● 水没林の桜 ― クエスト開始
『待機』
オレから少し離れた木陰にしゃがむマーキは、しとしとと雨の中を舞い散る桜の花びらを眺めながら、左手で手信号を見せた。
水没林の“エリア7”にのみ生えている桜の木は、一箇月ほどの間に八割以上が花を散らし、一割が見頃、残り一割はやっと咲き始めたところだ。泥で濁った茶色の水に、雨季の霖雨をもたらす雲で重苦しく彩度の低い水没林に咲く、鮮やかな淡紅色の花びらは雨の中であっても美しい。
東の海洋を渡った先の大陸の、更に東の果てよりも東にある地域では、クローニングされた同種の桜が一斉に満開になるという話を聞いたことがある。それはなんともダイナミクスな光景なんだろうと人口では有名だが、ここ水没林の、段階を追って様々な花が開いてく様も風情があってよいと、花見スポットとしては割りと有名な場所だった。
「運がよかったな、レシオ。出発が少し遅れてたら散ってたぜ」
マーキが雨音に紛れる程度の声量で、レシオ――オレに言う。
そう、難点は開花時期に重なる雨季だ。窪地になみなみと水を溜めるほどの降雨にひとたび遭遇すれば、花はあっという間に散り、水に没する樹木の一本に戻ってしまう。まして水没林はハンターズギルドが高脅威動物――“モンスター”の狩り場と規定した地域だ、一般人はおいそれと近付けないし、その“モンスター”を狩る“モンスターハンター”も様々な地域を飛び回る都合から、時期を見計らうことはできない。
それ故オレたちの状況は奇跡的なわけで、タンジアの港に戻った暁には会う人間すべてに自慢するにたる僥倖なのだ。
そう分かっていても、オレの視線は上を向かない。
顔の下半分を覆う伸ばしっ放しヒゲを、その少し上で花びらを眩しそうに眺める目を、睨んでいる。
(油断はしないぜ)
雨に濡れた泥の上に両脚を投げ出し、肘をついて寝転がるマーキは、“水竜”の鱗をつなぎ合わせた防具で覆われたでっぷりとした腹を、剥き出しの髪を、雨に晒していた。顔を幾筋もの水が流れ、それがだらしなく開いた口にも入っているが、気にしている様子はない。
対するオレの右手は常に、背中に納めた片手剣の柄を握っている。マーキがなにか不穏な動きをすれば、すぐに左手の小盾で対応しつつ抜刀からの攻撃に移れる姿勢を保っているのだ。
その対比で――苛立つ。
「おい、桜なんか見とれてる場合かよ。目の前にターゲットがいるじゃねえか」
言葉にも棘が混じる。
オレが顎で示したのは桜の木の向こう、崖へ流れる川に沿って広がる、ぽっかりと林の途切れた高台。
雨とそれによって散らされていく淡い桜のベールの向こうに見え隠れするのは、花びらよりずっと鮮やかな紅色を曇天に映えさせる、“紅彩鳥”クルペッコ亜種だ。
鳥竜種であるペッコとその亜種は、全高こそ六メートル弱と高いものの全長は五メートル前後しかなく、その長さもラッパのように大きく長いクチバシと、求婚時に広がる鮮やかな尾羽がほとんどを占めたもので、シルエットは鳥と大差ない。
だがペッコはいくつもの危険な特色を持つ中型の肉食系中脅威“モンスター”で、オレたちが受注したクエストの討伐対象である。油断は許されない。
べた、べた、と重いとは言えない足音が雨音に混じって届き、それがどぶん、と水に踏んだ。背後の山から降りてきて、その分だけ崖下に流れていく川にペッコが足を踏み入れたのだ。
マーキはその“モンスター”を見て、桜を見て、オレを見て――口の端で笑っただけだった。
ペッコは浅い川を遡りながら、オレたちが隠れている桜の林の方に近付いてくる。
マーキは身じろぎもしない。その重量感溢れる巨体ぬかるんだ泥の中に半ば沈みかけていた。彼の太い腕がどれだけの力を持っていようと、あの姿勢から木に立てかけたランスを装備し、ペッコに不意をついた致命の一撃を与えられるとは思えない。
こいつ、自分の立場が分かってんのか?
クエストに失敗すれば、お前は死刑なんだぞ?
それとも、いつでもオレを出し抜いて逃げられるって思ってんのか?
「なあ、いい加減に――」
「――なあレシオ、お前カノジョいないだろ」
「は?」
「女は嫌いなんだぜ、せかす男がよ」
カチン、ときた。
オレ一人で十分だ、ペッコが気付く前にあの喉笛を切り裂いてやる!
片手剣を背腰から抜き、立ち上がり――
『――待機』
左手の手信号を目にした。
それを示したマーキを。
『許可するまで、待機』
顔は笑っている。
身体も弛緩したまま。
だけどその目はオレを射貫いている。
『許可するまで』
強調するようにもう一度繰り返し――
――右前腕だけを使ってなにかを投げた。
口を開く前にそのポテトマッシャーのような形状を認識し、咄嗟に目を塞ぐ。
林から飛び出した閃光玉の中で光蟲が押し潰され、その断末魔による発光効果が辺りを白く塗り潰す。
不意を突かれたペッコの声が「ギヤア!」と叫び、水を踏む音が乱れる。
チャンスだ!
収束していく光に薄目を開けながら片手剣を抜刀し、しかしマーキは動いていなかった。
「まだだぞ、動くなレシオ!」
暴れて声を上げ続けるペッコに負けないよう、マーキが叫んだ。
「なんでだよ! 早くとめねえと!」
オレは動きかけるも、いまだに『待機』の手信号を見て奥歯を噛む。
その隙にペッコが無弁トランペットのようなクチバシを開き、空に向けた。そして赤い羽毛に覆われた胸が大きく膨らみ、求愛行動にも用いられるハートマークが現れると、先ほどの鳴き声とはまったく違う音を発した。
求愛でも威嚇でも恐怖でもない、異質な鳴き声。
濡れて滑りそうな片手剣の柄を握り直す。そうして、雨に負けないくらい汗をかいていることを意識する。
最悪の状況にならないよう祈っている自分を意識する。
やがてペッコが胸をゆっくりと萎ませ――入れ替わるように、南西の方で鳴き声がした。
次に東から。南から。そして北から。
三者三様だが、どこかペッコが張り上げた鳴き声を思わせる声が。
「やばいぜ、こいつは――」
「なにがだ?」
雨音にも負けるくらいの小さな呟きに、マーキは口笛混じりに応えた。
それはクルペッコと呼ばれる“モンスター”最大の特徴だった。
風切り音、地鳴り、波音。
影、異臭、水しぶき。
そのすべてが同時に起こり、オレは息をとめざるを得なくなる。
桜色の“火竜”が。
紫色の“水獣”が。
白色の“海竜”が。
盛大に泥をはね飛ばして、“エリア7”に着地した。
「ヒュウ! 壮観だな」
その風圧が作る渦に、雨滴に負けまいとしていた桜の花びらは根こそぎ吹き飛ばされ、それぞれ二〇メートル級の肉食系高脅威動物――大型“モンスター”の出現に文字通り花を添える。
「――こいつは他の“モンスター”を呼ぶんだぞ」
先ほどの言葉に継いだオレに、マーキはやっと重い腰を上げ、
「だから、一石二――四鳥だろ?」
じょりじょりと長い顎ヒゲをこすりながら、こともなげに言った。