それは、ふっ、と生まれた。
まるで風が生まれるような、木の葉が湖面に落ちて水面が静かに揺れるような、そんな何でもないような日常の中で、誰に望まれるでもなく誰が見ているでもなくただただ一人で生まれた。
形はない。名前も、光も影もない。それは何も無い。
否、それには『何もない』があった。まるで矛盾そのもので、ふとすれば消えてしまいそうな存在だったが、それでも、それはそこに存在していた。
風が吹く。それは実体もないのに飛ばされた。まるで飛ばされている演技でもしているかのような白々しさを伴わせながら、生まれたばかりの湖面から遠ざかっていく。
果たして死があるのかすらわからない、それの、長い長い旅路の始まりであった。
(ちょい待ち、え、何これ?今これどういう状況なの?なんで俺浮いてんの?っていうか俺の体はどこ?目は?耳は!?)
困惑した思考をこんがらせながら、名もなき怪異は今日も行く。
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寝て起きたら身体がなくなってた、なんて経験をしたことがある人はどのくらいいるだろうか。身体がないのにものに触ったり、目で見たり、匂いだったりを感じた経験は?風に飛ばされて空を飛ぶ経験をした人はいるだろうか?
たぶん、いない。だってありえないものーーーーそれが、その少年が下した現状への認識だった。
しかし皮肉なものかな、夢だと思って二度寝しても、時が経てば悪夢は終わるさとぼおっとしていても、一向に現状は変わる予感はしない。逆に時間が経つにつれもしやこれは現実なのではないかという疑いが少年の胸の内にムクムクと膨らんでいくではないか。
そろそろ逃避しきれないくらい現実が間近に迫ってきたのを感じて、少年はーーー否、形のないそれはそろそろ認めざるを得なかった。
そう、これは転生というやつなのだ、ということを。
何故そう考えたのかーーーもしそう問われると、少年は言葉を詰まらせ目を泳がせながら、『小説で読んだ…から?』と苦し紛れに答えるだろう。実は少年もそう確信を得た根拠は分かっていなかったりする。
それでも強いて言うならば、前世、と形容する事にした、以前の自分の記憶ーーーこれがほとんどぼやけて思い出せないことを理由に挙げることができる。
彼は特に、自分の名前、そしてどんな姿をしていたかについて、一切の記憶を持ち合わせていなかった。全体的に霧吹きを吹きかけて筆で優しくぼやけさせているのを、まるで自分の名前と姿の部分だけ鋭利なハサミで切り取ったかのようだった。
少年はそのことについていくばくか頭を悩ませたが、最終的には思い出せないのだから仕方がない、と割り切ることにした。そうでもしないと延々と悩めそうな気がしたからだ。
この形のないなにかになってどれほどの時間がたっただろう。眠っていた時間を抜かせば、彼が見た朝焼けは10回を超える。単純に計算して10日ほど現状のまま、飲まず食わずで過ごしているというのに、彼にはまるでその10日が数瞬のように感じられていた。どうやら人間のころの自分と、この姿の自分とでは体感時間に大きな差があるようだ。
(うーん、形がないっていうのは結構不便だよなぁ…)
これでは立つことも、風に吹かれるときにそこで踏ん張ることも、しゃべることもできやしない。もしそうなると少し暇だ。
風がまた吹く。彼はそろそろいやになって、近くの木に自分の身体全体を絡めるようにして踏ん張ろうとした。結果は目に見えていたけれど、目がないのだからやる価値はあった。
そして彼に腕が生えた。
(...Oh...)
その日、彼はやっと、自分が人間をやめたのだという事実を実感したのだった。