● 初めての世界
空が一気に開ける。
一瞬、上下感覚がなくなる。
黒く黒く広がる闇の中に、無数の輝き、一つの大きな丸い月。
眼前の世界で煌めく光がまっすぐ迫ってきて、まっすぐ通り過ぎていく。
自分が属していた大地が、月のある方にあったのか、ない方にあったのか、よく分からない。
上に放り出され、下に押しつけられ、それでもただ拠り所である桜色の翼にしがみついている。
桜色の翼に付着したガノスの油は、滑るどころか冷えて強力な粘性を発している。
オレは自分が、あのゼッパーと呼ばれた小型飛行船の、オリジナルに乗っていることを意識した。
限界まで細めた目で、夜の空を見つめる。
鋭い風が革のスーツの全身を叩き、耳介の中で渦を巻き、なけなしの体温と、聞こえるはずの音を奪っていく。
それでも、オレは自分の顔を覆いたいとは思わなかった。
これが、オリジナルの見ている世界か。
あの時の空は、オレのものになったのか?
あの夜の色は、オレのものになったのか?
レイアの翼膜は空気を舐め、ビリビリと小刻みに振動している。
オレが掴まっている上腕は、羽ばたきのたびに収縮と弛緩を繰り返す。
ピンと伸びた尻尾が舵を取るように上下に曲がり、そのたびになにかの液体が飛んでいく。
オレの数十メートル下を流れる黒は、水没林の木々だ。
煌めく光は、濡れる葉に反射する月光だ。
オレはまだ、重力に縛り付けられている。
まだだ。
なにもかもまだ、オレのものじゃねえ。
そのための“手順”をまだ、終わらせてねえからな。
オレはおもむろに左手で剥ぎ取り用ナイフを抜き、レイアの甲殻の隙間に刺し入れた。
レイアが叫び、上昇に転じてストールする。
その瞬間、彼女は首を動かしてオレを見て、意外そうな目をした。
「おいおい、オレが乗ってるって気付いてなかったのか?」
オレの重さを、翼を振る自分の体力のなさと勘違いしてたのか?
そうだったらかわいいな、こいつ。
梃子の原理でナイフを動かすと、ばきん、と甲高い音を立てて甲殻が夜に飲み込まれていく。
桜色の甲殻の下から、桃色の筋肉が露わになる。
レイアは叫び、宙返りし、翼を畳んできりもみ状態で急降下に入った。
急降下?
大地に登っていくのか、空に落ちていくのか、奇妙な錯覚。
力を入れすぎて白くなった指で身体を固定し、甲殻を失った筋肉まで、ナイフを握った左手を動かしていく。
オレを振り落とそうとしてるのか?
意地でも降りねえぜ。
最後まで、お前の世界を見てやる。
ナイフを緊張した筋肉に突き刺し、びくり、とレイアの右翼が開いた。
途端、きりもみ降下はコントロールを失い、落下速度が落ち、レイアのどこかが木に触れた音がして、オレたちは空に弾き飛ばされた。
翼を広げたレイアが空気を掴み、滑空を再開できたのは、運だったのかもしれない。
レイアが首を曲げてオレを見た。
炎を吐くのを諦める代わりに、彼女は月光を浴びた蒼い目で、『死ぬ気か?』と問うていた。
「いやお前、オレがデートしたくてついてきたわけじゃねえのは、分かってんだろ? オレはお前が食いてえんだよ」
彼女の傷口に刺したままのナイフをえぐり、筋繊維を引き裂き、小さな切片に引き千切った。
レイアはまた大きくバランスを崩し、オレたちは水面を切る石のように、木々の梢の上を跳ねて行く。
まずかったかも、とオレは苦笑し、レイアの翼にしがみついたまま、ナイフに引っかかっていた生の肉を口に含んだ。
レイアを受け継ぐ、そのための準備をした。
(こりゃその前に、オレが死ぬかもな……!)
予測したように、オレの身体がレイアから離れた。
オレは大盾を正面に構えて、全身をなぶっていく木の枝と葉と空気に耐え、そこをすっぽ抜け、木々の間に覗く、細い溝のような空間に落ちていき――
――ああこれ、アレに似てるな。
ガキの頃に一度だけ食った、オレが探し求めてる、ガノトトスの大トロに。