一月も過ぎればそれは既に見慣れた光景だった。父と母は四六時中共に時を過ごし、寝食を共にして、果てにはお風呂まで同伴する始末、最初は恥ずかしいような見たくないような気持ちだったものの慣れた故か少し微笑ましく思い始めてしまっている。夫婦仲が良いことは悪いことではないし、むしろあれは私が夢見たものに近しい光景であるのだ。
–––お母様が幸せそうにしている。
笑顔で、楽しそうで、幸せそうな、その光景は私が望んだ家族の構図そのもので、私が欲しかった居場所だ。少し過剰な気もするけど間違い無いと思う。
「落ち着いて考えてみると、悪いことじゃないよね……?」
ヨミナ–––お父様は普通に見れば良い人だと思う。お母様を大切にしていることも一目瞭然であるし、お母様の幸せそうな表情が何よりの証拠であろう。
「……お父様」
詰所の襖の前で一人呟いてみる。
そう呼べば、お母様は喜んでくれるだろうか?
きっと私がお父様に対して距離を取っているのはお母様にも判っているだろう。
その距離を埋める為に、私は呼んでみようと少し思って練習してみる。
「……うぅ、なんか恥ずかしいかも」
今更、ヨミナをお父様と呼ぶことがこんなにも難しいなんて……。
「でも、釈然としないけどしっくりくるんだよね」
それが当たり前みたいな、そんな感じがする。
ヨミナをそう呼ぶと、心の中にそっと温かい何かが溢れた。
「……お父様」
まだぎこちないけどちゃんと形にはなっていると思う。
「よし、試しに一回本人を相手に呼んでみよう」
そう思い立ったが為に詰所の前に私はいた。今、二人は詰所でのんびりと午後の時間を過ごしている、とフミルィルには前情報を貰っているので意を決して襖を開いた。
「お父様–––」
襖を開けると同時にお父様を呼び、そしてそれ以外に何も考えていなかったことを今更になって思い出す。用があったわけでもないし、何があったわけでもない。
「……あら?この匂いは……クオンですね」
ただ、次の句は目の前の光景を見て強制的に決められた。
何も考えてなかった頭も真っ白になるほど、目の前には一瞬で思考停止するような光景が広がっていたのだ。
詰所の長椅子の上に目的の二人はいた。……いたのだが、その状況を理解するに苦しむ。
–––端的に言うと父が母の尻に敷かれていた。
いや、自分でも何を言っているのか判らないのだけど、文字通りお父様がお母様の尻に敷かれていたのだ。長椅子の上で寝そべっているお父様の背中にお母様がちょこんと。そんな二人と目が合ってしまい、私はどうしたらいいか苦悩した。
取り敢えず、無言で襖を閉めた。
「あのぉ〜、クーちゃん?」
そんな私の背中に鈴を転がしたような音の声がかかる。
振り返ると、フミルィルがいつもより三倍増しの嬉しそうな顔で立っていた。
「あ、うん、どうしたのフミルィル?」
「いえ、一人でヨミ様を恥ずかしげにお父様と呼んでいる姿が微笑ましくて声をかけづらくて……」
「まさか最初っから聞いてたの!?」
不覚にも最初から最後まで全部見られていたらしい。フミルィルがいつにも増して母性溢れる微笑みを浮かべているのはそういう理由があったからか、苦い薬を飲んだヨハネくらい苦い顔になって私はそっぽを向いた。
「入らないんですか?」
「ちょっとお取り込み中みたいで……」
フミルィルが首を傾げる。問答して、さらに首を傾げる結果になってしまったが、フミルィルはそのまま私の横を通り抜けて詰所の襖をスッと開けて滑らかな所作で入っていく。
……。
数分しても出てこない。
私は自分の目を疑った。
もしかしたらあれは見間違いかもしれないと。
意を決して、もう一度襖を開ける。
「フミルィル」
すると、襖の向こうには母の尻とフミルィルの尻に敷かれているヨミナの姿があった。見ぬ間にさっきより酷い状況になっている。
「……えぇ?」
困惑。困惑だ。驚愕も、過ぎれば全部それに変わる。普段のいちゃつき具合に慣れたせいかもうこの状況に慣れつつある自分がいて、現実を直視するだけの余裕が生まれた。追い討ちのおかげか逆に冷静に。
「クーちゃんも座りますか?」
そんなフミルィルの誘いをやんわりと断って、私は対面の長椅子に座った。
◇
今日もまた夜が来る。蝋燭の明かりの中で三人分の布団を敷くフミルィルと、もう既に眠いのか座りながら船を漕いでいるヨハネ、二人と一緒の部屋で私はずっとフミルィルの背中を見つめていた。終わりましたよ、と言って全員分の布団を用意してくれたフミルィルに世話を焼かれているなと思いつつ、ありがとうと伝えるといつものように彼女は微笑んだ。
–––どういたしまして。
いつも、フミルィルは私達の世話を焼く。
姉のようで、親友のような、特別な人。
私は最近、フミルィルのことが判らなくなっていた。
「おやすみなさいクーちゃん」
「あ、うん、おやすみフミルィル」
ヨハネを布団の上に転がして、布団を被せるまで数秒。
蝋燭の明かりを消して、フミルィルは布団に横になった。
私も布団に横になって数分程、目を瞑ってみた。でも眠れない。代わりに、ヨハネの規則正しい寝息が聞こえてきて、相変わらずの寝付きの良さに私も気が抜ける。
だけど、フミルィルだけは起きているのか気配があった。
「ねぇ、起きてるフミルィル?」
「ふふっ、なんですかクーちゃん。眠れないなら子守唄を歌ってあげましょうか」
「いや、いらないけど」
「残念です」
トゥスクルでは小さな子の面倒を見ることもあり、フミルィルはよく子守唄を歌う。それで眠れない子供はいなかった。傾國の美女という渾名だけではなく、お母さんと呼ばれることも少なくなかった。
今ではフミルィルが背伸びをしていた理由もよく判る。お父様に好かれたかったからだ、私は勝手にそう思ってる。
「フミルィルって…その…お父様のこと好きなんだよね?」
「はい」
はっきりとした応答に私は喉が詰まる。
いつもはのんびりとしたフミルィルが本気だ。
「そう」としか言えず、また天井を見つめて三人川の字になって寝転ぶ。左にヨハネ、真ん中が私、右がフミルィルの順番で並べられた布団で眠るのは幼い頃はよくこんな感じで寝ていたものである。時が経つなり離れて、でも旅が始まってから私達はいつも三人一緒に寝ていた。ヨミナが仲間に加わる前までは。
思い出すのは三人で旅をした時のこと。
そして、お父様を発見した時のこと。
目まぐるしく過ぎた日々、出会い、別れ。
その全てが間違いなく私は嫌じゃなかった。
ヨミナのことは嫌いじゃない。
こんなことを言うのもなんだけど、お父様はお父様に相応しいと思った。彼で良かったと思った。
「どうするの?お母様が相手じゃ勝てないと思うよ」
お母様には幸せになって欲しい。だけど、その気持ちと同じくらい私はフミルィルに幸せになって欲しい。
それが可能であるのなら……。
「勝つ必要はないですよ」
「え?」
ふと、予想していなかった答えがフミルィルの口から漏れた。勝つ必要はない、とはどういうことか。穏便に済ませる方法があるのなら私が知りたいところだ。現状私の悩みはそれ全てに尽きるのだから。
お父様と呼ぶには少し……いや、かなり恥ずかしいけど、この問題に比べたら些細なことなのだ。その解決策はもう既にフミルィル自身が用意しているという。
「でも、だって……好き、なんだよね?」
「はい、好き……いえ、愛している、と言った方がいいでしょうか」
本当に綺麗な声で淀みなく言い切るフミルィルの姿に、ぱちくりと瞬きをして見遣る。すると彼女は横を向いて私に視線を合わせてきた。とても大事な話をする時、フミルィルは絶対に相手の目を見る。
「クーちゃん、勝つ必要はないんですよ。奪い合い、争うなんて、まず無理な話です。いいですかクーちゃん、ヨミ様は絶対にユズハ様をお捨てにはなりません。あの人は情の深い方ですから」
「うん。確かに……」
思い返してみれば、お父様は気に入った相手にはかなり深く入れ込む性格のようだ。危険なことに私達が首を突っ込むとなにかとついて来てくれたり、私達が絡めば必ずだ。
それに理由は判らないけど離れ離れだった二人の様子を見れば、お父様がお母様を捨てるなんてまずあり得ないだろう。
「ねぇ、フミルィル。勝つ必要はないって……」
「クーちゃん。ヨミ様の妻は二人です。その三人目に私はなりたいんです。独占したいなんて思いません。私が好きなのは好きな人を大切にするヨミ様なんですから」
ちょっと何言ってるか判らないけど、穏便に済みそうなことに私はほっとした。
「お母様達がそれを許してくれると思う?」
問題はお母様達がどう思うか。
お父様がフミルィルのことをどう思っているか。
こればかりは予想できない。
「大丈夫ですよ、クーちゃん」
謎の自信に満ち溢れた顔でフミルィルはそう言い、さっさと一人寝てしまうのであった。
なんで尻に敷かれているかは勝手に妄想してください。
多分、そのうち書くかもしれませんが。