諸星きらりの子守唄   作:maron5650

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「海だなぁ。」

 

眼前の光景をぼうっと眺めながら、ぽつりと呟く。

 

「海だねぇ。」

 

私の隣で体育座りをしているきらりが、そう言って笑った。

それ以上、何も言わなかった。

何も、言えなかった。

 

潮の匂い。

裸足で踏みしめる砂浜の感覚。

透明なオレンジ色の空。

夕陽に照らされて紅く輝く、どこまでも広がる水平線。

言いたいことは、いっぱいあった。

伝えたいことは、山ほどあった。

 

でも。

彼女はそれを、感じていないかもしれない。

彼女の世界に、そんなものは存在しないのかもしれない。

そんな感覚は、とうに消えてしまったのかもしれない。

そんな事実を、思い知ってしまうかもしれない。

 

それが怖くて。それが嫌で。

それがもう、起こっているかも知れなくて。

だから私は、何も言わなかった。

 

「……きらり?」

 

ふと、彼女が立ち上がる。

差し出された手には、あの日作った紙。

 

「ごめんね。……この紙と、論文。見ちゃった。」

 

そう告げる彼女は、申し訳なさそうに笑っていて。

だから私は「そっか」とだけ返す。

紙をそっと受け取った。

 

それだけ聞けば十分だった。

彼女はこの紙がどういうものか知っていて。

私が彼女に隠れてこれを作ったことにも、きっと気付いていて。

その上で、私にこれを渡した。

その事実だけで、十分だった。

 

「……きらり、やってくれる?」

 

パーカーのポケットに入れていたナイフを左手で握る。

そのまま左腕を伸ばし、右手で左手首に紙を添える。

きらりは頷き、ナイフを手に取った。

私の手首を、彼女の左手に乗せ。

刃を、ゆっくりとあてがう。

 

「……っ、」

 

手首に熱が走る。

朱が1滴漏れ出して。

手首を伝って、紙に落ちた。

染み込んだ部分が、じわりとその色を変える。

 

「……杏ちゃん。」

 

きらりが紙から目線を外さないまま、私の名を呟く。

その表情は穏やかで。

彼女が怒っていないことに、取り敢えずほっとした。

 

「試しては、なかったよ。」

 

紙に滲む萌黄色を見つめながら、彼女が抱いているだろう疑問に答える。

私の肉体年齢は、10歳相当。

およそ発症するはずが無い、その証拠の色だった。

 

「ただ、そうなんじゃないかな、とは思ってた。」

 

私の身長は、丁度10歳頃にぱたりと伸びなくなった。

調べてみれば、そういう人間は認知される程度には存在するようだった。

ある日突然成長が止まり、そのまま歳だけを重ねていく。

私はどうやら、そういう人間のようだった。

 

「…………。」

 

きらりは、静かにその色を見ていた。

その表情は、変わらず穏やかで。

手首の熱が、脈動し始めていた。

 

「……きらり。」

 

私が発症しないと知って。

きっと、これから先。何年経っても。

自分と同じ苦しみを、眼の前の少女は味わわないと。

少女の世界は消えないと。

その確証を得て、そんな顔をする理由。

 

「波打際に触れたいなんて、許さないからね。」

 

彼女はやっと、紙から私に目を向ける。

その表情は、まだ、穏やかで。

 

「……杏ちゃん、いじわる?」

 

諦めたように、笑っていた。

 

「馬鹿。」

 

私はきらりに抱きついて。

きらりは私を抱き締めた。

握られていたナイフが、砂浜に落ちる音がした。

手の上にあった萌黄色が、潮風に運ばれていった。

 

「気付かれ、ちゃった。」

 

きらりの身体に顔をうずめた。

私の髪を、彼女の指がそっと撫でた。

彼女は同じことを考えていた。

私と同じことを考えていた。

 

「馬鹿。」

 

死ぬのなら、きらりの腕の中で。

その願望が無いわけではない。

むしろ、可能なら是非そうしたい。

 

「うん。きらりは、お馬鹿さんだにぃ。」

 

そんなことをしたら、きらりはきっと壊れるだろう。

そんなことをしたら、きらりはまともでいられなくなるだろう。

そんなことをしたら、きらりは後を追うだろう。

もう動かない私を抱えて、同じところへ逝くだろう。

 

「ばか。」

 

きらりには、生きてほしいから。

それはきっと、残酷な願いなのだろうけれど。

それでも、生きてほしいから。

私の想いを伝えた上で、自分自身で自分を殺す。

 

「……ごめんね。」

 

それと同じことを、きらりはずっと考えていた。

だから心底ほっとした。

私は死なないと。

感覚を全て奪われて、死すら自分で選べない。

自分が看取らずとも、そんな残酷な死に方はしないと。

自分が居なくなっても、目の前の人物はそんな状態にはならないと。

 

「ばか……。」

 

だから、死んでも大丈夫だと。

 

「……ごめん。」

 

彼女の世界に、温度は無い。

なら、彼女のワンピースに染み込むこれを。

気付かないでいてくれるだろうか。

その熱さを、感じないでいてくれるだろうか。

 

私が泣いてはいけなかった。

きらりが居なくなることを、悲しんではいけなかった。

私は生きていけるから。

きらりが居なくても、私は生きていけるから。

そうやって、強がらなければいけないから。

強がらなければ、きらりの望みを叶えられないから。

きらりの望みを、知ったから。

 

感じてほしくなくて。気付いてほしくなくて。

それでもやっぱり、気付いてほしくて。

せめて私は、我慢せずに声を震わせる。

 

 

 

 

 

ナイフの刀身が、紅く輝いた。

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