何もない部屋に電話が鳴り響く。
何時だ。まだ7時じゃないか。もう少し寝たいんだけど。…うるっせえ。昨日遅かったんだ。もう少し寝たって遅刻はしないだろ…。
……。
……。
……。
携帯電話の通話ボタンを押す。
「…はい。もしもし」
『ちょっと。人にあれだけ頼み込んだくせに呑気に寝てるんじゃないわよ』
「…。……。ああああ!?」
そのとき、俺は思い出した。今日は。決して遅刻してはいけない、重要な会議かあること。そして、それに備えて資料整理しなければならないという理由から、いつもより早めに行かなければならないこと。そして、そうするために、コウにモーニングコールを頼んだこと。しかし、あれだけ渋っていたのに、よくかけてくれたものだ。ちなみに、りんは朝起きられないそうだ。
「す、すまん!ありがとう!この借りは必ず返すから!」
『はあ…。ま、いいけど。これで貸しひとつね』
「う、分かった…」
一瞬、コウに借りを作るのは危険な気がしたが、それも仕方ないと割り切る。そもそも忘れていた俺が悪いのだ。
「とにかく、ありがとう。助かった」
『はいはい。頑張ってね』
ぷつりと電話が切れた。
そこそこ寝起きの悪い俺だが、起きてからの行動は早い。速攻でシャワーを浴び、速攻で冷蔵庫から卵と醤油、そして、あらかじめ凍らせておいた白米を取り出す。そして解凍した後、卵と醤油をぶち込み速攻で胃にかき込む。歯磨きをし、ワックスをセットして、扉に鍵をかけて最寄りの駅まで走り出す。ここまでの時間、約十分。『イーグルジャンプ』まではだいたい二十分かかるので、ちょうどいい感じだ。結果、かなり余裕を持って出社できた。
「おはようございまーす…」
薄暗い仕事場へと入る。誰も来ていないようで、人の気配がない。思わず小声になってしまう。
「よしっ、やるか」
とりあえず電気をつける。外からの日光も相まって、かなり明るくなる。すると、誰もいないと思っていたデスクに、仕事をしていたような形跡がある。コウのだ。電源を落としたPCに、キャラクターの絵が描かれている紙が何枚か。これを見て、おれの中に一つのある考えが浮かんだ。
もしかして、先日の事件でまだ燻ってる連中が、何かしたんじゃないか。
あれは一応の解決をし、和解も済ませたはずだが、別でコウのことが気に入らない奴らが何か工作しようと、デスクを弄ったのかもしれない。
「…まずいな」
コウのデスクに近寄る。何か失くなったものや盗まれた跡がないか探そうとすると、
「何やってんの?」
後ろから声が聞こえる。振り向くと、コウがいる。そいつは、とんでもない格好をしていた。
「…。…は」
開いた口が塞がらなかった。コウは、上に黒い少し大きめのシャツを着ている。少しラフだが、先輩たちもラフな格好はいくらでもしている。
しかし、下は穿いてない。下着だけ。下着だけだ。
「そりゃないだろ…」
「何が?」
「いや、お前、せめて何かで隠すとかさ…」
「何を?」
気づいていない。前々から少しズボラっぽいなあとは思っていたが、これは致命的だ。
「とりあえず、目のやり場に困るから、スカートかズボンくらいはいてくれ」
「ああ、これ。だって暑いし。動きずらいから」
「だからって…。女なんだから。襲われても知らんぞ」
「襲うの?あんたが」
「いや…。どうだろ」
「ま、いいや」
そう言って、自分のデスクにコーヒーを置く。
「それよりも、いいの?仕事。そのためにモーニングコールしたのに」
「ああ、うん。それはするけど…。お前は何でいるんだよ」
「私?私は仕事してたら遅くなっちゃって。そのままじゃあ明日の分の仕事しようかと思って」
「それで、その格好?」
「うん」
「そうか…」
そこまで堂々とされると、逆にこっちが間違ってるように思える。あんな格好ができるのも、ここが安心できる場所になったからだろうか。そう結論づけ、自分の席に着く。
今日は、『イーグルジャンプ 』の出資会社である『芳文堂』との重要な会議だ。樫井さんからはあまり気負うなと言われているが、それでも重要なのは変わらない。今日は五月の終わり。この会議は、今まで組み立ててきたスケジュール、予算、そして何より、先日無事決定したメインキャラクターデザイナー、八神コウのお披露目会でもある。大なり小なり緊張するはずだが…。下半身半裸で優雅に(呑気に)コーヒーを飲んでいるコウを見ていると、少々腹が立ってくるというものだ。そこで、俺は報復のために、ある人物に連絡することにした。現在8時少し過ぎ。もうそろそろ起きないと会社に遅刻する時間だ。
#
凄まじい足音が聞こえて来る。
「コウちゃん!!」
まだ俺とコウしかいないオフィス。二人とも無言で仕事しているので、静かになるのは必然だ。そこに飛び込んできた大きな声。呼ばれた張本人が、前のめりに突っ伏す。
「りん!?なに、どうし」
「どうしたもこうしたもない!司くんに頼まれて、コウちゃんに似合いそうな服持ってきたのに!その格好はなに?」
「格好?…あ、これのこと」
「女の子なんだから、もう少し自覚をもって!コウちゃん可愛いんだから!」
「かわ…!」
可愛いという言葉に反応して赤くなるコウ。そして、忌々しげに俺を睨む。
「司…!あんたか!」
「いや、俺はなにも言ってないぜ?ただコウの服がダサいから、女っぽいかわいい服を持ってきてやってくれって連絡しただけだ」
「とにかくこっち!」
「あ、ちょ、りん!司、あんた覚えてなさいよ!」
別の部屋に引っ張られていく。
10分後。
コウは、驚くほど綺麗な格好をしていた。
「おう…」
上はレースが編み込まれた薄手のセーターにカーディガンを羽織っている。下は上品なロングスカート。何というか、先ほどまで半裸だったとは思えない。思わず見とれてしまうほどだ。その横で、りんは、鼻高々といった風に、コウを見つめているが、当の本人は、顔を真っ赤にして少し、いや、すこぶる照れているようだ。どうやら今までこういった格好をしたことがなかったらしい。
「そ、そんなに見ないで…」
パンツ一丁は恥ずかしくないのに、こっちは恥ずかしいらしい。感性が違いすぎるようだ。
「よく似合ってるよ。見違えた」
「ほら、やっぱりコウちゃんは可愛いよ。よかったね、褒められて」
「いや、そういう問題じゃ…」
普段から涼しい顔をしているせいで、余計に赤くなった顔が目立つ。
「さ、なんかいいもん見たし、お仕事しますかね」
「あ、そっか。私も準備してこないと。じゃコウちゃん、メークもしてあるんだから、崩しちゃダメよ」
「そんな…」
その後の仕事は、なんだか引くほどに集中できた。やはりコウのおかげだろうか。
#
「さあ、準備はいい?」
樫井さんが声をかける。
「もちろんです。いつでもいけますよ」
それに、余裕を持って答えた、つもりだ。本当は、かなり緊張している。今まで十八年間生きてきて、こういった会議に参加したことがなく、得体の知れなさに戦々恐々している。そうこう考えているうちに、会議室の前までついてしまった。樫井さんが、ドアを4回ノックする。
「失礼します」
中に入ると、そこにはすでに、ディレクターである葉月さん、メインキャラクターデザインのコウなど、それぞれのチームのリーダーが出席している。そして机の反対側には、メガネをかけた、ブロンドの若い美人の女性がいる。
「お、きたか。早速着席してくれたまえ」
葉月さんがおどけて言う。それに対して、ブロンドの方は、「まったく…」といった表情をしていることから、二人の付き合いは長いのだろう。
「初めまして。私は、『フェアリーズストーリー』のプロデューサーの樫井美幸です。こちらは補助の宮前です」
「初めまして。宮前司です。お見知り置きをお願いします」
こちらの挨拶にブロンドの女性は厳しそうだった顔を崩し、にこりと笑みを浮かべる。
「初めまして。私は大和・クリスティーナ・和子といいます。このチームの総合プロデューサーを務めさせていただいております。本日は、芳文堂からの具体的な条件などをお話しするために参りました」
「わざわざご足労頂き、感謝いたします」
「いえ、これもひとえに、いいゲームを世に出すためですから」
樫井さんと芳文堂のパブリッシャー社員、大和さんとの挨拶が続く。ああいったビジネストークはまだ完全ではないので、全くの樫井さん頼みだ。
「この子は名前でもうわかると思うけど、フランスと日本のハーフさんなんだ。表情動かないから誤解されがちだけど、これ照れ隠しだから。かわいい子だから、優しくしてやってくれよ」
「ちょ、ちょっとしずく!余計なこと言わないでくれる!?…コホン。失礼。少々取り乱しました」
「は、はあ…」
これには流石の樫井さんも苦笑いだ。
大和さんはもう一度咳払いし、緩んだ空気を締め直す。
「さて、本日は会議の第一回ということで、まずは、そちらの具体的なスケジュールや予算をご説明頂いてよろしいでしょうか」
「はい」
樫井さんが先ほど俺がまとめた資料を手に立ち上がり、備え付けてあるスクリーンのそばに立つ。プロジェクターを起動し、カレンダーを映す。
「五月現在、それぞれのチームのメンバーが大方固まり、キャラクターデザインや作画、音響などのトップからそれぞれの作業の目処を提出してもらい、マスターアップを十一月末、発売予定日を十二月始め、これらを目標とした、詳しいスケジュールがこちらとなります」
スクリーンのカレンダーのそれぞれの日付に、具体的な作業が書かれた。それを見て、大和さんが口を開く。
「少しよろしいでしょうか」
大和さんが手をあげる。
「この書類に、このゲームはフルボイス仕様と書いてありますが、メインキャラクターのキャストが揃うのはだいたいいつ頃になるのですか?」
確かに、このスケジュールにはキャストのことが書いていない。というのも…。
「はい、そのことなのですが、なにぶん、この会社にはそのようなノウハウがなく、声優事務所に対しての問い合わせが追いつかず…。実は、そのことを本日はお願いしようと」
「わかりました。では、この件は我が社持ちということで」
「ありがとうございます。次に予算ですが、大まかには、資料の4ページに書いてある通りとなっております」
大和さんは、資料をじっと、集中したように見つめる。
「はい、了解しました。では、このように、上には報告します」
思わず、安堵して、息を吐いてしまう。これで、ゲーム制作が金銭面で滞ることはないはずだ。
「では、最後に芳文堂からの要望をお話しします」
大和さんの顔がますます真剣になる。
「まず最初に、売り上げです。我が社としては、初めてのゲーム業界参入。あえて夢を見ずに、手堅く、元が取れる程度に、ということで、十万。十万本を目標に据えたいのですが、これについて、何かございますか?」
開発チームがにわかにざわつく。売り上げ十万本。利益はだいたい一億前後だ。手元の資料、予算に関するページを読む。開発費約1200万円。これは、仮に大失敗したとしても、ギリギリ元が取れる、売り上げから見れば失敗と言えないように、また次に繋がるように構築されている。しかしこれには一部のチームから反対意見も出ているのも事実だ。堅実すぎると。ここでもし、あらかじめ想定していた売り上げ数を言ってしまえば、それは最終的な決定になり、会社全体に伝わる。つまり、会社全体の士気に関わる。誰しも失敗前提のゲームより、十万本を目指しているゲームの方がやる気は出るだろう。皆それが分かっているから、迷ってしまう。そうするうちに、ある人物に視線が集めりつつある。
「了解だ」
ただ、それだけを言った。その姿は自信満ちていて、初めて、この人は人の上に立っている、責任を持っている人であることに気づいたことを自覚した。さすがに無茶だと思ったのか、ディレクター補佐の女性が苦言を呈す。
「は、葉月さん。幾ら何でも初出で十万は…」
「何言ってるんだい?ここには、今世に出ているの有名ゲーム会社に匹敵、いや、それ以上の逸材がいるじゃないか。この面子が揃っていて、万一にもつまらないゲームなんて、果たして作ることなんて出来る?出来るわけないじゃないか」
葉月さんは、周りを、この会議に出席している全てのメンバーの顔を見つめる。
「売り上げ十万本?上等じゃないか…!私達の力を見せてやろう!大丈夫だ。責任は、全て私が取る」
思わず、拍手が出てしまう。周りも同じのようだ。
葉月しずくは不敵に笑う。それを見たら、先ほどまで感じていた不安が嘘のように消えてゆく。この人がいれば大丈夫だ。根拠などないが、勇気が溢れてきた。