右手の中の大ぶりのナイフが、月明かりを反射する。
その光を、私はぼんやりと眺めていた。
1日目の夜は、マンションの一室で寝ることにした。
家具もベッドも何も無いのだから、どこで寝ようと寝袋を使うことに変わりはないのだが。
野外は勿論、かつて店だった場所で横になるのは、何だか落ち着かなかったし。
何より、認めてしまう気がした。
世界が何もかも変わってしまったことを。
最早私達の知るそれではないということを。
その実感を、得てしまうような気がした。
当然、頭の中では分かっている。
こんな行動に何の意味もない。どこで寝ようが違いはない。
しかし。
それを認めてしまえるほど、私達は強くはなかった。
記憶の中の常識を、もう必要ないと言われて。
はいそうですかと捨てられるほど、強くはいられなかった。
「……杏ちゃん、起きてる?」
こちらに背中を向けたまま、きらりが小さく呟いた。
反射的に、ナイフを鞘に入れ、服のポケットに隠す。
物資の選別中に、きらりに内緒で入手しておいたものだ。
布を裁断するとか、缶詰を開けるだとか。
そういった、サバイバルにおいてナイフが必要となりそうな場面については、十徳ナイフ等の道具で十分間に合っていた。
だから、2人で生き延びる上で、こんな物騒なものは要らない。
きらりはそう言ってこれを除けたし、私も口では賛同した。
その上で、こっそりとポケットに突っ込んだ。
「……うん。」
きらりに、考えてほしくなかった。
地上に出た生き残りが、物資を求めて殺し合う可能性なんて。
「寝られない?」
きらりが寝返りを打ち、私と目が合った。
私がこくりと頷くと、彼女は困ったように笑った。
今日は、寝付けそうになかった。
私も、きらりも。
「……ねえ、きらり。」
「うん。」
不安だった。
「大学に行けば、誰かと会えるかな。」
「……。」
怖かった。
「食べ物、足りるかな。」
「……。」
何もかもが不明瞭だった。
「……発症、しないかな。」
「……。」
等しく全てに確証が無かった。
「いつまで、生きられるのかな。」
「……。」
悪い方にばかり思考が及んだ。
「ねえ、きらり。」
「……うん。」
夜の暗さと静寂が、私を追い立て続けていた。
「もし。もしだよ? もし私が、発症したら。きらりは私を、」
「杏ちゃん。」
きらりの声が、とても近くから聞こえて。
私の名を呼ぶそれに、ゆっくりと顔を上げる。
そうして、やっと気付く。
いつの間にか俯いてしまっていたこと。
きらりが私の前に座っていたこと。
きらりの瞳に映る私が、今にも泣きそうな顔をしていたこと。
「だいじょーぶ、だいじょーぶだよ。」
きらりは両腕をそっと私に回す。
身体が彼女に包まれる。
きらりはそのまま、私の頭をゆっくりと撫でた。
「……ごめん。」
彼女も、同じはずなのに。
怖いはずなのに。
不安なはずなのに。
泣きたくてしょうがないはずなのに。
きらりは、ただ、私を受け止めてくれた。
「ううん。」
それだけのことで、私の身体は簡単に安心する。
同時に、思考が疲れを認識した。
今日はどれくらい歩いたんだろう。
ただでさえニートで通ってる人間が。
3年間、狭い密室空間の中で、最低限の準備運動くらいしかしなかった身体で。
1日中動き回っていたんだ。
私の腕も足も、いつの間にか悲鳴を上げていた。
それを自覚した途端、もう私は動けない。
自然と目蓋が下がっていく。
体温が染み込んでいく。
彼女に身体が埋もれていく。
「今日は、このまま。」
そう言ってきらりは、私の背中を優しく叩く。
ぽん、ぽん、と。一定のリズムで。
私はとうとう、目を開けていることができなくなって。
ただ、彼女の音を聴いていた。
「おやすみなさい、杏ちゃん。」
きらりの心臓の音に、彼女の声が混じる。
それは音符になり、小節を成し、音色を生み出した。
子守唄だった。
ゆったりとした、しかし前向きな子守唄。
先のことなんて分からないけれど。
いいことばかりでは無いんだろうけれど。
それでも、ゆっくり生きていこう。
ゆっくり歩いて、生きていこう。
柔らかいメロディと優しい彼女の声色が、そんな唄を囁いて。
それらは何の抵抗もなく、私の頭に浸透していく。
不思議だった。
生きろと声が聴こえても、反発も使命感も覚えなかった。
その声は、決して私を追い立てはしなかった。
ただ、ふんわりと同意した。
それが当然であるかのように。
言われたからやるのではなく、自分からやりたいと思わせた。
生きよう。
生きるために、頑張ろう。
そんな静かな決意をして尚、重苦しい気分にはならなかった。
沈んでいく意識の中。
身体と声に包まれて、私はふわふわ浮いていた。
目が覚めると、きらりに包まれたままだった。
顔を上に向けると、きらりが静かな寝息を立てていた。
頭の中がさっぱりしていた。
あれだけ私を蝕んだ不安や恐怖が、綺麗に消え去っていた。
「……ありがとう。」
眠るままの彼女に呟く。
きっと、私より寝られていないから。
そっと彼女から抜け出して、朝食の準備に取り掛かる。
穏やかな朝日に包まれて、きらりはすやすやと眠っていた。
彼女に包まれる幸せを、もっと感じていればよかったのに。