なんの予備動作もなく、レイアが火球を吐き出した。
僅か七メートルの先にいるオレは、ガードせず回避する。それが布石だと分かってるからだ。
思った通り、その火球を追いかけるようにレイアが右足を踏み出した。突進がくる。
チャンスだ。突進を受け流すスタミナを都合できれば、十分に距離を離して仕切り直しができるし、痺れた右腕のクーリングもできる。
オレは大盾を構えてレイアの側面へ回ろうとして――
「ッぷぉ!?」
――風圧と水飛沫をもろに浴びた。
いつの間にか、レイアは星空を切り取って舞い上がり、同時にその羽ばたきでオレをなぶったのだ。
でも突進を警戒して大盾を上げていたことが功を奏し、オレはなんとか踏み留まっている。落ち着け、まだチャンスだ。レイアがバックジャンプをすれば、どっちにしても一旦は距離が開けられる。その間に体勢を立て直して――
「――え?」
大盾を向こうの光景に、目を疑う。
巨大な影が、オレ目がけて落ちてくる。
バックジャンプじゃない、レイアは突進の勢いのまま飛び上がって蹴りをかましてきた!
「うおおお!!」
強固な鱗で覆われた足が迫り、オレは不安定に掲げていた大盾で、辛うじて踵の爪を受けた。
レイアの全体重がオレの大盾にかかり、革のブーツが地面にめり込む。
(なんだこいつ、さっきとは動きが全然違う!)
柔らかい腹を晒しての攻撃なんて、これまでしてこなかったのに!
これならブレスで転けてた方がよかったか!?
「いや、受け止めてやるッ……!」
この綱引きに勝てば、マーキがロアルを引き倒したように、大きなチャンスになるはずだ!
攻撃に転ずるべく左腕のランスに力を込め、凄まじい重量で食い込む固定具のベルトに耐える。
が……踏み潰す大型“モンスター”を押し返せそうな感触は、微塵もない。
やがて骨が軋む音が右肩から耳に駆け上ってくると、オレは自分の判断がミスだったことに気付いた。
だけど逃げようにも、下手に脚を動かせばそのまま潰される。
全身から噴き出した脂汗が夜風に冷え、身体の操作さえ覚束ない。
(クッソ、無理か……!)
ランスの重みを左手に移し、わざと膝のバランスを崩した。
大盾と爪の間で火花と異音が散り、それに眉をしかめながら、水に濡れた地面になんとか逃れる。
オレという支えを失ったレイアはそのまま地面をこするように飛んでいく。
オレは右半身と背中の痛みに声を上げる余裕もなく立ち上がると、レイアに向き直る。
空中で旋回したレイアは、オレに向き直る。
夜に沈むようにゆっくりと高度を下げながら、オレに向き直る。
「体重もパワーも……やっぱお前の勝ちだな……」
彼女はその怒りにかられた蒼い目で、オレを睨み付ける。
口の炎と、牙と、翼と足の爪と、尻尾と、全ての武器と同時にもっとも脆弱な腹を見せつけて、オレを睨み付ける。
逆鱗に触れた。
オレは改めて、鳥肌を立てた。
あの“凄腕ハンター”は言った。『オレの勝ちだ』と。
それは本当に、その通りの意味だったんじゃないか?
子供でも知っていることだが、ある程度の大型“モンスター”には、それぞれ触れてはいけないとされる部位がいくつか存在する。種類や部位によって“○鱗”“○玉”“○魂”などと呼ばれているが、もっともオーソドックスな“逆鱗”が代表とされることが覆い。目上の人の怒りに触れることを、“逆鱗に触れる”なんて言うこともあるくらいだ。
レイアの逆鱗は、後方に流れる甲殻の中で唯一逆向きに付いた、授乳器じゃないか?
オレがそう思い至ったのは、子育てという授乳器の用途からだった。
武器にもなる堅さと鋭さをもった授乳器だけど、顎の下から単独で張り出した細く脆弱で無防備な部分でもある。事故か戦闘か生まれつきか、様々な要因で異常な形状を獲得してしまうことがあるはずだ。
正常な授乳器を備えた個体は、奇形の子供を産む危険性が少なく、また、それまでの人生における危機を乗り越えてきたことから、子育てを任せるに足る雌だと証明するバロメータになり得る。
だから、触れられたら怒る。
正常な授乳器を持たない個体は、将来がないからだ。子を任せられない個体と分かれば、“雄火竜”リオレウスは見向きもしないだろうし、武器を鈍らせた個体と知れれば、外敵の圧力は強くなる。その変に転がっているフロギィの死骸みたいに。
命を受け継がせられないレイアに、“陸の女王”なんて称号は相応しくない。
それは、ただ自分の身を護るために、一人世界に抗うだけの、“桜火竜”だ。
マーキは彼女の逆鱗に触れ、女王の威厳をほんのちょっぴり削り取った。
彼女に“恥”をかかせた。
それだけで、彼女を生物として殺した。
その推測に達した時、オレのミスを自身の命で挽回したマーキに、鳥肌を立てずにはいられなかったんだ。
レイアは口から炎を見せたまま、踵で土と水を巻き上げて着地した。
残っていた僅かな希望を――逆鱗を根こそぎ奪った“ハンター”の、目の前に。
「お前も、オレと同じなんだな」
マーキが死んだ瞬間、クエスト目標とは関係なく、レイアは未来を失った。
今のオレが、“エリア7”を追い出された時のオレとは違うように。
今のレイアは、“エリア2”でオレと戦闘した時のレイアとは違う。
ほんの少しの親近感と共に、後悔する。
オレはこの、“今のレイア”を見なきゃあダメだ。
ガスの匂いが鼻を突く。
ブレスがくる。
瞬間的に周囲の位置関係を探る。正面にレイア、背後に“エリア9”への道、右には大岩。
レイアとオレの距離はさっきよりずっと近い、三メートルもない。一歩近付いて顔面を殴り飛ばして封じるか? それとも岩の陰に隠れてやり過ごすか? いや――
(ガスはオレの方に撒けてねえな)
――レイアは突進や後退動作と織り交ぜて広範囲にガスを散布し、ブレスで誘爆させてる。今回その余裕はなかったんだから、ガスが撒かれているのはむしろレイアの近くだろう。あいつは自分に爆風が及ぶのを覚悟で、俺を誘ってるに違いない。
(なら、下がるが吉だ!)
今のオレに必要なのは右腕の休息だけど、それ以上にレイアから目を離すわけにはいかない。バックステップでレイアから離れ、なんとか大盾を構える。
レイアの口から炎を吐き出し、それが地面に炸裂し、視界を覆う爆風の橙色を大盾で堪え――
――“前に”吹っ飛ばされ、地面に顔を押しつけた。
爆圧を食らった?
なんで後ろから!
スーツの背中で燻る高熱でそう気付き、ランスを手放して浅い水たまりの上を慌てて転がる。
火が消え、焦げ臭さを漂わせたまま仰向けになった時、月を食らうようにレイアの顔面が現れる。
「マジかよ」
火球が打ち出され、オレがいた場所で爆散、側転して直撃を避けたオレは爆風に煽られて数メートル吹っ飛ばされた。
ああ、跳び蹴りを食らった時、オレとこいつは交差してた。
オレを押し潰せればベスト、無理でも空中に散布したガスで奇襲ができると思ったのか……!
水たまりでワンバウンドし、それでも右腕でバランスを取って立ち上がる。
ランスは遥か遠くにあり、レイアの顔面は文字通り目と鼻の先にあった。
二発目の火球を吐き出すレイアの顔面があった。
口を鳴らす余裕はなかった。
真正面から受けるしかなかった。
大盾の中央で炎が弾け、尖ったヒレの先端から吹き上がるように散っていき、オレはその熱量と衝撃を右腕だけで受け止めた。
頭が破裂しそうな痛みがこめかみに走り、受け止めきれない炎が素肌の方々に火傷を残し、それでも右腕しか使わなかった。
左腕は、こいつにオレを叩き込む腕だ。
マーキに教わった、武器を振るう腕だ。
ここで消耗するわけには……!
火球の残滓が消え去り、冷たい夜が戻ってくる。
満月の光と、レイアが漏らす炎だけが、静かな空き地を照らしている。
「クソ……無理か……」
激昂したレイアが吠え、ガスの匂いのする唾液と息がオレを汚す。
レイアの猛攻を受け止めきった右腕は、だけど完全にオーバーロードしていた。
上腕も前腕も酷使しすぎて、もう持ち上げることもできない。
苦笑さえ浮かぶ。
どうしろって言うんだよ。
ああも接近からの猛攻をされたんじゃ、スタミナを意識した立ち回りなんて無理だろ。
オレはマーキになれないのか。
だらんと垂れ下がった右腕の先で、水たまりの月が波紋を飲み込んで輪郭を取り戻し、だけど満月は俺の顔に破られている。
その泥だらけの顔が言う。
「立ち止まってたら、マーキのところには行けねえぜ」
水たまりを散らしてバックステップを踏んだ。
数瞬前にオレがいた場所で、鋭い牙を備えたアギトが音を立てて閉じた。
牙で火花が散り、周囲のガスが瞬間的に燃え上がる。
まだだ、シェイム。
まだオレは、シェイムは、マーキに生きろって言ってる。
ランスのなくなった左手で、剥ぎ取り用ナイフを抜く。
指一本でも動くなら、死ぬ前に鱗一枚でも剥いでみろ!
ガスの匂いが充満する。
その中に飛び込む。
レイアが一歩下がり、牙を鳴らす。
ジャンプで数メートルの距離を詰め、片手剣のようにナイフを振り上げる。
炎が吐き出され、爆発が始まり――
――きゅぼ、と。
気の抜ける音と共に、オレの身体が真横に吹っ飛ばされ、数瞬後に柔らかい毛にキャッチされた。
ああ、お前はまたそう言う登場の仕方をするのか、と笑い、暗い闇の中に吸い込まれ――(1)―→