「……きらり?」
満月の夜だった。
草むらの上にシートを引いて。
いつものように眼を閉じて、彼女の子守唄を聴いていた。
いつものように辺りに響く、いつもと同じ彼女の唄は。
何故だろう。いつもと違う色がした。
「──、んゆ?」
きらりは声を聞き、その発生源に目を向ける。
私と目が合うと、彼女は柔らかく微笑んだ。
その表情は、いつもと何も変わらなかった。
「……いや。」
何だか、夜更かしをしたい気分なんだ。
そう伝えると、彼女は再び微笑みながら頷いた。
私は起き上がり、飯盒に水を入れて焚き火にかける。
「着くまで、どれくらいかかるかなぁ。」
「1週間あればなんとか、ってくらいだと思う。」
それは紅茶を淹れるまでの、他愛もない雑談のはずだった。
会話内容に、何もおかしいところは無いはずだった。
「……治療法、あるといいね。」
「……うん。」
なのに。どうしようもなく不安になった。
きらりが、ここではない何処かへ行ってしまうような。
そんな、漠然とした不安。
「ミルクは?」
「んー、今日はいらないにぃ。」
お腹の辺りがざわついていた。
とっくに気付けるはずのものが。
気付かなければならないものがある。
何かがしきりにそう叫んでいた。
「ありゃ、珍しい。」
マグカップを2つ取り出し、湯を注ぐ。
その中にティーパックを入れ、少し待つ。
2,3回バウンドさせてから取り除いて、完成。
両手に持ったマグカップの1つを、彼女へと差し出した。
「はい。熱いから気をつけて。」
きらりは両手でそれを受け取り、そっと口をつける。
こくりと喉を鳴らし、ほっと一息ついた。
「美味しい?」
いつものようにそう聞くと、彼女はこくこくと頷いた。
まるで、いつもと同じように。
だから私は、用意しておいた言葉を放つ。
「それ、ただの水だよ。」
マグカップが手から滑り落ちた。
笑顔が消え失せていた。
紅茶が手の甲にかかっても、彼女は何の反応も示さなかった。
「──ぇ、」
「嘘。ただの熱い紅茶。」
私の言葉を聞いて、彼女は自らの失態を悟る。
青ざめた表情がこちらを見ていた。
私は彼女の手首を握り、紅茶がかかった部分を水筒の水で冷やす。
早過ぎる脈動が、手を介して伝わっていた。
「……ごめん。」
一言。はっきりと謝罪を口にする。
嘘をついたことを。
隠そうとした秘密を暴いたことを。
そんな顔をさせたことを。
気丈に振る舞わせてしまったことを。
今に至るまでずっと、気付けなかったことを。
「でも、教えて欲しい。」
いつからだ。
いつから彼女は隠していた。
発症していないフリをして。
未来があるフリをして。
希望を持っているフリをして。
「きらりは、今までに。」
そうやって、私を励まし続けることを。
彼女はいつから続けていた。
「何を、失った?」
諸星きらりの世界から、何が綺麗に消え去った。
座ったままのきらりは私へと身体を傾ける。
私は立ち上がり、ゆっくりと倒れる彼女を受け止める。
私の胸の中に、彼女は収まった。
彼女は私の服を掴み、私は彼女の身体を包む。
彼女の手は震えていた。
私の手も、震えているのかもしれない。
きらりの肩が上がる。
彼女は息を吸い込んだ。
それを私に伝えるための。
その準備を完了させた。
服を掴む力が一層強くなる。
しっかりと彼女を抱き締めた。
眼を瞑り、耳を澄まし。
歯を食いしばって、その時を待つ。
そして彼女は、震える声を吐き出した。
「──匂いと、温度。」
決壊は止まらなかった。
「……抱き締めても、あったかく、ない、の。」
彼女は全てを吐き出し続けた。
感情の全てを叫び続けた。
「お人形、に、触ってる、みたいで……っ、」
私はずっと、それを聞いていた。
「こわいの……! 杏ちゃん、は、ここに、居る……のに……!」
頭の片隅で、ぼんやりと考えた。
「杏ちゃん、なんだよね……!?」
まだ、間に合うのだろうか。
「杏ちゃんは、あったかくてっ、いい匂いがしてっ、それで……!」
これから他の施設に行き。
研究成果を把握し。
それらを統合させ、治療法を確立させる。
きらりの世界が消える前に。
「おかしくなったのは、きらりなんだよね!?
杏ちゃんは、杏ちゃんのままだよね!?
杏ちゃんは、まだ、ちゃんと……っ!」
そんなことが、可能なのだろうか。
「きらり。」
そんなことは、どうでもいい。
「私はずっとここに居る。」
私はきらりを抱き締める。
温度が伝わらないのなら。
感触だけでも、伝わるように。
「見えなくても。触れなくても。聴こえなくたって。」
必死で平静を取り繕った。
手が震えるのを全力で抑え込んだ。
涙が出ないように食いしばった。
「私は絶対に、きらりの隣に居るから。」
普段のきらりがするように、優しい声を出そうとした。
「……ねえ。きらりは、これからどうしたい?」
決めていたことだったじゃないか。
想定していたことじゃないか。
覚悟していたことじゃないか。
「……わたし、は、」
彼女の望みを聞き。
彼女の望みを叶えた上で。
彼女と共に死ぬと。
「何だってしてあげるよ。」
殺せと言われれば殺してやる。
その時は一緒に死んでやる。
きらりの寿命が、私の寿命だ。
「……施設を巡るのは、治療法があるかもしれないから。だよね。」
私の聴覚が無くなったのか。
そう期待してしまうほど、彼女は腕の中で考え込んだ。
無くなってほしかった。
きらりと同じように、私の感覚も消してほしかった。
きらりと同じで居たかった。
「治したい?」
そんなことを言えば、きっときらりは悲しむから。
私はきらりに微笑みかける。
治したい。
一言そう言ってくれれば、何をしてでも治してやる。
だから。言ってくれ。
死ぬのは嫌だと。狂うのは嫌だと。
感覚の全てを奪い去られて、殺されたくなどないと。
「……行くの、やめよう。」
しかしきらりは、そっと首を横に振る。
その返答に、驚愕は覚えなかった。
只々心臓が握り締められるばかりで。
そして、只々ほっとした。
不思議な安心感すらあった。
存在するかどうかすら不明なものを追い求めて時間を浪費するよりも。
彼女には優先するものがある。
やっぱりきらりは、きらりのままだった。
「じゃあ、どうしよっか。」
きらりは顔を上げ、私の眼を見る。
彼女は、笑っていた。
寂しそうに。悲しそうに。
ただ、静かに。笑っていた。
「色んなとこ、見て回りたいなぁ。一緒に。」
私は、笑って頷いた。
実はさ、観光地のリストを見つけたんだ。
一緒に行ってみよう。
きっと、色んなものが見られるよ。
そんな会話を続けているうちに。
だんだんと、なんだか楽しい気分になっていった。
修学旅行の前日のように、わくわくした気分になった。
そうやって、頭の中をいっぱいにした。
そうしなければ、考えてしまうから。
これから先、1つずつ消えていくもののことを。
その最後に訪れる結末を。
だから私達は、そうやって目を逸らし続けた。
2人きりの、最期の旅行が始まった。