「やがみ…」
頭が真っ白になる。熱い。ショートしそうだ。何も考えられなくなる。とにかく動かなければ。八神の元へ。早く。
「八神、どうした…?」
「…?」
肩を揺すると、八神が焦点の合ってない瞳を向ける。
酷い有様だった。血走った目。顔中にある涙の跡。腫れた頰。あんなに綺麗な、希望に満ちた顔をしていたのに。
「誰が…!」
歯をくいしばる。悔しくて悔しくて堪らなかった。守ると誓ったのに。終わったら、泣いてようが笑ってようが、三人で飯を食おうと、最後には笑おうぜと、約束したのに。
「おい八神!しっかりしろ!」
「みやまえ…」
「そうだ、俺だ!どういうことだ!なんでそんな風になってる!?」
「…これは」
八神は目線を床に向けると、
「…いいの。別に。気にしないで」
「そんなことできるか!まさかーー」
脳裏に先程の二人が思い浮かぶ。
「あいつらか!クソったれ…っ!」
「やめて!」
涙でいっぱいになった瞳に睨まれる。
「やめて…っ。これは私の問題なの。首を突っ込まないで!」
今までとは違う、明らかな拒絶。感じたことのないような負の感情に、思わずたじろいでしまう。
「もう、いいから…」
そう言って立ち上がろうとする。
「…?」
だが、うまくいかない。体に力が入らないのだ。
「あれ…?あれ…?」
何度も試みるが、足が動かない。ぽろぽろと涙が溢れ出た。
「なんで…?なんでよ…!」
「おい、八神」
手を差し出す。
「お前の言う通り、首を突っ込まない。けど、今は助けさせてくれ。正直…今のお前は、見てられない…」
「う…」
八神は、俺の手を取る。俺は、そのか細くて弱々しい手を、逃すまいとしっかり握る。
「ほら、立てるか?」
俯いてしまった。どうしようもないらしい。
「よし、じゃあ」
八神の手を背中に回す。
「え…」
「おぶってってやる。もう今日は仕事出来なさそうだし、早退しよう。な?」
返事も聞かず、引っ張りあげる。人間一人抱えているのだ、重いと思ったが、想像以上に軽かった。力を入れれば、すぐに折れてしまいそうな細腕。化粧で隠された濃い隈。こいつは、今までどれだけ無茶をしてきたのだろう。
「やだ…」
わがまま言うな。そう言おうとしたが、八神は脱力しきっている。耳を澄ませば、すうすうと寝息が聞こえる。安心しきったような表情に、少し救われた。
「あ、もしもし。遠山か?ちょっと来てくれーー」
#
目を開けると、自分の部屋にいた。
「…!?」
体を起こそうとする。なんだか体がだるい。動かない。
「おい、無理すんな。まだ寝てろよ」
どこかから声が聞こえてくる。どうやら、キッチンの方からだ。男の人の声…。
「!?み、みやま…」
「あー、だからいいって。あとで事情を説明するから。おーい、八神起きたぞー」
「え、うそ、ほんと!?」
ベランダからドタドタと足音が聞こえてくる。
「八神さんっ、大丈夫なの!?熱は下がった!?食欲はーー」
ま、待って…。
「待った待った。まだ起きただけでまだ話せる状態じゃないんだ。質問攻めはまた今度な」
そう言って、宮前はこっちに来る。お盆に何かを乗せている。
「ほら、おかゆだ。あんまし上手にいかなかったかもしれないけど、一応、遠山にコツを聞いたんだぜ」
「そうそう、病人にはおかゆが一番!おかゆには梅干しを乗せるのがコツね!梅干し食べると口がさっぱりするから。さ、食べて食べて」
「ほら、あーん」
宮前がスプーンに乗せたおかゆを差し出して来る。まだあたまがぼうっとして、うまくかんがえられない。
「あー…」
少しあついけど、とても食べやすかった。
「おお、食った」
「かわいい…」
なにか言ってるけど、うまく聞き取れない。
「びょうきって…?」
「そう、すごくびっくりしたのよ。宮前くんから連絡貰って、八神さん寝てると思ったらすっごいお熱があったの。それで、とりあえず会社早退してきて、八神さんの家まで運んできたの」
「何があったか知らねえけど、安静にしてろよ。とりあえず、仕事は全部終わらせてきたから」
「お掃除とお洗濯と、身の回りのお世話は私」
「それ以外は俺だ」
「ちょ、ちょっと待って」
矢継ぎ早に状況を説明されたせいでうまく飲み込めない。けど、それよりもきになることがあった。
「コンペの、結果は…?」
そう言ったら、二人は顔を見合わせて、
「お前が早退したから、発表はまた後日だとよ。さっき葉月さんから連絡があった」
「そう気を逸らせずに、ゆっくり休んでね」
遠山さんが、薬を持ってきてくれる。
「もう今日は寝てね。一晩じっくり休めば、良くなるはずだから」
そう言って、薬を飲ませてくれる。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
「…」
二人がいなくなって、部屋が完全に真っ暗になる。一人になると、否が応でもいろいろと考えさせられる。今日のことだ。とても嫌なこと。早く忘れてしまいたいのに、頭にこびりついて離れなてくれない。
ーーあんたじゃふさわしくないのよ!
ーー調子に乗らないで!
ーー何よその目は…!
頰が疼く。もう腫れはだいぶ引いたけど、痛みが熱のように、うねって這い回る。また、涙が溢れて来てしまう。自分は何も言えなかった。理不尽なことを言って来る相手に対して、黙って、俯いていることをしか出来なかった。わけが分からなくて、ただ恐ろしかった。
宮前には、悪いことをした。自分を心配してくれたのに。でも、これ以上の優しさを向けられたくなかった。遠山さんにも、呆れられて、見捨てられるかもしれない。…でも、それでいいのかも。
私は、一人の方がいいんだ。
いつの間にか、意識を手放していた。どこからが夢だったのだろう。なぜか、その日は久々に安らかな気持ちだった。
#
「…よし、寝てるな」
ドアを少しだけ開けて、寝室を確認する。穏やかな寝顔を見て、思わず胸を撫で下ろした。昼間の、まるで世界の終わりのような表情を思い出す。本当に、無理やり連れてきてよかった。
「どうだった?」
「ああ、良く眠ってるよ」
その後すぐに遠山を連絡したのも良い判断だった。連絡後、ものの数分で飛んできたと思ったら、「家に連れて行くわよ!」と八神の家に直行し、八神のカバンを漁って鍵を開け、俺に料理を命じ、八神の服を剥ぎ取り、パジャマに着替えさせ、ものすごい勢いで掃除をし、洗濯をしたのだ。正直、遠山がいなかったらどうなっていたことか。
「遠山。改めて、本当に助かった。ありがとう」
「いいよ。私も力になれてよかった。樫井さんにも、お礼言っておかないとね」
樫井さんは、急に抜けることとなった俺たちの穴を埋めてくれたのだ。
「じゃあ、何があったのか、話してもらえる?私、何も知らないの」
「ああ…。つっても、俺だって、ほとんど知らないんだ。あの後別れてから、第二会議室に辿りついたら、八神が倒れてたんだ。その時、 少し気になることがある」
「気になることって?」
「第二会議室に行く途中、二人の女とすれ違ったんだ。二人のうち、一人は笑っていて、もう一人は手を抑えていた」
「笑っていて、手を抑えていた…」
「最初の方はわからないけど、後の方は、おそらく手を痛めたから抑えていたんだ。多分、平手を喰らわそうとしたら頬骨に当たったんだと思う」
「…殴ったの?女の子を?女の子の顔を?」
遠山の声に怒気が篭る。
「…じゃあ、もう一人の方は、いい気味だって思ったんだよ。だから、笑ってたんだ」
「…十中八九、キャラ班の誰かだろうな」
「…どうする?葉月さんに相談する?」
「…いや、どうだろう。実は…」
遠山に、この前、葉月さんに言われたことを話した。特定の誰かを守るというわけにはいかないこと。それは、どうしようもないことと言われたことも。
「…そんなの、そんなのおかしいよ!なんで弱い立場の人に味方してくれないの?それが上司なの?」
「遠山、 それが人の上に立つってことなんだ。決して私情で動いちゃいけない。葉月さんだって、苦しい思いをしてるんだよ」
「うう…」
遠山は、とても納得したとは言えない顔をしている。それも当然だろう。味方になると思っていた人物が、協力出来ないと知って、裏切られたと思っているかもしれない。
「まあ、聞けって。一つ考えがあるんだ。うまくいけば、葉月さんを味方に付けられるかもしれない」
#
考えと言っても、単純なことだ。八神がぶたれた証拠を集めて、葉月さんに提出すれば、葉月さんを動かすことが出来る。葉月さんが動いてくれれば、犯人を煮るなり焼くなり、好きに出来る。そうすれば、八神の敵はいなくなる。
翌日、出社した俺と遠山は、まず、今日は八神が休むことを伝えた。大分熱は下がったが、大事を取って休ませることにしたのだ。休むのは、こちらにとっても都合が良い。こそこそ嗅ぎ回るのは、八神に知られない方が、何かあった時に八神に被害が及ばない可能性が高くなる。
「じゃあ、また後で集まろう」
「うん」
遠山と別れる。背景班の仕事はかなり進んでるそうだから、もしかしたら、かなり暇になるかもしれない。その場合、遠山だけでも動いてもらおう。怪しまれないために、フリだけでも仕事しなければいけない。
「おはようございます」
「おはよう。八神さん、どうだった?」
「はい。熱は下がったんですけど、大事をとって、一日だけ休ませました。昨日はすみません。仕事変わって貰っちゃって」
「ぜんぜんいいよ。気にしないで。ところで、今日の仕事の前に、渡しておきたいものがあるんだ」
そう言って、樫井さんは一枚の紙切れを取り出した。
「これは?」
「開いてみて」
言う通りにすると、そこには名前が書いてある。
『山本真弓、押野梨々香』
「その子たちは、昨日、少しの間姿が見えなかった人。…探してたんでしょ?」
「はい。でも、なんで…」
「なんとなく分かっちゃって。お節介だったらごめんね」
「とんでもない!とても助かります!」
この紙切れは、まさに天からの一条の光だった。
「そっか。よかった…。私も役に立てたんだね」
「…樫井さん?」
「ううん。なんでもない。頑張って」
「ーーはい!」
すぐにキャラ班の所に行く。思わず逸ってしまった。
「…頼むよ。救ってあげてね」
その小さな呟きには、気づくことはなかった。
#
遠山の電話を鳴らす。
「俺だ。今ちょっといいか?」
『いいけど…。どうしたの?」
「キャラ班に殴り込みだ。名前と顔を把握した」
『…!ほんと?』
「ああ。樫井さんが調べてくれた」
『樫井さん…』
「準備はいいか?」
そう聞くと、遠山から、迷うような息遣いが聞こえてくる。
『…ごめん。やっぱり、待った方が良いと思うの』
「…理由は?」
『これは、あくまで八神さんの問題だから。私たちが勝手に突っ走っちゃいけないと思うの。このまま行っても、多分、八神さんは喜ばない』
まさに目から鱗だった。簡単に王手に至る道を見つけてしまって、一番大事なことを忘れていた。八神の気持ちを、考えていなかった。結果ばかりを求めて、重要な過程をないがしろにしていた。
「…そう、だな。一度、八神とちゃんと話をしなくちゃいけないな」
『じゃあ、また後で待ち合わせましょう』
「いや、今から行ってくる」
『え!?』
「遠山は一応残っててくれ。そんなに仕事の多くない俺が行った方がーー」
『ちょっと待って!私も行くに決まってるでしょう!」
「いや、でも二人で動くと警戒されるかもーー」
『そんなの関係ない!私が行きたいの!」
予想しなかった遠山の剣幕に、一瞬たじろぐ。
「…分かった。じゃあ今から玄関に集合だ。急げよ!」
『うん!』
携帯電話を切り、集合場所に向かって歩き出す。次第にじれったくなって、早歩きに、そして、ついに走り出してしまう。もう少しで八神を助け出せる。あの輝く瞳を、あの強さをもう一度見ることが出来る。そう思うと、気持ちを抑えられなかった。
#
遠山と合流し、八神の部屋があるマンションへと向かった。八神の携帯電話を鳴らす。
『…もしもし?』
気だるそうな声が聞こえてくる。
「八神、宮前だ。体調どうだ?」
『うん…熱はもうないよ…」
「そっか。よかった」
「ちょっといい?」
遠山が貸して、と手を出す。
「もしもし、りんだけど、今大丈夫?」
そう言って、話始める。一言二言交わした後、電話を切った。
「どうだった?」
「大丈夫だって」
遠山は俺の目を見つめる。
「じゃあ、行こうか」
「…ああ」
マンションのセキュリティを解除してもらい、エレベーターに乗り込む。目指すは八神の部屋、301号室だ。扉前に立ち、インターホンを鳴らす。少し経って、トタトタと足音が聞こえてくる。
「はい、どうぞ」
扉が開き、八神が顔を出す。少し心配そうだ。
「どうしたの?仕事は…」
「ちょっと話があるんだ。大事な話で、先延ばしにできないから、仕事は抜けてきた」
「大事な話…」
八神は考え込むようにするが、
「とりあえず上がって」
と、促した。
中に入り、部屋にある背の低い机に囲むように座る。
「それで、大事な話って…?」
「ああ、これだ」
机に『山本真弓、押野梨々香』と書かれた紙切れを置く。
「この名前に、覚えはないか?」
それを見た途端、八神の顔が引き攣った。図星だろう。
「言うまでもないかもしれないが、こいつらは、昨日お前に、酷いことをした奴らだろう。俺たちは、仮にも同僚で後輩のお前にあんなことをした落とし前をつけさせるべきだと思ってる」
「ちょ、ちょっと待ってよ!私言ったよね、首を突っ込まないでって!それを」
「悪いが、そんなことはできない。あれは嘘だ」
「そんな…」
八神はうなだれてしまう。
「やめてよ…。あんた達には関係ないでしょ…。分かったような口聞かないでよ…。お願いだから放っておいて…」
「八神さん」
「私はこうなった方がいいの…。一人の方が自由で好きなの…!誰も助けてなんて言ってない…!余計なことばっかりしないでよ…!」
八神は俺たちを睨みつける。
「帰って!もう、顔も見たくないッ!」
「八神さん!」
突然、遠山が叫び出す。八神は予想だにしなかったのか、びくりと身体を震わせる。
「こうなった方がいいってなに?一人の方がいいってなに?関係ないってなによ!たった一ヶ月の間だけど、私達は関わり合ってきた!私達は何回も、お互いを頼りにしてきた!私達は、お互いを友達なんて陳腐な言葉で済ませたりはしないけど、それでも、私は、あなたのことも大切に思ってる!たとえあなたが助けて、なんて言わなくたって、辛い状況にあるなら!私は、あなたの力になりたいの!コウちゃんが一人になりたくたって、私がコウちゃんと離れたくないの!」
遠山の目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。鼻水も出して、顔がぐちゃぐちゃだ。それでも、八神の目をしっかりと見つめている。
「私は、コウちゃんと一緒にいたいッ!」
いつの間にか、八神も涙を流していた。初めは驚いた様子だったが、涙を止めることが出来なくて、ぺたりと腰を抜かしてしまう。
「うう…っ、うううう…」
八神は、言葉を必死に紡ごうとするが、うまく出来ない。
「わ、わたじ…っ。わだしも…っ。ご、ごめん…!」
「いいの。いいのよ…。コウちゃんはコウちゃんだもの。でも、私も、それに」
俺を見る。
「宮前くんだって、いるもんね」
「…」
おれも、いる。初めてだった。誰かに、初めて、仲間だと認められた。それが嬉しくて。嬉しくて…。
「ああ…」
涙腺が緩んでしまう。だめだ。見っともないだろ。こんなところで、泣くなんて。女二人の前で。でも、心の底から震えるほど、嬉しいんだ。心から、生きててよかったと思える。
「あたり、前だ…!俺もいるぞ!お前達には、俺がついてるからな…!」