“エリア7”を頂上とする岩山の地下で、方々から射す光が煌めく水と天井の間を、三〇メートルの白い“海竜”が飛沫で満たす。
息を吸い込み、水圧から解放された肺が酸素を得る。
血管が脈動し、爆発した身体と思考が結合される。
『レムオルニスナイフ』を右手で、逆手に抜き。
ラギアの角からすっぽ抜けたオレは、だけど角にあえて結びつけておいたベルトを引っ張り、奇妙な制動で再び顔面に迫り――
――その赤い眼球に、渾身の力を込めて青白い片刃の片手剣を突き立てた。
「!」
予感した手応えは――ない。
分厚いゴムに針を突き刺すような感触。切っ先は眼球の表面を凹ませているのに、破れない。
浮いてるからか?
その疑問への答えもなく、ばちん、と瞼が閉じられた。眼球に触れていた『レムオルニスナイフ』の刃が、数センチの厚皮に挟み込まれ、空中にいるオレは突然の動きに柄を握る手を滑らせる。
「しま――」
慌てて柄に手を伸ばそうとするオレの前で、ラギアの瞼が改めて開かれた。
成人の身体の半分もある赤い虹彩が、オレを捉え、すう、と広がる。
言葉もなく全身を総毛立たせたオレは、咄嗟にベルトを手放すと同時にラギアの顔側面を蹴り、水面へと落下する道を選ぶ。
片手剣が離れたところで着水し、その向こうで、どごん、と大量の水泡と共にラギアが落下し、さらに水底に激突して砂煙を巻き上げる。
なにも見えなくなるその水中で、空気を目一杯吸い込み直したイキツギ藻を、今度は遠慮なく噛み締めた。
「ダメか……!」
首尾よく“エリア8”までやってこれたら、あとはこの真上の“エリア7”まで戻るだけなのに。
不意を突いて“タクシー”の片目を潰し、すぐに水からあがって洞穴の狭い出口まで逃走しようと思ったのに。
静まっていく土煙の向こうでとぐろを巻いたラギアは、完全にオレを外敵として認識したらしい。
頭を水面から半分出して――全身を震わすような咆哮を発した。
「クソ、邪魔すんなよ!」
届かないと分かっていても、対抗するように叫ばずにはいられない。
こんなことしてる場合じゃあないんだ……!
右腕の“水竜”の大盾をちらりとみて、その持ち主の顔を思い浮かべる。
だけどどうする?
革に染みこむ水の重さを感じながらも、片手剣を握っていたはずの左手を神経質に開いては握る。水底に落ちたらしき片手剣を探すか? だけど大盾を外している余裕はないだろうから、使うとしたら左手になる。左手で戦えるのか?
それ以前に、そもそもオレはこいつと戦えるのか?
“双界の覇者”って畏怖を覚える二つ名を聞いたことがあるだけの、未知の“モンスター”とまともにヤり合うなんて自殺行為だ。
『記憶するな。思い出すな。推測するな』
記憶するな?
ならお前は、こんな状態でも、こいつと戦う道を選べるのか?
マーキ。
複雑に描かれる水面の波紋が反響と合わさって消える頃合いに、水中を伝播する音も収まっていく。
長い咆哮を終えた白いラギアは、とぐろを巻いた身体に頭を近付ける。
「やるしかねえか!」
とぐろがほどけた瞬間、視界がぐにゃりと歪み、ラギアの身体が滲むようにブれ――気付いた時には“モンスター”の鼻っ柱がオレの目前にあった。
突進する超質量の“モンスター”に水が圧縮され、屈折率が一瞬変化したんだ。
四年前、水に落ちたガノスを追って始まった最初の水中戦では、この思わぬ効果を帯びた突進を避けきれず、クソ寒い地底湖から出たところで丸一日ぶっ倒れてたっけな。
でももう違う。
オレはとっくに両脚を挟み込むように水を蹴り、右へ回避している。
残された細かな泡を噛み砕いたラギアが、意外そうに横目でオレを見た。
大盾の移動で身を返すオレもそれを見返し、しかし、数十メートル先でラギアが再度とぐろを巻いたのを見て、直感的に理解する。
今度の突進は捕食じゃない、攻撃だ!
右腕の大盾を構えると同時に、二倍ほどに膨れ上がったラギアの白い甲殻がオレに接触し、盾を形作るガノスのヒレがたわむのが見えた。
このエリアまでの移動とさっきの突進で、大体分かった。
凹凸を備えた甲殻に覆われた全身に備えるラギアは、抵抗の大きな水中では、魚類に近い形状を獲得したガノトトスのように高速で動くことができない。その細長い身体ゆえに、突進の攻撃範囲もせいぜい半径四~六メートルだ。そのくらいなら、熟練した“ハンター”なら普通に回避できるだろう。
ラギアはしかし、突進にバレルロールを組み合わせた。大きく描いた螺旋で攻撃範囲を広げたわけだ。
「クッソ……!」
弾き飛ばされたものの、クリーンヒットじゃなかった。
螺旋軌道のおかげで攻撃範囲にムラができたんだろう、わずかに右に逸れたところで突進を受けたおかげで、どちらかというと水流に煽られた影響の方が大きかった。鉛直方向を失わない自分のバランス感覚をとりあえずは褒めながら、通り過ぎたラギアを見る。
だけど大盾を支える前腕は痺れ、衝撃を制しきれない肩への負荷も大きい。こんなのを何回も真正面から受けてたら、いずれ体力を削り取られちまう。
だけどこいつはきっと、“双界の覇者”なんて名前に足るなにかを秘めているはずだ。その手の内を見るまでは、強気に攻めるわけにも――
「――いや、耐えてばっかじゃ勝てねえぞ……!」
三度とぐろを巻くラギアを一瞥し、オレは耳抜きをしながらまっすぐ水底に向かった。
“エリア8”の水没部分は概ね水深二〇メートル。“エリア6”からの水が運んでくる泥のせいで、他エリアの水深よりずっと浅い。乾期には“エリア3”への泥の流出がとまり、水没箇所がなくなってしまうくらいなんだから、仕方ない。
ラギアはその白い巨体をオレに向け――なかった。溜めた力を解放するようにとぐろをほどき、西側へと身をくねらせて位置を動かした。
当然だ、あの勢いでオレを狙えば、そのまま水底に顔面から激突しちまう。高低差と広い空間がない“エリア8”の水中なら、位置関係によって突進を封じられる。
つまり、頑強な棘を備えたムチにも似た尻尾と、中型低脅威動物さえ一撃で引き裂く爪と、まだ見ぬ何らかの攻撃手段に気を付けて、接近できれば勝機はある!
そうと分かれば武器を回収するまでもない。
オレは右前腕の大盾に気を付けながら右手で剥ぎ取り用のナイフを抜き、治まりきらない砂煙の中、ラギアへ向かって水を蹴る。
このまま一気呵成に攻め込んで、こいつの手の内をさっさと暴かせる! それで早くマーキたちのところに――
――ぼこん、と空気の音が響いた。
ラギアの甲殻に覆われていない箇所に目を向けていたオレは、しかしその変化を見逃さなかった。
首を左右に振ったラギアの口元から、空気の塊が漏れて水面へと向かったのだ。
息を吐いた?
いや、それなら息を吸いに水面へと顔を出すはずだ。水深が浅いこのエリアで、咆哮の時のように簡単に水面に頭を出せる位置にいるのだから、そうしない理由はない。
そんなことを一瞬頭によぎらせたのが、運の尽きだった。
全然違った。
勢いよくラギアが頭を突き出した瞬間、空気の中でなにかが光ったのが見えた。それは輝く球体となり、少し先の水底に回転しながら接触し――
――砂が一瞬で吹き飛び、剥き出しになった平らな石畳で青白い光が弾け、巻き上がった砂の間を光と音が駆け巡った。
勢いを付けて前進していたオレの身体はその現象に飛び込んでしまう。
咄嗟に大盾を突き出すも、上下前後左右から全身に鋭い痛みが食い込んだ。
「くあ……ッ!」
口から空気が漏れ、慌ててマウスピースを噛み締めて空気を出しながら、それでも慣性で前進しようとする身体をとめようとして、だけど両脚の方々の突き刺す痛みがオレを苛む。
(この痛み、まさか――)
呟く視線の先でラギアが頭をひねり、口から泡を漏らす。
その泡の中に、先ほど消え去った光が見えた。
青白い光――放電。
「――雷を吐いてやがる!」
そう叫んだ時には、ラギアの口から吐き出された雷――電気の塊が、まっすぐオレに向かっていた。
一発目で感覚を掴んだか、二発目の狙いは正確。
思考する前に痛む脚で水を蹴り、突進のリスクを覚悟で水底から離れることを選ぶ。
雷球の直撃から逃れたオレは背後を振り向き、可能か不可能か、砂煙に複雑な放電を刻む放電に大盾を向けた。
が、砂を経由した雷は平然と盾を迂回し、音を立ててオレの足に――ブーツの皮を固定する磁鉄鉱の留め金に集まり、オレの身体を水の只中に弾き飛ばす。
(しまっ……!)
水の屈折率の変化と共にラギアの白い巨体が視界を覆い、オレは盾を構える間もなく、砂煙のもうもうと巻き上がる水底へと叩き付けられていた。