フィリピン生まれ鹿児島県離島住みの中学生がなぜか自分を語る その1 作:橙鰹
「○○ちゃん、与論島に行ってみる?」
3月のちょうどよいフィリピンの涼し気な夜気のなか微睡んでいたら、母にそう聞かれた。
「行く」
我ながらどうしてそんな風にすぐ答えたのかよくわからない。
恐らく、ただ淡々とした日常と将来に対する漠然とした不安、何も志を持たず缶詰め状態で勉強をする日々に飽き飽きしていたのだろう。ただ単に刺激がほしかった。母の故郷である「ヨロントウ」での日常にとてつもない希望と期待を見出していたのだと思う。
今思えば、行くと言わなければよかった。
後から聞いた話だと、一日七時間の勉強の合間合間に親をにらみつける私に不安を抱いた父が、アメリカで姉たちにその様子を話したようである。尊敬すべきわが姉から出た答えは、「あまり勉強々々と言わないほうがいい」という旨のことだった。それが何をどうしたのか、与論島行きの話のもとになったようである。
「一年間遊びに行くつもりで」
そう軽く呼びかけられ安易に喜んだ。もう勉強に追われることはないのだろう。けれども自分から勉強してよい成績をとってやろう。自分ならできるはずだ。そう思い胸を躍らせた。私が何よりも期待を寄せていたのは勉強を威圧感で強要する父がいない日常だった。自分の好き勝手に勉強ができるとウキウキしていた。
フィリピンでの中学校は七時半までに学校に行き、三時ごろ終わり1時間半かけて車で帰ってくるというものだった。だが、他の子が学校の近くに住んでおり、五分ちょっとで家に帰り遊び呆けてるのを見て、私の中の不満がたまり始めたのかもしれない。
何より、歩いてすぐの学校だという話で、時間が前よりも増えるのだと信じ込んでうっとりしていた。希望に満ち溢れていた。私はもっと警戒するべきだった。我が家には古くから「浮かれポンチ」という言葉がある。浮かれて喜んでいるときには特に気をつけなさいという意味の教えである。この時にせめて学校のスケジュールと日常の時間割くらい計算しておけばよかったのである。
とにかく夢と希望の与論島で過ごすということが決まってから、私はフィリピンの学校に、生活に、唾を吐きたくなるような衝動にかられた。今よりも良い生活が待っているのだと思うと、今フィリピンで体験している日常がひどく色褪せて思えた。
「一年後の私をお楽しみに」
お別れのメッセージを書けと言われて書いた言葉がこれである。自分が一年間向こうで暮らせると信じ込んでいた。完全に浮足立っていた。けれども心の中でかすかに残っていた理性が警鐘を鳴らしたのかもしれない。両親にこう訊いた。
「いやになったらすぐ帰っていい?」
「いいよ、もちろん」
安心した。すごく安心した。まぁそんなすぐ帰るようなことないんだけどねっなんて考えてしまった。クラス内で豪語した。
「一年間お前らにあえなくて寂しいよ」
「お前、一年後にまだいるのか?」
「お前ら俺のいない間がんばれよ」
自分がクラスの中で存在感が大きいほうだったことは自負していた。
さらにフィリピンの学校は生徒の入れ替わりが激しい。一年間立てば7人ほど入れ替わる。当然転校する予定の友達だっていた。正直どうでもよかった。友達と一緒に過ごす時間よりも与論島での一年間を選んだ。ゲス野郎である。
うわあああああ!
みるなあああああ!