世界を1つ、消すとして。
必要なものは、なんだろうか。
何もかも破壊する爆弾。
人を操れるだけの話術。
それらを実行するための権力や金。
これらは全て、過ぎたるものだ。
簡単な話だ。
人が持つ、世界を感じる器官。
それを全て、潰せばいい。
目を潰せば世界の色が。
耳を潰せば世界の音が。
全て潰せば世界の全てが。
綺麗さっぱり、消えていく。
思えばあの時から、既に始まっていたのだろう。
全国規模で、身体の不調を訴える者が急増したのは、今から3年ほど前のことだった。
症状はまちまちで、耳が聴こえづらい、視界がぼやける、においを感じない、などなど。
その時は皆、風邪かな、怖いね、なんて。
年の終わりにインフルエンザが流行るように。
手洗いうがいをしっかりしよう、くらいにしか考えていなかった。
それの異常性が確認されるのは、それからすぐのことだった。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。
要するに、五感のどれか。
どれか1つが、失われたのだ。
風邪の影響で感覚が鈍っているだけではないのか。
そんな楽観は、簡単に潰された。
一通りの身体検査を行った結果。
「明らかに感覚が消えている」。
「これは感覚が消える病気だ」。
大層な肩書を背負った偉そうな白衣が、画面の向こうでしきりに叫んだ。
感覚が消える病気。
そんなもの、聞いたことがない。
聞いたことがないのなら、それは新種というわけで。
頭のいい白衣達は、一斉に研究を始めた。
なにせ感覚が消えるのだ。
それも、全国規模で一斉に発症。
最悪のケースを、誰もが考えた。
そして、それはそのまま現実となった。
研究に研究を重ねたものに研究を塗りたくった結果。
感染経路も不明。
治療法も、予防法も不明。
そもそも病原体が物理的に体内に存在しているのかすら不明。
分かったのは、症状が進行するとどうなるのか、ということだけだった。
まず、五感のうちのどれか1つに異常が生じる。
五感のどれに、どれだけの異常が生じるのかは完全にランダムだ。
触覚なら温度が分からなくなるだけかもしれないし、視覚ならいきなり世界が真っ暗になるかもしれない。
だが、この違いは些細なもので。
異常が生じた感覚は、いずれ完全に消えてしまう。
そして、感覚が1つ、綺麗さっぱり消えたなら。
今度は、2つ目が始まるのだ。
そうやって、1つずつ。
5人でロシアンルーレットをしていくように、感覚が消えていき。
そして最後の感覚すらも消えた時。
それでも、死ぬことはない。
何も見えず。
何も聴こえず。
何のにおいもせず。
何の味もせず。
何に触れているか分からない。
そんな中、意識だけが生き続ける。
意識だけで、生き続ける。
正常でいられるわけがない。
狂わないわけがない。
壊れないわけがない。
言葉にすらなっていない何かを叫び。
暴れまわり。
それによって自分が傷付いている事にも気付かずに。
そんな姿を、誰も見たくなかった。
そんな姿を、誰も見せたくなかった。
双方の同意の下であるのを前提として。
末期患者を殺すことが合法化されるのに、そんなに時間はかからなかった。
医療機関による薬物投与などではない。
そんなことをしていられるほど、患者の数は少なくない。
人が、人を殺すのだ。
縄を。刃物を。水を。自らの手を用いて。
よく見知った人物の、息の根を止めるのだ。
感染はどこまでも広がっていった。
全国規模から、世界規模へ。
それは既に、国の存亡どころではなく。
人類という種そのものの存続に関わる問題にまで発展していた。
世界中で狂ったようにシェルターが作られ、残った非感染者をそこに押し込めた。
数年は生きられるだけの設備や資源と共に。
それが正解だったのかは分からない。
この奇病にとって、シェルターが全くの無意味である可能性は十分にあった。
だが、これしか手が無かった。
何もかも不明な奇病から逃れる、最も効果的に見える方法は。
外界と完全に隔離された世界に閉じこもることだった。
唯一、確かなことがあるとすれば。
私ときらりは、シェルターの中で生き続けることができたということだ。
シェルター内の物資が、全て尽きてしまうほどに。
「……どうしよっか。」
からっぽの倉庫を見渡し、私はきらりに問いかけた。
「どうしよぉ……。」
帰ってくるのは、困りきった声。
「お偉いさんも、こうなった時のことくらい考えといてよね。まったく。」
捨てるものすら無くなった空間に愚痴を吐き捨てる。
まあ、そんなことを悠長に考えていられたほどの余裕が、あるはずが無いんだけどさ。
さて。
食料が尽きてしまった以上、ここに留まってはいられない。
ここにはもう、死しか待っていない。
となれば、残る選択肢は1つ。
留まらないなら、外に出る。
人類が絶滅しかけるほどの奇病が蔓延している、外の世界に。
「……残って死ぬか、出て死ぬか。」
少しでも生きる可能性があるのは、ここから出る方。
外ならまだ、いくつかの保存食くらいは残ってるかもしれないし。
3年も経ったんだ、奇病が自然消滅なんてしちゃってたり。
……なんて、楽観的思考をしなきゃやってられないくらい、行きたくないけど。
「……出る?」
ぽつりと、きらりが聞く。
その表情を見て。
ああ。きらりが死ぬのは、見たくないなぁ。って。
そう、思ってしまったから。
「……出よっか。」
私は出口に歩み寄る。
これでもかというくらい頑丈に閉ざされた、重苦しい扉。
その前に立ち、目をつむる。
そして、深呼吸を1つ。
覚悟を決めて、その開閉レバーに手を掛け……
「……高っ!」
られない。
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら腕を伸ばすが、レバーは爪にかすりすらしない。
おい待てなんだこれは、責任者出てこい。
杏1人で入ってたらどうなってたと思ってるんだ。
「きらり、ヘルプ。」
そう言って、彼女へと振り向く。
きらりは恐る恐る、出口の前へと歩み寄る。
そして、右手をレバーに添え、ゆっくりと下に……
「…………っ、」
左手を握りしめ、俯いたまま。
きらりは、動かない。
ここに居たから、生きることができた。
その裏を返せば。
開ければ、死ぬかもしれない。
外気に晒された瞬間、奇病は私達に一斉に牙を剥き。
互いを感じる5つの感覚が、1つずつ消えていき。
何もかもが無くなって、それでも死ぬことはなく。
飢えて死ぬまで、生き続けるかもしれない。
怖くて当たり前だ。
怯えて当然のことだ。
だから私は、固く握った手に触れる。
「開けよう。……2人で、一緒に。」
一瞬、驚いたように目を見開き。
「……うん。」
気丈に振る舞うのでもなく、無理をしているわけでもない。
きらりの自然な柔らかい笑顔を見るのは、本当に久しぶりだった。
きらりは私を両手で抱え、レバーの前まで持ち上げる。
目の前のそれを、両手でしっかりと掴んだ。
「……いくよ。」
きらりが頷いたのを、気配で感じ取る。
両手を、思い切り振り下ろす。
重厚な金属音が響き、何重にもかかったロックが次々と解除されていく。
ブザーが鳴り、扉が開いた。
大きく息を吸い込む。
暖かい日差しを一身に受ける。
長い間、密室に閉じこもっていたからか。
外の空気は、それだけでとても美味しく感じた。
肌を焼く紫外線が、不思議と心地良かった。
吹く風の冷たさが、夏の終りを告げていた。
「大丈夫……っぽい?」
「た、多分……。」
身体のどこにも不調がないか確認しながら、キョロキョロと辺りを見回す。
信号機。アスファルトの道路。街路樹。立ち並ぶビル群。
シェルターに入る前と、何ら変わらない光景のように見えた。
しかし。
「……本当に、誰も居ないんだ。」
人々の喧騒も。
車のエンジン音も。
スピーカーから流れるCMも。
かつて確かに存在した、人が生きている証。
それら全てが、跡形もなく消え失せていた。
耳が痛くなるほどの静寂。
何か喋っていないと、聴覚が無くなったと誤認してしまいそうだった。
「取り敢えず、食べ物を探そう。」
そう言って、私はきらりの手を握る。
2人だけが取り残されていた。
時間が止まってしまっていた。
繋いだ手だけが、生きている実感をくれた。
3年ぶりの見知った街中。
この日、世界は死んでいた。