それはある日の夜のことだった。もう時刻は深夜を過ぎた頃、クオンの部屋の前を通り掛かると言い争うような話し声が聞こえてきたのだ。厳密にはそんな激しいものではなく、互いに落ち着いた声音で言い合っているだけなのだが、どうにもクオンは不機嫌なようであった。
「ですから…若様も…」
クオンの相手の声には聞き覚えがあった。それに「若様」とくれば思い当たる人物は一人しかおらず、側近である双子の姿が思い浮かぶ。
「國を出てからずっと……」
「だから、それはお許しをいただいて……」
シスコンが今度は姪にまで執着し始めたか。会話内容から察するにユズハに対して働いていた過保護が、その娘であるクオンにまで及んでしまっているのだろう。想像に難くない事態に眉を顰めつつ、こっそりと盗み聞きする。
「まだ戻るつもりは……」
オボロには戻れと言われているらしい。その考えも判らなくはないが、束縛が激しいのも考えものだと思うが。
「それにまだお父様は……」
「それなら既に見つかっているのでその言い訳は通りませんよ」
「っ!?」
ドリィかグラァか判らぬがそう告げるとクオンは驚いたように息を呑んだ。もっともそれを見つけたのはクオン本人であるのだが、自分が正体を明かしていない時点でまだ見つかっていないと思っていたのだろう。もう十数年は時を刻み、その間誰も見つけられなかったのだから。
「ですので一度若様にご相談しないと」
「でも、まだ約束の期日は……」
「とにかく一度お考え下さい」
何故、俺は盗み聞きなどという行為を行っているのか。クオンはどう足掻いてもまだ帰りたくはないらしく、オボロはどうあっても姪を國に帰らせたいらしい。
「……それでお母様はお父様にお会いに?」
「時間の問題かと」
双子の口からは自分の正体を明かすことはない。
それが判ったところで、寝屋に踵を返した。
◇
翌日、人が寝静まり数軒の居酒屋くらいしか店を開いていない頃、白楼閣の展望室で帝都で動く人の気配を探っていた。寝静まった帝都には検非違使くらいしか人影がなく、それを除いた人の気配は一部を除いて皆無に等しい。目を凝らして眺めること数秒、目的の人物の気配を見つけると展望室から飛び降りて、その人物がいる木の根元まで駆けた。
「オボロ」
「っ、兄者!?」
驚いた声が木の上から響き、旅装束の男が一人降りてきた。見るからに昔のような若々しさはなくなり、歴戦の猛者のような風貌の男が。昔は生えていなかった口髭まであり、髪の質も少し落ちているか。顔には少しばかりの皺が刻まれ、それほどまでに長い時間会っていなかったことを改めて実感させられた。
「なんというか……まぁ……随分と変わったな」
「はい。兄者もご無事なようで……」
厳密に言えば俺はユズハの夫だから義弟になると思うのだが……相変わらずの様子に笑みを零しつつ、気にしないことにした。
「それより一杯付き合ってくれないか」
「……兄者が飲むとは珍しい……」
「飲みたい気分なんだ。付き合え」
そう言ってオボロを連れて行ったのはハクに教えて貰った近場の酒場であった。適当に飲み易く弱い酒を店主に頼み、惣菜や魚も一緒に頼むと程なくして卓に並べられた。
まずは一口、恐る恐る飲んでみる。
舌で確かめるように舐め、あまり酔わなさそうなことを確認すると一口飲み干す。
だが、やはり酒は好きになれないことが判っただけだった。
たった一口で、もう既に躰が焼けるように熱い。
「オボロ、随分と姪にご執心なようだな」
「……あの娘の母親は目が悪く、父親は不在でしたので」
そう言われると返す言葉がない。思わぬ意趣返しに面食らいつつも、少しだけ心の内を吐露する。
「……好きで隣にいなかったわけじゃないさ」
「そうだったな」
言い負かされてオボロは酒をグイッと呷った。憎々しげに魚の骨を取り除き、身を弄り回して口に運ぶ。今の状況に少しばかり不満があるようだった。
「それよりもだ兄者!何故クオンに自分の正体を明かさない!」
「くどいぞオボロ。その件は時期を見て伝えるつもりだ」
「とか言いつつ、逃げてるのではないか?」
「むぐっ……」
その節がないわけでもないので押し黙る。しかし、代わりの言葉はすぐに沸いて出てきた。
「あの娘は父親を必要とするほど、小さくはないだろう」
「甘いぞ兄者、あれはまだ子供だ」
「あの歳頃は過保護なのを嫌うぞ、知らないのか?」
「あの娘は父親の愛情も知らずに育ってきたからな。当然だろう」
口を開くたびにオボロは俺に向けて毒を吐く。クオンのことに、ユズハのこと。知らず知らずのうちに本来の目的を挿げ替えて自分が説教される始末、本当に不甲斐ない。
何か一言苦言を漏らすたびにオボロは酒を飲み、酔い、その顔を赤くして。少しばかり昂っているようで愚痴ばかりを漏らす。
「待て、話を戻そう–––」
「だいたいどうして兄者はユズハの前から消えたんだ!あいつはずっと兄者のことを思い、寂しそうに毎年過ごしていたんだぞ!クオンが生まれてもその寂しさが紛れることはなかった!そしてようやくだ!」
だんだん饒舌に毒を吐き散らすオボロを宥めながら、酒を飲ませるのは失敗だったかと悟る。店主に酒を全て水に変えて出すように耳打ちしてから、席に戻った。
「聞いているのか兄者!」
「……まずはその説明をしなければならないのか」
眠りについていた間、何も考えなかったわけではない。目覚めてからも色々と考えた。何故、自分は肉体もなく遠く離れた異國の地で活動を可能としたのか。仮説なら建てられる。
「そもそも俺がユズハの前に姿を現したのはある願いによるものだ」
「願い、だと……?」
「ウィツアルネミテアがどういう存在か知っているだろう。あれは出来ることに限りがあり、代償も必要な上、願いを捻じ曲げてしまう性質もあるが、紛れもなく願いを叶えることができる未知数の存在だ」
「誰が何を願ったと兄者は言うんだ?」
「あそこには曲がりなりにもウィツアルネミテアが存在し、そして願う者達がいた。誰だか判るか?」
「願う者たち?」
この言い方だと大雑把過ぎるか。
願うだけなら、世界各地無数に存在する。
その中で一つに絞れと言われても範囲が広過ぎるであろう。
「少なくともおまえ達は願っただろう?ユズハの病気が治ることを」
「……あぁ、確かに俺はずっと願っていた」
アルルゥ、カミュ、ウルトリィ、ハクオロ、エルルゥ、カルラ、トウカ、ドリィグラァ、クロウにベナウィまで。兄であるオボロ含めて全員が願った筈だ。彼女の病気が治ることを。
「それをウィツアルネミテアが叶えたとしたら、辻褄が合うだろう?」
「確かにウィツアルネミテアが願いを叶える話は聞いたことがあるが……だが、代償を払った覚えはないぞ。ユズハは変わらず元気だし、クオンも兄者が治してくれただろう」
「よく考えてみろ。何故、俺が現れた?そんな必要はないだろう?直接治してしまえばいいのだから」
「……そういえばそうだ。そんな回りくどい方法で叶えるなんて、エルルゥからは……」
「代償を軽減するために俺はトゥスクルに呼ばれたのだろう。もっともウィツアルネミテアの意思は自分を知っていたから、利用する手を考えたのかもしれないがな。願いを叶えれば契約はそこで終了だ」
「なるほど……」
仮説としては十分なように思う。願いを叶えてしまったから自分は自分を保てなくなった。本来なら、あのような存在として現れること自体異例なのだから、仕方がなかったのかもしれないが。ユズハを助けても助けなくても離れ離れになってしまうなど、皮肉な話。仮説でしかないがウィツアルネミテアの力がなければ成し得ないので十分に信憑性はあると思う。
「理解したなら話を戻すぞ」
本題はそちらではないのだ。
最近、クオンに元気がないことだ。
「なぁ、オボロ。何故あの子をトゥスクルに帰したがる?」
「皆が心配しているからに決まっているだろう。小娘三人の旅など断じて認められるか!」
どうやらクオンのもとに双子の片割れが説得に行っているのはそれが原因らしい。フミルィルとヨハネなら抵抗も少なく、元凶がクオンだということが判っているからだろう。
「三人娘の旅か。確かに心配だな。だが、今の状況を考えてみろ」
「今の状況……?」
「クオンの傍には誰がついている?」
「むぅ……。実の父親か」
オボロの主張が子供だけによる旅ならば問題だが。そこに一応は父親の自分がいるのだ。言うなれば、叔父であるやつよりも発言権は上であることを願いたい。
「そう急ぎ帰る必要もないだろう?それにクオンにだって友達が出来た。喜ぶべきことじゃないか」
「そんなものトゥスクルにもいる」
「フミルィルとヨハネ以外でか?」
「……」
祖國であるトゥスクルには、どうやらクオンの友達とやらはいないらしい。カミュやアルルゥ、ユズハも友達らしい友達は三人が出会うまでいなかったらしいから、その血を受け継いでしまったか。俺も似たようなものだった。
「だが、兄者はもう少し急ぎ帰るべきだ」
「ユズハは呼び寄せるつもりだし、トゥスクルにもそのうち帰る。問題はないだろう」
「しかしだな……」
「それに家族旅行の一つくらいさせてくれ」
帝都は旅行地としては最適である。白楼閣という湯を張ったお風呂もあることだし、他の國ではこうも簡単にいかないだろう。それに世界中探しても此処まで発展している國は早々ない。
「……俺が口を挟む隙はないか」
やれやれ、と肩を落としてため息を吐く。オボロはちびちびと盃を口にした後、諦めたように呟いた。
「判った。もうしばらくは兄者に任せよう。クオンには……」
「俺が言ったからとか言うなよ?」
「親の指示で期限を延ばした、とだけ言っておこう」
お代を置いて立ち上がるオボロだが、ふと思い出したように懐から小袋を取り出してどんと机に置いた。重苦しい金の音が響き、中には相当な量の金が入っていることが判る。
「酒代にしては多くないか」
「あぁ、これは戦で兄者が得た金だ。ユズハとサクヤも共同で使っているから残り少ないがな。一応、兄者もトゥスクルの皇族扱いになっているからあってもなくても意味はないが」
「皇族、っておまえなぁ」
「早く帰ってきて俺の仕事を引き継いでくれ」
「嫌だよ。というかおまえの仕事って……」
皇だとカルラに聞いたのだが。
こんなところで油を売っていていいのだろうか。
「おまえベナウィから逃げてきたな?」
「な、なんのことだ……」
視線を逸らすオボロの視線は絶対に目を合わせようとしなかった。
◇
「姉様、どうしたのです?」
その翌日、妙に機嫌の良いクオンを見てネコネがそう聞くと、嬉しそうな顔を隠さずにクオンは言った。
「実は前から帰ってくるように故郷の方から急かされてたんだけど、期限を延ばしてくれることになって」
「……故郷に帰ってしまうのですか?」
「今はまだいいって。だから、まだこの國にいるよ。せっかくできた妹分や友達と離れたくないもの」
オボロに帰省を促されることがよほどストレスだったのか、その尻尾はゆらゆらとご機嫌に揺れながらいつも以上に輝いていた。心做しか毛並みもいいようだ。
次回「帝」を予定。