「チッ!」
舌打ちしたマーキが水たまりから飛び出す。
ロアルは頭の周りのタテガミを逆立て、口から毒混じりの水を散らしながら威嚇した。もうペッコ亜種の時のような奇襲は期待できない。
「やっちまった……!」
オレは自分の失敗に歯がみするが、その気持ちを振り払うように右手で片手剣を抜いた。
オレも三年近く“モンスター”とやりあってきたキャリアがある。
奇襲に失敗したなら、真正面から勝てばいい!
やってやる!
ロアルが頭を引き、三メートルばかりの距離にいるオレに向けて、毒の塊を吐き出した。
唾液に混じった赤紫色の液体を小盾で弾き、その衝撃に左腕をしびれさせながらも前転でさっと接近、立ち上がる勢いで剣を振り上げた。
顎下の襟巻きに“眠狗竜”の刃が食い込み、海綿質の断面が一瞬見えた。だけど浅い上に、刃は顔の右側のタテガミでとめられてしまう。さすがに『レムオルニスナイフ』では通用しないか。
そう考えながらも、振るわれたロアルの太い右前足に、身体は反応している。
赤紫色の爪と、その軌跡を描くように飛び散る毒液を、飛び越えるように回避。
着地と同時に、戻ろうとする腕に向かって刃を突き出す。
だがこれもダメ、ロアルの肘に密生する、爪のような赤紫色の突起に阻まれ、肉まで届かない。痺れて取り落としそうになった剣をなんとか掴み直し、尻尾側に抜けるように転がった。
このままバックをとって、追い込めるか!?
ステップからの跳躍、振り上げた逆手の片手剣を、首筋に振り下ろす。
だがその動きは読まれていたか、ロアルの巨大な頭部が、ぐい、とこちらを振り向いた。
振り向いただけだ。だけどオレの脇腹にぶつかってきた衝撃は半端じゃなかった。
オレは剣を振り下ろすことさえ忘れ、柔らかい襟巻きに挟まれた衝撃で海綿からあふれ出した液体を頭からかぶり――
「レシオ、一度下がれ!」
――マーキの声と同時にロアルが悲鳴を上げ、身体が解放されたことに気付いた。
追いついた彼が攻撃を加え、拘束を解いてくれたのだろう。
浅い水たまりに落ち、バランスを崩して両腕をついて、ギョッとして身を起こした。周りの水たまりはもうどれも淡い紫色に濁り始めて、無事なところなんてない。
「マーキ、どうすんだ、ここでどう戦う!?」
口に入った毒液を吐きだし、回ってくるだろう毒に危機感を抱きながら、マーキに叫ぶ。拘束による怪我は、幸いにして海綿体部分だったためになかったが、紫に染まる革装備は、手で払う程度じゃ綺麗にならない。
「よく見ろ! ビビる必要はない!」
「ビビってなんか!」
オレの声にかぶせるように、毒の液体がポタポタと落ちてきた。振り返ると、ロアルは右腕をあげて上半身を大きく起こし――オレを見下ろしている。
やばい!
直感的に理解し、立て直しきってない身体で無理矢理ロアルから離れる。
そこに、どん、とロアルの身体が横倒しに落ちてきた。
圧縮された襟巻きから毒液が飛び散り、それを避けるために前転回避して、だけど緊張は維持。
あの勢いは、横倒しになるだけじゃ止まらないはずだ。
思った通り、ロアルはそのままオレの方に転がってきた。水辺で“ふん”を落としていたように、海綿質の襟を大きくたわませ、水たまりの水と毒の混じった水を交換しながら。
回避直後のオレは、それを驚きの視線で眺めながらも考える。
頭側への回避は距離的にギリギリだ。尻尾側へはまだ余裕があるけど、ちょうどその一体には紫色の水たまりがあり、そこに回転回避したら、尻尾は避けられてもただじゃ済まないだろう。
ロアルは細い下半身から大きな襟巻きと腕を持つ上半身と、円錐型の身体をもっている。だから回転は尻尾を軸とした扇状になるはずだ。
なら、多少ギリギリでも頭側に逃げるべきだ!
土を蹴り、武器を傷つけないように肩から回転し、息を切らして振り向き――
――後悔した。
前足か後ろ足か、海綿体の膨張具合か、どうやってコントロールしたのかは分からないが、ロアルの回転角度はまったくの正反対だった。頭を軸に、斜め前方向へと転がってきていたのだ。
咄嗟に左腕の盾で頭をかばい、だけど意識は、ロアルの重量を支える筋力も、受け流す体力もないことを理解していた。
潰される!
と、ロアルの身体がびくんと引っ張られるようにとまり、次いで牙だらけの口から奇声が漏れた。
「一度引いて観察しろ! 聞こえないのか!」
「でも!」
観察!? 今以上になにをどう観察しろっていうんだ!?
めしめしと骨と筋肉のきしむ音が聞こえ、ロアルの身体をマーキが縫い付けたらしいことが分かった。横転のエネルギーはそのままロアルのダメージとして返ったんだから、こいつの痛みも尋常じゃないだろう。
「水たまりは気にするな!」
言われ、ふとオレは自分の身体を見下ろした。たしかにぶっかかった液体は紫色だが、それがオレの身体になにをどうするでもない。もしかして、こいつの毒性って人間には無害なのか?
マーキはランスを引き抜き、改めてロアルの左側面を突いているようだった。下半身は全体的に柔らかいようで、オレと同程度の硬度の武器にもかかわらず肉は易々と貫かれ、そのたびにロアルは身体を揺すって痛みを訴える。
すぐにロアルはターゲットをマーキに切り替えた。オレから背を向けるように方向転回したことで、ロアルの左後ろ足が大きく引き裂かれ、毒液とは違う赤黒い血が噴き出しているのが分かった。
それでも痛みに耐えるのか、ロアルは口から毒の液を迸らせて大きく身を起こすと、突進を始めた。滅茶苦茶に毒の混じった赤紫色の唾液を吐きながら、淡い紫色の水たまりを泥を前足で盛大に跳ね上げ、マーキに迫る。
オレは武具を拾い上げると、左方向から回り込むように走る。
マーキはどう避ける? 彼の左手には水深一〇メートル近くに水没した広い水たまりがあるが、そこにも毒の液体が混じり始めている今、安全圏とは言えない。右手――つまりオレが走っている方に避けるのが定石だろうが、先ほどのオレにそうしたように、ロアルは両サイドへの攻撃手段もきちんと備えている。単に避けるだけじゃダメだ。
なら、オレがフォローに入らないと!
けど、マーキはどちらにも避けなかった。
真正面からロアルを受け止めた。
首の下に入ったマーキは、顔面を持ち上げるように大盾を襟巻きに押し当て、ロアルの重量とスピードに両脚で泥を巻き上げながら、それでも抗っている。
オレはやることを見失い、たたらを踏んだ。
マーキの『アクアンスピア』に付属する右手の大盾は、片手剣の小盾と比べて“大”であって、お世辞にも大きいとは言えない。腕全体をカバーできる程度だ。
その上“水竜”を素材とした彼の装備は、身体の線をくっきりと出す外見が示す通り、外圧によって内臓機関に働きかける性能だ。“土砂竜”などの装備がもつ、ガードの効果をブーストするための変形機構もない。
なのに、ロアルの動きは目に見えて落ちていた。
マーキはパンパンに膨れた自分の筋力と、それをコントロールするバランス感覚と精神力で、相手をねじ伏せている。
つまりこれは、純粋にあの肉体だけでもたらした行動なのだ。
「レシオ!」
ヒゲを振り乱して発された声に、ほとんど止まっていた足に意識を向け、慌てて走り出した。
マーキはロアルを受け止めたが、それで勝てるわけじゃない。状況を動かすには、“凄腕ハンター”じゃないオレの力も必要だ!
片手剣の柄を右手で握り直し、ロアルの襟巻きと胴体の付け根あたりに突き立てる。
もう無様に土をひっかくことしかできなかったロアルは、その痛みで完全に体勢を崩す。
「うしゃあ!」
気合一発、マーキは身を返すと同時にロアルの襟を掴み、かろうじて残っていた突進の勢いを活かしてそのまま横倒しにした。
「ヒュウ! やるぞレシオ!」
「ああ!」
オレは引っ繰り返ったロアルの腹に乗り上げると、片手剣を逆手に握り、海綿体を撫でるように斬りつける。薄く薄く、襟を引っぺがすように刃を滑らし、そのたびにロアルが声を上げる。
ロアルは身もだえるも、身体を元の位置に戻せない。転がる時と違って反動がついてない状態だし、オレが上に乗っているから、ちょっとやそっとじゃ動けないはずだ。
「おい、気を付けろよ!」
「心配すんな!」
マーキはマーキでランスで頭を貫こうと頑張っているが、大きく動く頭は鋭い牙を小刻みに噛み合わせているから、狙うのも押さえ込むのも難しいようだ。
海綿体の毒液が無害って分かれば、もう怖いもんはない。
オレが襟巻きを全部削り取って、刺身にして食ってやる!
『レムオルニスナイフ』を襟巻きに深々と突き立て、テコの原理で刃を大きく動かすと、淡い紫色の襟巻きの断面がくっきり現れ、その向こうから毒々しく濃い赤紫色の液溜まりが見えた。
主要な静脈がある証拠だ、そいつを切れば――
「うわっ!」
――その液体が音を立てて吹き出した。
咄嗟に目は閉じたものの、顔面にかかった液体に驚き、バランスを失ってよろめいた。その拍子にグンニャリした海綿体を踏み外し、前か後ろか分からないがオレは落っこちてしまった。
「レシオ!」
マーキの声がして、オレの身体が冷たいなにかの上で弾む。
そのさして大きくない衝撃に、顔と喉を刺すような痛みが走り、オレは声にならない声をあげた。地面を踏んだ踵の補強材からの振動も、膝関節が鳴るポキッとした音も半端じゃない痛みに変わる上に、茂みに突っ込んだ顔を襲う痛みは尋常じゃなく、意識さえ飛びかけるほどだった。
「なんだ、これ」
呟いた言葉にも、喉が潰れそうな錯覚を覚える痛みが混じる。
え……毒?
脇腹に鈍い衝撃がして、右頬を濡らしていた草が反対に移動した。
その一つ一つに痛みを覚えて息ができなくなる。マーキに蹴飛ばされて、ブッシュに転げ込んだのか。
息を一つ吸おうとするたびに、胸に痛みが走る。腕は動く。脚も動く。頭も働いてるし、たぶん声も出るだろう。だけど、とにかく痛い。心臓が脈動するたびに、雨粒が落ちるたびに、痛みが全身に散っていく。
クソ、さっきは毒液を浴びても毒なんてなかったじゃないか。なんであんなタイミングで急に……!
南西方向、ところどころはげ落ちた海綿体を巻いたロアルが、ようやく身を起こしたのが見えた。
「こっちだ、ロアル!」
大盾をバンバンと叩きながら、マーキがオレの視界から離れるように動いていく。
オレからロアルを引き離そうとしてるのか?
「マーキ……」
『よく見ろ』だって?
見てたよ、水たまりもあいつも毒々しい紫色で、でもそれは気にするなってマーキが――
ああ、まさか、色か?
――気にしなくていい毒と、気にしなきゃいけない毒があるのか?
なんだよ、最初からそう言ってくれりゃあ……。
支給された解毒薬はバックパックの中だが、それは少し離れた木陰の水辺側においてしまった。ポーチに入れていれば、今頃毒の痛みから解放されてるはずなのに。
それでも、そこに向かうしかない。
息をとめて痛みをこらえながら、腕で這いずるように進み、木の幹へと手を延ばす。バックパックの頑丈なバンドが、こちらを向いている。
はやく復帰して、マーキと合流してロアルを始末しなきゃ――
ぼん。
――と遠くで小さな音がして、その方向を見たオレは思わず息をのんだ。