「よいしょっ、と。……大丈夫?」
翌日。
大学に戻り、私達は旅行へ向けて準備を進めていた。
「ばっちし☆」
車椅子に座り、多少身体を動かして。
問題がないことを確認したきらりは、顔の前で横向きにピースサインを作った。
シンプルな白のワンピースが、よく似合っていた。
現状のきらりが失っているのは、嗅覚と温度感覚……つまりは触覚の一部。
これから更に触覚が失われていくことが分かっている以上、対策が必要だった。
地面を踏みしめている感覚が無ければ、歩行も困難になるはず。
何か無いかときらりに聞くと、車椅子が大量に保管されている場所があるとのことで。
その1つを拝借することにした。
「はい、これ持って。」
「おっすおっす☆」
きらりが背負っていたリュックサックを彼女の膝に乗せる。
この中身も、大分少なくした。
旅行の期間は、そんなに長くはならないから。
必要最低限のものだけで十分だった。
やたらめったら持っていっても、重量に苦しむだけだ。
「よし……じゃ、押すよ?」
「らじゃっ!」
車輪が大きく、手で押せるタイプのものではある。
しかし、触っていることが分からなくなった場合、自分で押して進めるのかは不明だ。
私がきらりを車椅子ごと運べる必要があった。
しかし、私の体格で彼女と荷物が乗った車椅子を移動させられるかは、正直不安が残り。
早いうちに確認しておく必要があった。
私は車椅子のハンドルを握り、力を込める。
「……お。意外と……。」
すると、案外重さを感じることもなく、車椅子は動き出した。
10メートルほど進み、くるりと反転させて、着た道を戻る。
それを2~3回繰り返すが、どうやら問題は無い。
これなら、私1人でも彼女を移動させることはできそうだ。
「大丈夫そう、だね?」
背を向けたままのきらりが言う。
彼女の顔が見れないのは、結構な難点だな。
そんな呑気なことを考える自分が可笑しくて、笑ってしまう。
「じゃ、行こっか。」
準備は万端。
時間が限られている以上、行動は早ければ早いほどいい。
私が声をかけると、きらりは笑って頷いた。
顔は見られていないはずなのに、彼女の表情は不思議と感じ取れた。
「「しゅっぱーつ!」」
私達は同時に右手を挙げ、高らかに叫ぶ。
楽しい楽しい、修学旅行の始まりだ。
「こうして見るとさ。」
誰も居ない道を、2人で進む。
風の囁く音。
木々のざわめき。
柔らかな日差し。
「都会も存外、自然が多いね。」
あれだけ不安を煽っていた静寂が、今はなんだか心地良かった。
煩い人間が居なくなり、自然の声が聴こえるようになっていた。
私の言葉を聞いて、きらりは静かに頷く。
この世界の発する音に、彼女はそっと聞き入った。
会話らしい会話は、これといって無かった。
私達は自然の中に居た。
言葉を発さず、静かに歩く。
たったそれだけで、退屈することはなかった。
「飴たべゆ?」
きらりが膝の上のリュックを漁り、小さな袋を取り出す。
「ん。」
歩みを止めないまま、私は口を開ける。
「はいっ。」
上半身だけをこちらに向けて、きらりが私の口の中に飴玉を1つ。
「んー。」
コロコロと舌先で転がしながら、ゆっくりと溶けていくそれを味わう。
こんなことになる前に、きらりと旅行に行ったのなら。
きっと、こんな感じだったのだろう。
バスに揺られて、景色を見ながら。
彼女に差し出された飴を舐めて、これからの話を膨らませたのだろう。
宿に着いたら、どうしようか。
荷物を置いて、散策しようよ。
きらりの言葉に、私は顔をしかめて。
えー、ダラダラしようよ。それか温泉。
そう返すと、きらりはわざとらしく頬を膨らませて。
せっかくの旅行なんだから、色々見てみようよ、なんて。
そんなくだらないやり取りをしながら、顔を合わせて笑ったのだろう。
でも、私の前に居るきらりは車椅子の上で。
彼女の表情は見えなくて。
くだらない会話なんて、1つも無くて。
外に出るのを私が渋ることも、あるはずがなくて。
飴の味だけが、のっぺりと甘かった。
「ああ、あそこじゃない?」
道の左側、ガードレールの向こう。
崖の下に、白い花畑が見えた。
地図には無いはずの、どこまでも広がる花々。
こんなことになってから、どこかの誰かが植えたのだという。
「……あれ、なんてお花か、知ってゆ?」
花畑。
きらりが好きなはずの可愛らしいそれを見て、しかし彼女は落ち着いていた。
もう一度、今度は目を凝らして花畑を見つめる。
「んー? ……ああ。」
その花は、図鑑で見たことがあった。
きらりが何故こんな反応をしたのか。
その答えと同時に、私は花の名前を手に入れた。
「待雪草。」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
冬の終わりから、春先にかけて咲く白い花。
今の季節では咲かないはずの、残酷な意味を抱く花。
何故だろう。咲いていることに、違和感は覚えなかった。
その花は、どうしようもなく世界と調和していた。
「……ここは、最後にしよっ?」
最後。
私達の旅を、ここで終える。
この花が咲く場所で、私達を。
「……うん。」
これ以上、言葉は無かった。
あってはいけなかった。
この意味は。この感情は。この言葉は。まだ。
伝えてはいけないことだから。
贈ってはいけないものだから。
私は車椅子を半回転させ、着た道を戻る。
また私達は、ここに来る。
その時になったら、私は伝えるんだろう。
その時になったら、彼女は伝えてくれるだろうか。
飴をくれたように、贈ってくれればいいな。
舌に残る優しい味を、名残惜しく確かめる。
雪のしずくは、静かに待ち続けていた。