「……ここで合ってるよな?」
とは言ったものの、誰かの応えを求めているわけではなく――携帯画面=メッセージアプリで送られてきた文字列と目の前に
黒マスクは市販の白マスクに/スーツの代わりにポロシャツ/ラフなジーンズ/スニーカー/手に紙袋=とりあえずあればいいだろうと付近の洋菓子店で購入してきたプリン×4――指摘されなければ中華系マフィアとはわからない無難な出で立ち/しかし駐車場に停めた自分の車のそばで挙動不審。
実のところ劉にとっては怪我人の見舞いなどというものはこれが初めて――それ以前に病院自体そう訪れたことがない。
何せ普段は金さえ積めばその筋の人間でも気前良く診る
それでも行くと決心し、なんとか
おいおいおいおい、さっさと行きゃいいじゃねえかたかが見舞いだぞ――心の片隅に奇跡的に残っていた良心のような何かが叱咤してくる――それでも一向に進まない足。
そもそも俺が会いに行って本当に大丈夫か? 相手は刑事なんだぞ――今度は今更すぎる不安が脳裏を
「おあ゙〜……」
原因不明の
唐突に降って湧いたなんとも言い難い心理状態にただひたすら混乱/困惑/当惑――なんなんだ。どうした、情緒不安定か、俺。
そろそろ誰かに見つかって不審者として通報されてもおかしくない頃――不意に6万光年彼方から到来した理解。
自覚――途端に体温が急上昇/早まる心拍数/噴き出す汗――しかしストンと腑に落ちる解答。
そうか、恥ずかしいのか――まさか自分に真っ当な人間らしい感情があったとは、と心底からの驚愕/更なる羞恥――どうにもあの泣き虫マル暴と出会ってから良くも悪くも変化してきているようだとは薄々感じていた/認めたくはなかったが。
しかしわずかに残る違和感――
とはいえこのままずっと駐車場に留まっているわけにはいかず――些末な違和感は捨て置き深呼吸×3回/バチンと両手をで頬を挟んで気合いを充填――二の足を踏んでいた間抜けな足に本来の役割を思い出させて駐車場を無事脱出した。
入口の自動ドアを潜りエントランスへ――ドブ育ちの目に痛いほど清潔感に溢れた空間/整然と並べられた椅子にはまばらに人が=老若男女様々/受付順番待ち。
日本人に嫌われる中国人の国民性=たかが面会受付のためだけに待つのは面倒なので空いているカウンターへ一直線――堂々たる順番無視。
「スミマセン」
何やら作業をしていた受付の女性に声をかける。「柊凪サンて人入院してる聞きますしたヨ。面会できるますカ?」
独学が故にぎこちない日本語――受付の女性が一瞬困惑――しかしすぐに笑顔を取り繕う。
「柊凪さんへの面会ですね。少々お待ちください」
女性が端末に向かい何かを入力。「柊凪さんの病室は505号室となります」
「
簡潔に礼を述べてエレベーターへ――『5』と『閉』のボタンを無駄なく素早くプッシュ/ゆっくり閉まる扉/上昇するエレベーター。
途中の階で引っかかることなくスムーズに5階へ到着。ここで回れ右して帰りたい衝動が再発――気力でねじ伏せ前進。
505号室を捜索――すぐに発見したが名前表札が4つ=柊凪とそれ以外の誰か×3=4人仕様の大部屋。
マジかー。いや別に
腹を括って入室――何故か声を潜めて。「柊凪サーン……?」
左右の壁際に2台ずつ=4台並べられたベッド――空っぽだが人がいた形跡のあるベッドが3台――恐らく検査か何かで患者が離席中。
右奧のベッドに見覚えのある顔=柊凪聡丞。
白髪混じりの癖毛/垂れ気味の目尻+丸眼鏡/無精髭/患者服=隙間から見える包帯――
加えてベッド脇の丸椅子にちょこんと座るサイドテールの女の子――恐らく彼の娘=ももか――恐らく先程まで仲良く談笑していたのだろう。
なんだろうか――あまりに些細すぎるそれは、柊凪の声に流されていった。
「劉!? 劉じゃないか! どうしたのぉ? こんなところに……」
柊凪=ビックリ→嬉々として。
「ワタシだて知り合い入院した聞いたら見舞いくらいするヨ、失礼ネ」
ふん、と鼻を鳴らす――なんとなく居心地が悪くて余計な一言を添えてしまう。「ま、三十路の男より
「あ、え、いやいや! そんなことないよぉ」
面白いくらいコロコロ変わる柊凪の表情――やはり見ていて飽きない。
「お父さん、知ってる人?」
ももか=キョトン/まじまじと劉を凝視。
「そうだよ。この間お世話になったんだぁ。ね」
いやに嬉しそうな柊凪に「ウン、まあ、そうネ」と曖昧に返事。
これ大丈夫か。娘いるんだぞ。その上誰が聞いているかもわからないここで
「柊凪ももかです! お父さんがお世話になりました!」
ももか=ペコリとお辞儀――随分なしっかり者――きっと母親似/まあそりゃ父親がこうだしな。
「イイ子ネ。礼儀正しい子、ワタシ好きヨ」劉=ニッコリ。「ワタシの名前、劉いう。ヨロシク」
「リュー……さん?」
ももか=日本語ではない発音をどうにか再現して復唱。
「ワタシ中国人ネ。だから日本人に名前の発音しにくいヨ」
そう言うとももかは納得したようだった。
「で、怪我の具合はどうカ?」
尋ねると、柊凪は肩の包帯をさすった。
「まだちょっと痛むけど、近い内に退院できるよぉ」
「それは良き。でも銃撃たれたは災難だったネ」
「まあねぇ。でも怪我するのはいつものことだし」
柊凪=ヘラヘラ――すると突如としてももかが憤慨。
「そーなんだよ! お父さんってばいっつも怪我して帰ってくるの!」
そして始まった
「こんなお父さんある、娘も大変ネ」
「そーなの! おっちょこちょいだし泣き虫だし……」不満タラタラといった顔――しかし次の瞬間、
「でもね、ももか、そんなお父さんが大好きなの」
少女の満面の笑み――なんたる無垢/純真/慈愛。
衝撃――それまで小さな針で刺される程度だった痛みが、槍で心臓を貫かれるような激痛に変わった。
そしてその瞬間――ハッキリと、あの引き返したい衝動と今の居心地の悪さの正体を悟った。
この男は幸せ者だ――片親だが円満な家庭/自らを心配してくれる存在/見返りなく愛し愛される関係――
途端、劉の胸中に猛り狂うドス黒い茨のような感情が噴出――羨望/嫉妬――自分は生まれたときから持っていなかった/かつて喉から手が出るほど欲しかった/でも結局諦めるしかなかったものを、この男は全て持っている。
「あはは……嬉しいこと言ってくれるなぁ、も〜」
ももかを抱き寄せ頭を撫でる柊凪――絵に描いたような幸せな家族像。
息が詰まる――悲鳴を上げる心=理不尽な誹謗――お前はなんて贅沢なやつなんだ――あまりにも醜い茨が声となって喉を飛び出す前に、唇を噛んで押し殺した。
なおも続く幸せな話――退院したあとに遊びに行くこと/復帰後に待ち受ける始末書のこと/ももかの祖母のこと/母親のこと――エトセトラ。
話が続けば続くほど、鏡のように自分の惨めさをこれでもかと見せつけられる。
立っている世界が違うことくらい最初から知っていただろうが――言い聞かせる――それでも襲ってくる、耳を削ぎ落としたくなるほどの苦痛。
「それでね――」
「すまないケド、ワタシそろそろ予定の時間近い。今日はもうサヨナラするネ」
ももかの話を遮って椅子から立ち上がる――もはや限界/一刻も早くこの場から立ち去りたくて仕方がなかった。
「これ、2人で食べるよろし」
存在を忘れかけていた紙袋をテーブルに置く――表情筋を総動員し適切な笑顔を固定/最適な声のトーン+抑揚を維持。
紙袋のロゴを見た柊凪は目を丸くした。
「えっ、これ有名なお店のやつじゃないか。いいのかい?」
「良くなかったらわざわざ持ってこないヨ」
軽口も添える――今の醜い
「それじゃ」
無理矢理貼り付けた笑顔のまま、2人に背を向けて病室の入り口にスニーカーの爪先を向けた――その直後、
「劉」
呼ばれて反射的に振り向いた――視界に映る柊凪。
あの日散々見ていた、へにゃっとした笑顔――まるで素直じゃない我が子を「しょうがないなぁ」と慈しむ親の顔。
「またおいで」
一瞬何を言われたのか理解しそびれた。
またぞろ湧き上がる
「……時間があれば考えるヨ」
曖昧な言葉で誤魔化して、再び背を向けて逃げるように病室を後にした――これ以上醜い自分を見なくて済むように。
駐車場――足早に自分の車に乗り込んだ。
しかしすぐには発進せず――シートにもたれて俯く――ビックリするほど醜い今の感情をきちんと整理しなければ、そこいらの通行人を車体で粉微塵にしかねなかった。
何故突然あんな風になってしまったのだろうか。初めて会ったときは平気だったのに。
両手で顔を覆う/ため息――初めて認識した感情に振り回されたせいでとんでもない疲労感と自己嫌悪に襲われる。
柊凪と出会ったことで気付いてしまった/気付かされた自分の感情――恐らくは
耐えられない――こんな醜くて辛いだけのものを、この先一生背負い続けなければならないなんて。
理解できない――こんな醜くて辛いだけのものを、一生背負って生きなければならないことを普通だと言う真人間たちが。
ああ――硝煙と血の臭いが/痛みを伴う暴力が/
携帯電話から電話の着信を告げる電子音――きっと痺れを切らした
どやされるのは嫌だ/早く帰らないと――あの刑事のことは忘れて――そうぼんやりと考えながら、ノロノロとキーを挿してエンジンをかけた。