● 水没林の桜 ― その結果
たくさんの轍が刻まれた山道を登り切り、“エリア7”に辿り着いた時、オレの身体は酸欠に近い状態になっていた。
それでも、最後のカーブの崖に数秒間だけ背中を預け、それだけで行動を再開する。
マーキとガノトトス希少種はきっとここにいるんだ。
レイアを討伐したマーキも、外敵がいなくなってのんびりしているガノスも。
顎を上げて、雨だか汗だか分からない液体で顔を濡らして、オレは“エリア7”に入った。
誰もいなかった。
「……なんだ?」
数時間前に投げ捨てたバックパックを拾い上げ、背負い直す。
周囲に注意を配ることも忘れて、流れる水に逆らって、崖の方へと歩く。
“エリア6”へと落ちていく二つの滝に挟まれた、泥の固まった地面へと。
マーキが勝利宣言をして、小タル爆弾を爆破させて、決着がついた場所へと。
もうずいぶん前のことのように思える。
桜色のレイアの死骸はなかった。
息が荒くなる。
おかしい。
今頃ここには、マーキや大勢のアイルーに解体された、“陸の女王”の死骸があるはずだろ?
それをガノスがつついて、マーキも持ち帰る肉を剥いで、オレを待っててくれてるはずだろ?
オレは二人と合流して、『腹減った』ってぶーたれながらベースキャンプまで戻るはずだろ?
それであのブチ柄アイルーに焼いてもらったレイア肉で、ちょっと早い夕食にするはずだろ?
どういうことなんだ?
場所を間違えたのか?
いや、痕跡はまだ至るところにある。七色に光を反射する油の残された地面、焦げた下生えや焼け落ちた木の枝、煤や灰の湿った匂い、そして……。
血と肉の気配。
反射的に、数時間前の光景が思い浮かぶ。
切断された左腕。
貫通した授乳器。
咄嗟に口を押さえた。
膝を折って、地面に片手をつく。
なにも出ない。胃液さえ出ない。
体力の低下はダメだ、とオレが食い止めている。
えずきを押さえ込んで、瞼を強く閉じて――
――瞼を開けた時、その方向を見ていた。
視界には、最初から入ってた。
水流からはみ出した、“水竜”の鱗を繋ぎ合わせた防具が。
「ああ」
這いつくばって動き出し、立ち上がり、泥をこするように川に入り、流れに負けたくなる身体を引き摺って進む。
マーキは横たわっていた。
“エリア7”の北側を流れる川の中程、川底で光を反射する大小様々な鱗の真ん中で。
下顎から腿の上側まで、身体の半分を失い、アバラと背骨を晒して。
左腕は上腕の途中から切断されて、右手首は爆風の焦げ跡を見せて。
血を抜かれた桜色の筋肉が、ただ、濁った水の下で揺らめいている。
そうだろうな、と思っていた姿だった。
今度は平静だった。
「ああ」
オレは顔を上げ、再度周囲を見回す。
ちょうど遠くの方で、三〇人くらいのアイルーが荷車を引いて、あるいは押していた。
山道にたくさんの轍を残した原因だろう、大きな荷車に載っているのは、長さ一五メートルはある大きな脚。
魚類に近い鱗に覆われた、太くて逞しい、ガノトトス希少種の脚だ。
マーキへ目を戻し、彼の周りに残された大きな鱗の一枚を拾い上げる。
元は油に濡れていた鈍色の鱗は、強力な力で噛み砕かれ、今は無残な切断面を晒すだけだ。
そうか、お前はレイアに食われて、解体されたんだな。
だからマーキは、内蔵を食われるだけで済んだんだのか。
でも、マーキのトレードマークだったヒゲは、ほぼ完全になくなっている。
半開きの目と鼻筋だけじゃ、その面影を思い出すのも難しい。
口がないから表情も分からない。
彼が負けた瞬間、どんな感情を覚えていたのか、分からない。
負けた?
負けたのか。
「負けたのか、お前らも」
二人に対してもその言葉を呟き、顎をあげた。
曇天から落ちる雨にオレの汗が混じった液体が、顔を濡らす。
クエストのキーマンだったマーキ・パラオは死んだ。
保護対象のガノトトス希少種も食われた。
あの炎に包まれた水没林で、オレが先走ったせいで。
クエストは失敗。
つまり、オレは死刑だ。
アイルーから失敗の報告が届き次第、ギルドの連中がやってきて、オレは処刑される。
でも、なんだかその事実は、とても遠くに感じられていた。
父親みたいな仲間と、大きくて熱い奇妙な連れが、永遠に失われた。
それがこの現実に、蓋をしている。
どう感じていいのか、分からない。
愛人との密会をオレに目撃された父親が、二人一緒に心中した時、なにを思った?
オレを匿い“仕事”を斡旋してくれた男が、がさ入れに来た警官に殺された時は?
オレの行動が誰かに死をもたらした時、オレはなにを感じていた?
“恥”。
今オレは、それを感じているのか?
分からない、でも――
「ああ」
――雨だか汗だか分からない液体に、たぶん、もう一種類の液体を混ぜて、オレはまだ曇天を見上げている。