「海だなぁ。」
眼前の光景をぼうっと眺めながら、ぽつりと呟く。
「海だねぇ。」
私の隣で体育座りをしているきらりが、そう言って笑った。
それ以上、何も言わなかった。
何も、言えなかった。
潮の匂い。
裸足で踏みしめる砂浜の感覚。
透明なオレンジ色の空。
夕陽に照らされて紅く輝く、どこまでも広がる水平線。
言いたいことは、いっぱいあった。
伝えたいことは、山ほどあった。
でも。
彼女はそれを、感じていないかもしれない。
彼女の世界に、そんなものは存在しないのかもしれない。
そんな感覚は、とうに消えてしまったのかもしれない。
そんな事実を、思い知ってしまうかもしれない。
それが怖くて。それが嫌で。
それがもう、起こっているかも知れなくて。
だから私は、何も言わなかった。
「……きらり?」
ふと、彼女が立ち上がる。
差し出された手には、あの日作った紙。
「ごめんね。……この紙と、論文。見ちゃった。」
そう告げる彼女は、申し訳なさそうに笑っていて。
だから私は「そっか」とだけ返す。
紙をそっと受け取った。
それだけ聞けば十分だった。
彼女はこの紙がどういうものか知っていて。
私が彼女に隠れてこれを作ったことにも、きっと気付いていて。
その上で、私にこれを渡した。
その事実だけで、十分だった。
「……きらり、やってくれる?」
パーカーのポケットに入れていたナイフを左手で握る。
そのまま左腕を伸ばし、右手で左手首に紙を添える。
きらりは頷き、ナイフを手に取った。
私の手首を、彼女の左手に乗せ。
刃を、ゆっくりとあてがう。
「……っ、」
手首に熱が走る。
朱が1滴漏れ出して。
手首を伝って、紙に落ちた。
染み込んだ部分が、じわりとその色を変える。
「……杏ちゃん。」
きらりが紙から目線を外さないまま、私の名を呟く。
その表情は穏やかで。
彼女が怒っていないことに、取り敢えずほっとした。
「試しては、なかったよ。」
紙に滲む萌黄色を見つめながら、彼女が抱いているだろう疑問に答える。
私の肉体年齢は、10歳相当。
およそ発症するはずが無い、その証拠の色だった。
「ただ、そうなんじゃないかな、とは思ってた。」
私の身長は、丁度10歳頃にぱたりと伸びなくなった。
調べてみれば、そういう人間は認知される程度には存在するようだった。
ある日突然成長が止まり、そのまま歳だけを重ねていく。
私はどうやら、そういう人間のようだった。
「…………。」
きらりは、静かにその色を見ていた。
その表情は、変わらず穏やかで。
手首の熱が、脈動し始めていた。
「……きらり。」
私が発症しないと知って。
きっと、これから先。何年経っても。
自分と同じ苦しみを、眼の前の少女は味わわないと。
少女の世界は消えないと。
その確証を得て、そんな顔をする理由。
「波打際に触れたいなんて、許さないからね。」
彼女はやっと、紙から私に目を向ける。
その表情は、まだ、穏やかで。
「……杏ちゃん、いじわる?」
諦めたように、笑っていた。
「馬鹿。」
私はきらりに抱きついて。
きらりは私を抱き締めた。
握られていたナイフが、砂浜に落ちる音がした。
手の上にあった萌黄色が、潮風に運ばれていった。
「気付かれ、ちゃった。」
きらりの身体に顔をうずめた。
私の髪を、彼女の指がそっと撫でた。
彼女は同じことを考えていた。
私と同じことを考えていた。
「馬鹿。」
死ぬのなら、きらりの腕の中で。
その願望が無いわけではない。
むしろ、可能なら是非そうしたい。
「うん。きらりは、お馬鹿さんだにぃ。」
そんなことをしたら、きらりはきっと壊れるだろう。
そんなことをしたら、きらりはまともでいられなくなるだろう。
そんなことをしたら、きらりは後を追うだろう。
もう動かない私を抱えて、同じところへ逝くだろう。
「ばか。」
きらりには、生きてほしいから。
それはきっと、残酷な願いなのだろうけれど。
それでも、生きてほしいから。
私の想いを伝えた上で、自分自身で自分を殺す。
「……ごめんね。」
それと同じことを、きらりはずっと考えていた。
だから心底ほっとした。
私は死なないと。
感覚を全て奪われて、死すら自分で選べない。
自分が看取らずとも、そんな残酷な死に方はしないと。
自分が居なくなっても、目の前の人物はそんな状態にはならないと。
「ばか……。」
だから、死んでも大丈夫だと。
「……ごめん。」
彼女の世界に、温度は無い。
なら、彼女のワンピースに染み込むこれを。
気付かないでいてくれるだろうか。
その熱さを、感じないでいてくれるだろうか。
私が泣いてはいけなかった。
きらりが居なくなることを、悲しんではいけなかった。
私は生きていけるから。
きらりが居なくても、私は生きていけるから。
そうやって、強がらなければいけないから。
強がらなければ、きらりの望みを叶えられないから。
きらりの望みを、知ったから。
感じてほしくなくて。気付いてほしくなくて。
それでもやっぱり、気付いてほしくて。
せめて私は、我慢せずに声を震わせる。
ナイフの刀身が、紅く輝いた。