一月三日。冬休みが終わり、会社が再開した。
「うわっ、さむ」
久しぶりに家の外に出たら、一月の冷たい空気が体を引き裂くようにまとわりついてきて、思わず声に出てしまう。
「こりゃ、今日はバイクはやめといた方がいいな」
そう決意するとすぐに駅に向かって歩く。寒いと、ついつい早歩きになってしまう。どうやら昨日少々雪が降ったようで、道をうっすらと白く染めていた。これはまた数日はバイク通勤は無理そうだ。
駅に着き、改札を抜け、ホームに出ると、同じく通勤目的のサラリーマンたちが電車を待っている。これまではいつも通りの光景だが、ただ一点、いつもと違うところがある。時刻表のあたりで、自分のメモと時刻表を何度も見比べて泣きそうになっている女の子がいるのだ。十九の俺より明らかに若く見えるので、高校生くらいだろうか。
「どうしょば…。どうしょば…」
何やらブツブツ言っている。間違いなく困っているようだ。しかしサラリーマンたちはその姿を尻目に、足早に去ってしまう。薄情なものだ。結局、俺が声をかけることにした。
「あのー、どうかしましたか?」
「ひゃあっ!」
体全体を震わせて、びくりとする。
「あのー」
「な、な、な、なんであうか?わひゃし、なにかし、して…」
「え、いや、なんか困ってる風だったので、なにか助けになればと…」
「…」
こちらがやって来た目的を告げると、今度はものすごい警戒する目で睨んでくる。
「ほ、本当に、なんですか…?わ、私が田舎出だからって、弱みを、に、握って…」
「いやいや、そんなつもりないよ!ただ、本当に困ってる感じだったから…。迷惑だったら、何もしないよ」
「…」
「じゃ、じゃあ、頑張ってね…?」
頑張ってね、はさすがにおかしい気がするが、他に何を言えばいいのやら。とりあえず、会社にでも行こうとした時、
「あ、あの…」
この子が声をかけて来た。
「な、なに…」
「あ、阿佐ヶ谷に行きたくて…。でも、メモの通りに進んでも着けなくて、いつの間にか迷ってて…」
「阿佐ヶ谷に?阿佐ヶ谷なら、俺の会社があるけど…よかったら一緒に行く?あそこの地理なら大体わかってるし…」
「…」
「あー、わかった。じゃあ、行き方教えるから」
「お、お願い、します…」
「…うん」
どうやら人と話すのが苦手な子らしい。ともかく、話が付いた直後に阿佐ヶ谷行きの電車が来たので、乗り込むことにした。
「東京初めて?」
「…はい」
「どっから来たの?俺は愛知の岡崎ってところ」
「…新潟です」
「新潟かあ。やっぱり日本海側だから、雪は多いの?」
「…いえ、そんなに」
「…えっと、こういうことあんまり聞かない方がいいと思うんだけど、年は?」
「…十七です」
「……」
会話が続かない。目も合わそうとしない。やはり人見知りのようだ。しかし、こんな重度の人見知りの子が、一人で東京に来るだろうか。見た所、インターネットに接続できるものも持っていないようだし、何かしら理由があるかもしれない。
無言の時間がやたらと長く感じられて来た時、阿佐ヶ谷に到着したことを知らせるアナウンスが流れた。
「あ、着いたよ。じゃあ行こうか」
「…」
俺とは別のお扉の前で待ってる。どうやらあ本気で警戒されているらしい。まあ、仕方あるまい。田舎から出て来た人間は都会の人間を不審に思うものだ。かくいう俺もそうだった。
「さあ、着いたけど、これからどこに行くの?場所によっては、送ってくけど」
「…」
彼女は無言で小さなメモ用紙を俺に見せて来る。そこには、こう書かれていた。
『イーグルジャンプ。ゲーム会社。阿佐ヶ谷にある』
「イーグルジャンプ…?これって、俺の勤めてる会社だけど…」
「…!」
彼女はビックリしたように目を大きくする。
「もしよければ、一緒に行こうか…?」
とりあえず、提案してみる。
「い、いえ。あの、場所だけ教えてくれれば…」
「そ、そう?」
ひとまずイーグルジャンプの住所を教える。
「じゃあ、これで。東京も、あまり捨てたもんじゃないよ。そんなに怖がらんであげてな」
「あ、あのっ!」
彼女が俺を呼び止めた。
「私っ、この会社に入りたくて!あのっ、あ、あいがとうございました!」
「…」
驚いた。こんな声も出せるのか。
「うん。俺も、君と働けたらいいなって思うよ」
彼女はそれっきり顔赤くして伏せてしまっている。いつまでも動かない。仕方なく、もう一度「それじゃあ」と言い、会社の中に入った。
結局、彼女は何者だったのだろう。
#
イーグルジャンプの一室。監督室。文字通り、ディレクターが使用する部屋だ。現在、イーグルジャンプにはディレクターの人間は一人、すなわち、葉月しずくしかいない。ディレクターという、ゲーム制作の中でもトップに位置する役職なだけに、ホコリひとつない部屋は広いし、デスクトップ等設備も充実している。ただ、一人では持て余す。ここにいれば大体のことができるのに、しずくがわざわざ別部署に出向くのは、単につまんないからだ。
葉月しずくの机には、彼女が撮りためた可愛い社員の女の子たちの写真がずらりと並んでいる。そこには当然、司の姿はない。その写真たちを見つめながら、しずくは考え込んでいた。
暇だなあ。
なんで集合を一月三日にしたんだろう。発売が八日なのに、特にすることがない。仕事も溜まっていない。要するに、結果が出るまで何もできないのだ。たとえ、結果が良くても、悪くても。
本日三回目のため息を吐く。別に、売り上げ十五万とか考えてない。ただ、本当にやることがない。他の社員も同じだ。やることないのに、なんで来たんだ、とか考えているだろう。特にやることも言ってないし、適当に時間潰して帰ってくれた方が…。
そこまで考えたところで、ドアがノックされた。
「ディレクター。よろしいですか」
声の主は樫井ミユだろう。
「ミユちん?入って入って」
「失礼します」
何も仕事がないとだらけきっていたので、いまいち気合が入らないが、なんの連絡だろう。樫井はやけに険しい顔をしている。
「…ディレクター」
「はい?」
「聞いても、驚かないでくださいね」
「…はい」
「予約で十万入ったっぽい」
「…はい!?」
#
出社した時にはもう九時を回ってしまっていて、さすがに怒られるかと思ったが、特にお咎めはなかった。というか、それどころじゃない雰囲気が社内にはあった。みんな、忙しく走り回っている。それは、忙しかった時のゲーム制作に似ていたが、一つだけ違う点があった。みんな、笑顔なんだ。
「本当ですか!?」
「ありがとうございます!」
「はい、今後ともよろしくお願いします!」
そんな声が飛び交っている。
「司くん!」
聞き慣れた声が耳に入ってくる。
「りん。よかった、ちょうどいいところに。こりゃいったいどうしたんだ」
「うん!私も司くんに言いたいと思ってたの!」
何やら興奮した様子だ。
「おう。どうしたんだ」
「あのね、予約がすごいらしいの!」
「すごいって?まあ、予約で六万もいけば万々歳らしいけど…」
「もっとよ!十万行きそうで…」
その時、りんのスマートフォンに電話がかかってくる。
「はい、もしもし…。え、本当に!?うん、うん!ありがとう!また連絡して!」
りんは輝かせた目でこちらをみる。
「十万突破だって!知らせてこなきゃ」
「あ、おい」
呼び止める暇もなく、りんは行ってしまった。しばらくして、隣の部屋から歓声が聞こえる。
予約の時点で十万本。一般的に見ても成功を示す数字だ。
信じられない。
一人立ち尽くしていると、近づいてくる人影が。
「葉月さん…」
「えーと…」
さすがの葉月さんも言葉が出てこないようだ。
「あ、よかったね。あの…ほら、残留」
「そっちこそ。俺を庇ってくれたの、回避できそうですね」
「あれ、あ、そっか」
「なんで忘れてんすか」
「まあ、ぶっちゃけどうでもよかったから」
そこから、二人とも黙ってしまう。周りはうるさいのに、俺たち二人の周りだけはまるでベールの中のいるように静かだった。
「…これで、新たなスタートだ。まだまだ終われないよ」
「新たな、スタート…」
「私たちは、これから伝説を作るんだ。私たちも戦いはこれからだよ」
「そんな打ち切りみたいなセリフ言わないでください」
「はは、ごめんごめん」
しずくちゃんは手を差し伸べる。
「また、頑張ろう」
「…うん」
その手を握ると、しずくちゃんの温かい体温が流れ込んでくる。その温みが、新しい一歩を踏み出すための勇気を与えてくれる。手を握る力を込める。俺のわずかな、小さな勇気が伝わるように。それは、俺が俺の夢を叶えて見せると、その宣誓だった。