煉獄の使者 作:あぷぺあら
いつかの記憶\
一人は中年の男=フリューゲル=シュトロブルク。
もう一人は青年――――年齢のわりに大人びて見える=グレン=レーダス。
青年はぎりぎり酒が飲めると偽ることのできる年齢=そこまで厳しく規制されているわけではない――――バーナードに弄くられるかっこうのエサ。
酒にいい思いではない\グレンはそんな様子で苦い顔をする\フリューゲルは苦笑してそんな彼を見つめる=何処か哀しさを含んだ笑顔。グレンに気づかれないようにした――――違和感を感じたような彼も、その正体には気づけそうにもない。
琥珀色の液体を流し込む\喉を焼くようにして胃へと下る――――気を落ち着けなければ、話を切り出せそうにない=肝心なところで一歩を踏み出せない性格――――セラに弄られるネタ=食えない女\苦手なタイプ――――嘗ての想い人を連想させる顔\それなのに性格はかなり違う=別人という証拠。
「グレン」
フリューゲルは酒の力を借りてようやく切り出す\やっとかと言いたげなグレン\なんとなく申し訳なさを感じた。
酒の力をさらに借りるため、もう一口液体を流す\何処と無く宙を舞うような感覚=軽い酔いが回り出す。話すのはずっと仲間に隠していた事実――――解決することのできない問題\彼以外には。
「お前を呼んだのは、一つ頼みがあるからだ」
グレンは眉を寄せる\恐らく初めてフリューゲルに頼られたからだろう\それでも断ることはないという確信=扱いやすいという印象――――そこに若干の弱さを感じる。
これから語るのは『前世』の話――――どう考えても突拍子もないこと\それでも話さないわけにはいかない\過ちを犯す前に。
リィエルに話したらどうなるのだろう――――軽いシミュレーション\パニックを起こし、自暴自棄になる娘の姿を想像――――そっとそのイメージを遮断する。やはり頼れるのはグレンしかいないと決意。
グレンが酒をちびりと飲む――――苦い顔\まだ酒に慣れていない――――バーナードなら豪快に笑いながら、グレンの口にグラスを押し付けていただろう\容易にその様子が浮かび上がり、思わず微笑む――――グレンの怪訝な顔\慌ててごまかす=「いや、何でもない」
「俺の話だ。信じられないことだろうが、よく聞いてくれ」
もしも俺が人でなくなったなら、その時はお前が――――
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普段なら昼休みの時間帯のため、生徒達で賑わう廊下で、衝撃と共に砂煙と瓦礫が吹き荒れた。
そこにはたった二人の男しかいなかった。かつて『正義』を志し、現実に打ちのめされた男と、破壊の衝動に飲み込まれた男が。
グレンは横に振り抜かれた銃を体制を低くすることで避け、戦鎚と化したライフルの攻撃の牽制のため、足を踏み出して接近する。フリューゲルはライフルを素早く切り返して投げつけるが、グレンは身を捻って回避するとフリューゲルの顎下に掌打を食らわせた。
顎に衝撃をくらい、脳が揺らされてフリューゲルの体制が崩れたところにグレンは右ストレートを顔面目掛けて繰り出すが、当たった瞬間に顔を回転させることでダメージを軽減され、その勢いのまま投げ飛ばされた。
壁に衝突し、グレンの背中に小さくないダメージが与えられた。ぞわりとした感覚を味わい、側方に転がって回避行動をしたとたんに耳元でフリューゲルの足が空を切る音がした。
グレンは素早く体制を立て直し、低い位置でフリューゲルの
的確な
理性よりも先に本能が動いた。フリューゲルの直線上を避けるようにして体を移動させると、こんどは右側の頬を銃弾に切り裂かれた。何が起こったのか、その時になってようやく理解した。
銃弾が見えるはずはない。それならば銃口の向きから計算して当てたのか。それはほぼ予知に近い予測と言えるだろう。
その瞬間、恐怖がグレンの体を支配した。完全に自分より上のステージに立たれている気がした。それは彼の中で目を背け付けてきた事実の一つ、フリューゲルの身体能力だった。
何の魔術にも頼らず、素の力がこうなのだ。あらゆる生物的な力において、フリューゲルは完全に人間を超越していた。
背中を預けていたときはなんとも心強い味方だったのだが、敵として対峙し、その力を正面から見据えたときに彼と敵対するということの恐怖をグレンは感じた。いや、感情を捨て、殺戮マシーンとなった今の方が相手に与える恐怖は大きいのだろう。
それでも止まれなかった。かつて交わした彼との約束があったからだ。
以前は彼が何を言っているのかさっぱり分からなかったものだが、今になってグレンはようやく理解できた。恐怖に飲まれないように拳を握った。大丈夫だ、本気になったセリカの方が何十倍も怖い。
照準を合わされないよう、蛇行しながら接近して鳩尾に蹴りを入れた。鍛えられた肉体と、特殊な格闘術による攻撃にフリューゲルの体が揺らいだ。手応えを感じたグレンは、間髪入れずによろけたフリューゲルに再び右ストレートパンチが炸裂した。
この隙を逃すわけにはいかなかった。右腕が伸びきる前に引き、その勢いを生かすようにして左フックをフリューゲルの頬に入れる。振り抜いた左手の拳を右手でキャッチし、肘に体重をかけ心臓を辺りを力任せに殴りつけて、長身がよろめいたところにがら空きの腹に回し蹴りで追撃した。
湿った音がフリューゲルの喉から漏れ、相当な勢いで壁に激突した。さすがの彼もそこまでのダメージは無視できないようで、体が崩れ落ちた。セリカ、そしてリィエルと戦ったときの傷も響いているようだった。
だがそこで油断することはできなかった。フリューゲルはその二人をことごとく倒してきているのだ。グレンは銃口をフリューゲルへ向けた。
引き金を引いた。飛び散ったフリューゲルの血がグレンの顔にかかり、肉のやけつく臭いが充満した。
グレンの体が吹き飛んだ。脳の処理が追い付かず、何が起きているのかが理解できなかった。廊下を引き摺られるようにして滑り、摩擦で皮膚が焼かれ、呻き声が口から漏れた。隙を見せるべきではないと素早く立ち上がるが、その瞬間に口の奥から真っ赤な血液を吐き出した。
その時にようやく腹の痛みを感じた。どうやら殴られたらしかった。
確かに銃撃を放ったはずだと思い、よろめきながら前を向き、フリューゲルを見た。そして愕然とした。
フリューゲルの右腕から血が滴っていた。それは右腕で銃弾を止めたという事実に他ならなかった。
フリューゲルの体が加速し、グレンの目の前に来た。回避をしようとグレンは試みるが、まともに体は動かなかった。背中のシャツを掴まれ、膝蹴りを食らわされた。後ろに跳んで衝撃を押さえることは叶わず、グレンの血がまた口から出ていく。
床に叩きつけられ、そのまま蹴り飛ばされた。爪先が鳩尾を抉り、黄色の胃液を撒き散らしながらグレンが吹き飛んで、窓ガラスに頭を打ち付け、思い切り引き裂かれた。
グレンは朦朧としながらも立ち上がってフリューゲルを睨んだが、力尽きて膝をついた。焦点の合わない瞳で上を見上げると、そこには虚無があった。命の価値をたった数グラムに変えてしまう虚ろな闇が。
フリューゲルの指が引き金を引いた。死神の魂が一瞬でグレンとフリューゲルの間にあった距離を縮め、対象の命を奪い去ろうとしていた。
銃弾が空を切った。グレンの耳元で鉛の弾が駆け抜け、彼の黒髪を数本だけ掠めて窓ガラスとともに外へ躍り出ていった。
「何だ、これは」
フリューゲルが驚愕した表情で己の右手を凝視し、左手でがしりと掴んだ。銃口が大きく震えていた。それは右腕に付けられた銃創とはまた別の要因のように見えた。グレンはそこに光を、かつて背中を預けた他でもないフリューゲル=シュトロブルクという男を見つけた。
そしてもう一つの可能性を、フリューゲルの背後に賭けた。
「なあ、フリューゲル。ずっと気になっていたんだが――――」グレンは声を絞り出した。ひゅーひゅーと音が漏れ、一言を絞り出すのもかなり厳しかったが、それでも続けなければいけなかった。自らの生存を掴み取るためにも。
グレンは無理に笑った。相手がこちらに釘付けになればなるほど彼の有利となる。それならば喜んで
「――――
フリューゲルの動きが完全に停止し、その瞳に初めて色が点った。それは
セラ=シルヴァースと共にいるときに見た、どこか遠くを見る目。そしてそれと同じで、しかし違う名前。
『たまに言うんだ。私のことを聖良って。フリューゲルちゃんは一体誰のことをいっているのかな? 同じ名前だけど、絶対別の人だよね? 私、何だか怖くて訊けないな』
グレンの耳元に、いつか聞いた、懐かしい声がした。
フリューゲルの後ろで、影が動いた。右手に逆手でナイフを持ったアルベルトが、躊躇なくフリューゲルの脳天目掛けてそと大振りのナイフを振り下ろす。
それが頭を捌く直前に察知したフリューゲルはサイドに回避しようと試みたが、右腕の二の腕から先が弧を描きながら宙を舞い、ごとんと音をたてて床にこぼれ落ちた。
おびただしい量の血液がフリューゲルの腕から吹き出るものの、それに怯むことなくアルベルトは首を掻き切ろうと横へ一閃するが、左手一本でその手首を掴んで捻りながら投げ飛ばした。
取り落としたナイフが床を滑り、アルベルトは床に落ちる前に前転で衝撃を和らげ、再びフリューゲルを睨んだ。そして懐からナイフを取りだし、切っ先を向けた。
「終わりだ『死神』。これ以上の深手を負いたくなければ大人しくしていろ」
ゆっくりとフリューゲルは落ちたナイフを拾い上げた。それは彼の愛用するナイフだった。切れ味、強度共にこの世界のものとは一線を画す物であるから落ちていたそれをアルベルトは選んでいた。願わくはそれで彼の命を奪い去るために。
「ああ」
フリューゲルが声をあげた。腕を失ったにも関わらず、その声は平然としていた。
「多勢に無勢――――流石に不利だな」
その手には黒いものが握られていた。アルベルトには一瞬、何があるのかわからなかったが、その正体をを認識すると急いでグレンの元へ駆け寄った。フリューゲルが手に持っていたあの黒い塊は――――
「魔力爆弾――――!」
上部の金具を引き抜くことで作動する魔術が仕込まれた武器。ただ解放してから作動するまでの時間があまりにも短いこと、さらに製造に骨がいることからほとんど実用性がないとされてきた兵器。だが、少なくとも前者に関して言えばフリューゲルが気に止める必要がなかった。
すでにぼろぼろになったグレンを庇うべく、アルベルトはその傷だらけの体に覆い被さった。小さな高い音と共に金具が引き抜かれた瞬間、破壊の渦が二人を襲った。
猛烈な爆風の中、グレンが見たものはライフルを拾って何処かへ去って行くフリューゲルだった。
『次は約束を果たしてくれ、グレン』
唇がそう動いた気がした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「しっかりしてください、グレン先輩!」
グレンが目を冷ましたとき、最初に視界に入ってきたのは目を見張るほどの美少年だった。以前に会ったときよりも少し
「ああ起きたよ、クリストフ。どうせなら美少女が俺の心配をしてくれてたら、文句もないんだがな」
「冗談言ってないで、病院に行きますよ」
言うようになったなこいつ。グレンはクリストフの成長具合をひしひしと感じながら、その肩をかしてもらい、少しずつ出口へと歩いていった。
「セリカとリィエルは?」ふと心配になり、少年に尋ねた。
「二人ともひどい怪我ですが、命に別状はないようです。でもセリカさんの方は白魔術による回復が見込めないらしく、暫くは寝たきりでしょうね」
しばらく無言で歩いていた。言葉や態度にはほとんど現れていないものの、どうやらクリストフは怒っているらしかった。まだ黙って出ていったことに対するわだかまりは抜けきっていないようだ。
よく見ればアルベルトの姿が見えなかった。
その態度に気がついたのか、クリストフが口を開いた。
「アルベルトさんならまた避難指示に戻りましたよ。一旦落ち着いたときにここに来たんです。アルベルトさん、僕を置いていったんですけど、僕があと少し遅かったら大変なことになっていましたよ」
全く。と言いながらクリストフは息を吐いた。逞しくなった彼に、グレンは微笑んだ。
「フリューゲルは、やっぱり逃げたのか」
「その様です。残ったのは右腕だけですね……と、着きましたよ」
彼はまた襲ってくる。その時はちゃんと約束を果たしてやろう。お前を夢から醒まさせてやる。
馬車に寝かされ、グレンはそう誓いながら意識を手離した。
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「俺はこの世界の人間じゃない、別の世界線から来た人間だ」
グレン=頷く\何となく予想はできていたと言いたげな顔――――充分に驚くことのできる事実のはずだが。
思い出したくもない過去――――痛みの
それでも思い出さなければいけない=事実を打ち明けるために\永遠に覚めない夢から抜け出すために\生命に与えられる絶対の安寧=『死』を得るために。
「俺の身体能力の理由は、肉体の科学的な改造にある」
グレン=怪訝な顔――――何が言いたいのか分からないと言外に伝える。
科学技術の未熟さ=兵器が開発される理由がないせいか\どんな皮肉かと唇をつり上げる\グレンの眉のシワがさらに深くなる。
「投薬、遺伝子の改造、その他色々――――俺のなかに、俺が何パーセントくらいあるのか、俺ですら分からない」
いつか聞いた事実\改造を施した科学者の話し合い\怒りに任せて彼らを傷つけた――――軍の命令に従っただけの彼らを=とてつもない罪悪感。
グレン=唖然\指先の細かい震え=受け入れがたい事実を突きつけられ、現実に追い付けず――――それでも彼しか頼れる相手がいない\俺を止められるのはお前しかいないという確信。
「その影響で俺の精神も汚染されている。強大な力を手に入れられる代わりに、俺の精神構造は、次第に
「だからグレン……俺がもし変わってしまったときは、お前が止めてくれないか?」
真っ直ぐにグレンを見つめる\グレンの肩が震える\あまりにも急すぎて――――心の整理が不足している。それでも頼まないわけにはいかない――――おおきな過ちを起こす前に。
「それは、俺がお前を殺せってことか?」
グレンの問い――――まるですがるように。
「ああ」
あえて簡潔な返し――――現実味を増すため。
ぐいとグラスを傾け、グレンが酒を飲み込んだ\苦手であることを忘れて\案の定噴き出す=テーブルを濡らす\フリューゲルの顔を濡らす。
意味の分からないことを宣う男に酒をかけたことに、見たことのない表情でうろたえるグレン\可笑しくなってフリューゲルが笑う=声をあげながら――――今ならグレンをいじるバーナードの気持ちが分かる\さらに可笑しくなって笑う。
俺が居なくなったらリィエルはどうなるのだろう=一抹の不安\振り払う――――あの子は強いということを信じて。
夜の酒場に男の笑い声が続いた。
笑っていたことは覚えている。だがもう、なぜ笑ったのかというその感覚は、思い出せそうになかった。