと横目で見た。
グレンはその時、隙を見せなかった自分を内心で褒め称えた。足は震え、腰も引けていたが、彼女は気丈に立っていた。猫を思わせる、金色の目で真っ直ぐにフリューゲルの孕む闇と対峙していた。
フリューゲルの瞳が微かに動き、システィーナを射止めた。その瞳が言い様のない微妙な光を纏ったのを、グレンは辛うじて認めることが出来た。それは、かつてフリューゲルがセラ=シルヴァースと出会ったときの目と同じだった。
一目惚れなどといったものとは違う、何かを懐かしむような目。彼がその目をするときには、どこか遠くを見ているときだった。目の前にいる女ではない、別の誰かを。
普通なら隙ととることすら困難なほどの一瞬の時間。だがグレンは拳を振りかぶり、躊躇することなく一歩を踏み出した。
瞬間、フリューゲルがその長身に見会わない素早さで足元の気絶したリィエルの頭を掴むと、それを盾のようにしてグレンの攻撃を牽制した。グレンは慌てて拳を下げ、そのままバックステップで元の位置に戻り、相手を真っ直ぐに睨み付けた。
後ろでシスティーナの荒い息づかいが聞こえる。大切な友人を傷つけるだけでは飽きたらず、よもや攻撃をしのぐための盾として使われたのだ。彼女の怒りは痛いほどグレンに伝わった。そして、それはグレンも同様だった。それでもその怒りを理性で押さえつける。感情的になるのは得策ではない。理性を捨てた瞬間、フリューゲルは命を刈り取って行くだろう。さながら死神の如く。
「リィエルを離して!」
静まり返った廊下に、その澄みわたったよく通る声が響き渡った。
システィーナは凛とした態度で足を踏み出し、グレンの横に立った。先程の震えは収まっているようで、その目に恐怖の色はなかった。ただ怒りの色があった。心優しい彼女が抱いたその身に有り余る怒りが。
誰かを思う怒りは時として絶大な力を生む。グレンは経験上、そういった
ただ、グレンには彼女を止められそうにはなかった。システィーナの瞳に燃え盛る炎は猛烈な勢いで炎上し、とうにグレンへ燃え移っていた。彼とシスティーナとの違いは、ただ行動に移したか否かだけだった。
フリューゲルは微動だにせずただじっとシスティーナを見つめていた。そこには怒りも驚きもなく、ただ空虚な存在だけがあった。感情の欠陥した、それでいて獰猛な爬虫類のような目。人間ならば誰しも忌諱するであろう目で真っ直ぐに見つめられたシスティーナは、しかし怯むことなくもう一歩、そしてまた一歩と踏み出した。彼女の中では、恐怖よりも怒りの方が大きくなっていた。
「友を傷つけられ、俺に怒りをぶつけるか」
男の声がシスティーナの耳に入り込んできた。低い低い声だったが、それでも確りと芯の通った声だった。システィーナが今まで出会ってきた外道魔術師のどれにも属さない、何処かに信念を感じさせる声。
そしてシスティーナは歩みを止めた。何処からも男の感情が見えなかったからだ。それは男の持つ瞳と同じ、あらゆる感情が取り払われた無機質な声だった。
「ええ、そうよ。リィエルを離して、そして観念しなさい。ここはアルザーノ帝国魔術学院。世界最高峰の魔術師達が集う場所よ。やられないうちに降参した方が、貴方も傷つけられずにすむと思うけど?」
あえて笑みを浮かべてシスティーナはそう言った。少しでも戦意を削ぐために。これ以上被害を拡大させないために。だが目の前の男にこれといったアクションは全くなかった。システィーナの言葉に対して畏怖の感情は全く抱いていないようだった。
ただ先程まではなかった光が、その瞳に宿った。言葉では表すことのできない複雑な感情。何かに好奇心を刺激されたとでも言いたげな目をしていた。
「そうだな、
突然、リィエルの体が揺らいだ。システィーナは何が起こったのか一瞬理解が追い付かなかったが、フリューゲルが何をしようとしているのか理解した瞬間、脇目も振らずに走り出した。
だが遅すぎた。リィエルの体がフリューゲルの腕から解放された。しかし勢いをつけて投げ出された小さな体は、窓ガラスを突き破って、二階の空中へと躍り出た。
「リィエル!」
システィーナは加速し、リィエルの腕をつかもうと全力で手を伸ばした。それでも届くことなく、リィエルはシスティーナの手のひらをすり抜け、眼下の植木の中へ消えていった。枝が折れ、重いものが地面に激突する音が木霊した。
右手は空しく虚空をつかみ、一切の重みはなかった。ただ力の限り握り締めた。手袋をしていなければ血が出ていたであろうほどの力で強く。そして振り向いて睨み付けた。システィーナを嘲るように見つめる長身の男を。
「絶対に許さない!」
システィーナは声を荒げて立ち上がった。その瞬間、男の顔をまじまじと見つめてしまった。
男は笑っていた。感情のこもっていない、薄っぺらな笑みだった。そしてそれは、
「そうか。お前に許しを乞うた覚えは、最低でも俺には無いがな」馬鹿にするような響きを持った言葉。見下すような色を持った瞳。それはシスティーナの感情を残酷なまでに逆撫でし、彼女が心に宿した炎に過剰なまでの油を注ぎ込んだ。
その体に力の限りの魔術を叩き込んでやる。システィーナは決意し、動き出そうとした。だが思うように体が動かなくなっていた。空気の粘度が急激に増したように体が動かしづらくなっていた。視界も、まるで水面を覗いた時のように揺らぎ、次第に呼吸すらまともにいかないことに気がついた。システィーナは男に意識を向けた。ひどく緩慢な動きで懐に手を差し込み、手に持ったものをシスティーナへ突き付けた。
銃だ。と、システィーナはいやに冷静な頭で理解した。一般的な治安部隊が所持している単発式の物ではなく、グレンが使用する
その銃口を向けられている。それが何を意味するのかわからないほど、システィーナは愚かではなかった。
ただ思うように体がついてこない。焦れったいほどスローに動く自身の身体に苛立ちを抑えられず、しかしいくら力を入れても身体を動かす速度はゆっくりだった。そして理解した。いま、システィーナ自身がどのような状態にあるのか。視界に写るものすべてがスローに見える状態。今、彼女は圧縮された時の中にいた。
次いで戦慄した。この状態に陥る人間というのはつまり、死がすぐそこにあるということだ。
いきなり視界が晴れた。世界の速度が上がり、システィーナは射し込んできた陽光に目を細めた。自らがどのような状況に晒されているのかすら忘れて。
フリューゲルのも持った拳銃の深淵が、システィーナを真っ直ぐに捉えていた。
「あ……」
次の瞬間、強い力でシスティーナの体が引かれ、尻餅をつかされた。それとほぼ同時に響く銃声。慌ててシスティーナが上を見ると左肩に穴を穿たれ、血を流すグレンがいた。
システィーナが声をかける暇もなく、グレンがフリューゲルへと突進した。二発の銃弾をかわし、グレンはフリューゲルに殴りかかるが、フリューゲルはいとも容易くその拳をつかみ軽々と投げ飛ばして壁に叩きつけた。
それでもグレンはダメージを感じさせない俊敏さで立ち上がると、システィーナを抱えてフリューゲルから距離をとった。フリューゲルが今使用しているのは装填数の少ないリボルバー式の、グレンがよく知る形式の銃だ。セリカ、そしてリィエルと戦闘したときに使用したフリューゲル独特の、連射機能を持った凄まじい装填数を誇る銃は使いきったようだった。
「馬鹿野郎! どうしてあんなことした!」グレンは全力で走りながらシスティーナを叱咤した。
「だって、リィエルが……」そして彼は自らの過ちに気がついた。涙ぐんで震え、やっとのことで声を絞り出したシスティーナを見て。
グレンもまた、冷静でいられなくなっていた。かつての仲間の裏切り。傷つけられたセリカとリィエル。その事でいっぱいいっぱいだった。十分に距離をとってグレンは立ち止まった。システィーナの震えも止まっていた。それを確認してそっと腕から降ろす。
「すまなかった。俺も冷静じゃなかった」
「いえ、私も勢いに任せてあんなことして……先生はあの男の出方を窺っていた。そうですよね?」
グレンはその言葉に驚きはしたが、外に出すのはどうにかして押さえた。彼女はもう、案外と大局が見極められるようになっていた。度重なる天の智慧研究会の魔術師達による襲撃を避けてきただけはある。グレンは大きく息を吐いた。
顔を縦に振ることで肯定を示したら、少し得意気な顔になった。その顔に重なる誰かの影があったが、そちらよりもだいぶん扱いやすい印象をグレンは受けた。
「あの男、先生と知り合いみたいでしたけど、何者なんですか?」システィーナは覗くようにして訊いた。グレンの顔が少しだけ歪んだ。その揺らぎですら、あの男を見たあとだと大きく表情を変えたようにシスティーナは錯覚した。
「元仲間だ」グレンの感情を全力で抑えた、無機質にしようとした声。システィーナは彼の言葉に、隠しきれない感情を見た。グレンは続けた。
「宮廷魔導士団、特務分室、執行官ナンバー13、コードネーム《死神》。フリューゲル=シュトロブルク。
「――――どういうことですか?」
「あいつは魔術が全く使えないんだ。その代わり、魔術が通用しない。誰がどれだけ強力な
「そんなやつが……」
「ああ、お前がやった脅しはな、あいつにとっちゃ全く脅しになっていなかったよ」
グレンはからかうように言った。システィーナはむっとして睨み付けてみたが、恐らくからかわれるだけになるはずだから黙っていた。だがにやけ顔を見せるグレンの後ろの人影を認め、システィーナは咄嗟に叫んだ。
「先生、後ろ!」
間に合わない。瞬時にそう悟ったシスティーナは思い切りグレンの頭を掴み、叩きつけて体制を低くするのと、凄まじい破裂音が廊下の向こうから響いてくるのは同時だった。一瞬の間すらなく、弾丸が猛烈な風圧と共に頭上を通過し、向こうの壁を粉砕した。
それは恐ろしく巨大な銃を携えたフリューゲルだった。それほどまでに大きな物を持ちながら、しかし重さを全く感じさせない速度で疾走してきた。
「せ、先生!」
「助かった。とりあえずお前は下に降りてリィエルの様子を見に行ってくれ。俺は……」
フリューゲルが銃身を持ち、さながら戦鎚のようにして振り降ろすのを、グレンはいなした。銃は床に叩きつけられ、粉塵と瓦礫を撒き散らした。
グレンが鳩尾に鋭い蹴りを入れると、さすがのフリューゲルも数歩後ずさった。グレンも深追いはせず、拳を握って構える。
「ここで倒すからよ」
システィーナが無言走り出す音を背中越しに聞き、グレンは不敵に笑みを浮かべた。
「これで一対一だ。ようやく
「ああ、余計な殺しはせずに済みそうだ。感謝するぞ、グレン」
普通、銃をこんな感じで使用したら間違いなく歪みますが、彼は特殊な訓練を受けておりますので大丈夫です(^_^;)