(ま――拙い拙い拙い!)
”赤”のアーチャーが”赤”のライダー相手に苦戦している間、アルはまた別の意味で危機を感じていた。
アルの視界に、戦場は二つの波がぶつかり合っているように見える。ミレニア城塞側から発する波と、その逆の波。即ち、”黒”と”赤”の勢力争い。所々に生じる渦巻きのような空白は、サーヴァントが戦っている場であろう。どちらの陣営の、何のクラスかまでは判らないが……。
以前怒られた双眼鏡は持っておらず、肉眼で戦場を眺めているだけなので、詳しく何が起きているかまでは判らない。が、大局を見る分には特に支障なかった。
「波」の勢いは、明らかに”黒”の陣営が圧している。
恐らく原因は、旗頭を担う英霊がいるかどうかの違い。”黒”の波は先頭にサーヴァントを擁しており、まず彼(彼女)が敵軍を攪乱、こじ開けた穴に雑兵を殺到させることで、優位を保っている。対する”赤”の陣営の波は、数こそ多かったものの、対抗するサーヴァントがいないのか、やられるがままになっている。
つまりこの戦争、現時点では黒の優勢。
そして実際、このアルの観測は、大きく間違っていなかった。
黒のホムンクルスたちは、先頭に立つバーサ―カーに続いて突撃し、竜牙兵を壊滅状態に追いやっていた。またサーヴァントにしても、”赤”のセイバーと”黒”のライダーが相打ちで消滅。数の上では双方一騎ずつ喪ったかたちだが、黒からすれば、セイバーという難敵の撃破は、ライダー一騎で充分おつりが来る。
少なくともこの戦場は、”黒”の勝利と呼んで差し支えない。これは”赤”の陣営の認識も同じだった。
――と、それだけならば何ら問題ない。
アルたちにとって問題なのは、この時点でアーチャーが敵――”赤”のサーヴァントを仕留めていないことである。
事前の取り決めでは、アーチャーが敵を一騎でも倒した場合、速やかに戦場から離脱するとしていた。さっさと退避し、安全を確保したうえで黒に取り入る計画である。
しかし一向に彼女はアルの許に戻ってこない。倒しきれないのならば、それはそれで、すぐにでも撤退しなければならないが、それさえできない状況下にある、ということか。
このまま赤との戦闘が長引いた場合、最も窮地に立たされるのは自分たちである。
他の部分に戦力を割いていた”黒”も、これほどの優勢に立てば、いよいよアーチャーの戦闘に介入してくるだろう。敵が仲間割れを起こしているのだ。これ程の好機はあるまい。まとめて始末する、という方向に動くはず。
それでも”赤”のサーヴァントは良い。あの空飛ぶ要塞に逃げかえれば、黒も早々手は出せまい。だが、自分たちは?
(いざとなれば令呪で退去させるとして――とにかくアーチャーに伝えないと! でも……)
連絡手段がない。
まさか電話をかける訳にも、ここから叫ぶ訳にもいかない。
たかが話すことさえできないとは、マスターとしてここにいる意味すらないではないか。
刻一刻と戦況は黒に傾いている。苦戦しているのなら、アーチャーには戦場を概観する余裕などないかもしれない。早く伝えなくては、伝えなくてはならないのに――!
いや。
待て……。
頭痛がした。
脳が攪拌され、爆発するような痛み。
何だ、これは……?
それは確信。全てを思い出したなら、自分は……。
でも、まだ大丈夫。まだ……。
#
『アーチャー! 黒が勝ちかけてる! 令呪使ってでも逃げないと!』
不意に脳裡で響いた声に、しかしアーチャーはすぐさま事態を呑み込んだ。顔はまだアキレウスを睨みつけ、敵に覚られないよう返答する。
『マスター、念話が使えるようになったのか』
『念話? いやそんなことより――』
『判っている。だが、令呪は使うな』
『じゃあどうやって……』
『その代わり宝具の使用許可を貰いたい。それも二回分』
『判ったから打って良いから! 相談とかなしでいいから早く逃げて――!』
「……少しは悩まんか、愚か者」
念話を切って、アーチャーは密かに鼻を鳴らした。
彼女に未練はない。アキレウスは真っ向勝負で倒せない、という事実を淡々と受け止め、だが「真名・アキレウス」は手土産には充分である、という計算を行い、勝つための手段を捜すことは止めない。
不死身の英雄、アキレウス。彼を打倒し得る策などあるのか?
たったひとつ、彼女には、小さな予感があった。
「ライダー、今宵はここまでのようだ」
言うと、アキレウスはぽかん、と口を開けた。
「あぁ!? おいおい、そりゃないぜ姐さん! ここまで来たら決着付けるのが筋だろう!」
子供っぽく喚く彼を見、アーチャーは苦笑する。
(なる程――どこか既視感があると思ったが……。確かに彼奴の面影があるな、この
「それに――そうだ、俺から逃げられると思ってるのか?」
「やりようはある」
「へぇ……それはそれは」
アキレウスは知らず笑みを浮かべ、脚に力を籠めた。
アーチャーの一挙手一投足を注視する。
さあ、彼女はどうやって逃げるつもりだ? 走るか? 障害物でも召喚するか? それとも姑息に令呪で転移するか? 必ずや自分はそれに追い付き、屠ってみせよう。
その時、如何にも無粋な念話が飛び込んできた。
『カルナさん、アキレウスさん、撤退して下さい』
シロウの念話に対し、即座にカルナが『了解した』と返答する。
『アキレウスさん? 撤退を――』
まったく忌々しい。奥歯を噛んで、アキレウスは念話を黙殺する。この思わぬ好敵手との決着に水を差すとは……。
両者は睨み合い、周囲の空気は痛いほど張りつめる。
戦場の音は遠退き、細く長い風が間を吹き抜けていく。
――刹那。
アーチャーの姿が掻き消え、真空を作った。
アキレウスの眼は彼女の姿を精確に捉え、即座に肉薄する。
矢を番えるアーチャーに、無駄だ、と叫ぶ。お前に俺は傷付けられぬ、と。
しかしアーチャーは弓をこちらへ向けず、そのまま天空へと構えた。
(――?)
瞬間の逡巡。
「我が弓と矢を以て加護を願い奉る」
アーチャーが番えしは二筋の矢。狙いは遠く、空へ、雲海へ、天上へ――。
範囲指定・極狭域。二発分の魔力をこの一撃に込める。
三発分だったらマスターは死んでいたな、と、
「ここに災厄を捧がん――『
天と地を結ぶ一射。その美しさに目を魅かれ――。
そしてアキレウスは、頭上に降り注ぐ光の雨を見た。
それは油断ではなく、況して慢心でもなかった。
降り注ぐ雨――超高密度の光の矢を見た瞬間、アキレウスは納得した。確かにこれなら取り逃がすかもしれない――と。この攻撃に逃げ場はなく、この場に立って防御に専念するしかない。視界も塞がれるだろう。
(”盾”を出すか……?)
一瞬、思案する。
が、それは即座に破棄。ただでさえ魔力喰いの自分が二つも三つも宝具を発動しては、これまで何の連絡も寄越さなかったマスターも、いい加減耐えかねるだろう。
それに――盾など出さなくとも、この攻撃は通じない。
彼女の矢は己の肉体を傷つけること能わず、その条件を満たしていないのだ。であれば、防ぐのは踵のみ。
豪雨の中、槍一振りで雨を断ち切った英雄などいないだろう。だが、踵だけならばどうにでもなる。自分はただこの場所で、弱点を守り抜けば良い。
決して油断ではなく、況して慢心でもない。これまでの戦闘から得られた合理的判断、最適解――のはずだった。
故に――故にこそ、宝具は一撃必殺。
アーチャーが予感した、アキレウスを打倒し得る最初で最後の機会。
「……ッ!?」
弾き洩らした一矢が肩に突き刺さった時、アキレウスは己の失策を覚った。
矢は肩に深々と突き刺さり、赤い血を流している。この矢は――己の躰を傷つける!
はっと見上げれば、もう空は見えない。
光の雨が――尽きる事のない豪雨が頭上を覆い、その全てが……。
アキレウス――誰もが知る不死身の英雄。
彼を傷付けるには、たった二つの方法しかない。
ひとつは弱点――踵を傷つけること。弱点たるそこを損なえば、不死の肉体『
もうひとつは、攻撃手がアキレウスを上回る神性を持つか、或いは神造兵器を用いること。これだけである。
当然、”赤”のアーチャーは彼の踵を傷つけられず、また神性などなく、神造兵器を持ってもいない。
だが――”攻撃手”は違う。
アーチャーが
それは矢文。加護を求める訴状に過ぎぬ。
文の宛先は天上に住まう、彼女の信仰――「
切なる歎願を聞き入れ、荒ぶる神は加護を与える。
『
神が与えし、光の雨である。
アキレウスはただ、ただ、槍を振るい、降り注ぐ矢を弾く。
防ぐべきは頭と心臓――霊核が宿る場所。それ以外は全て放棄。踵すら守るに値しない。
雨は最初の激しさを保ったまま、今もこの地に禍を齎す。
豪雨の中、槍一振りで雨を断ち切った英雄などいないだろう……?
ハ、と笑い飛ばす。
それがどうした、と。
誰も為したことがないならば、己が最初に為すだけのこと。
それこそが大英雄の
矢は腕に、脚に、胴体に突き刺さる。肉を抉り、骨を削り、血を流し、躰を引き裂く。
しかしてなお――槍の閃きは寸毫も鈍ることなく。
英雄は咆哮する。
「オ――オオオオオオオオオオ!」
#
破壊の限りを尽くされた地に、男が孤り立っている。
何もかもが灰燼に帰した大地に、槍を構えるその雄姿。
身体中を矢で貫かれ、しかし笑みを浮かべるその顔には、ひとつの矢もなく。
胸に僅か一本の矢が突き刺さるほか、急所へ注ぐ雨すべてを防ぎきってみせた。
それは正しく大英雄の偉業。誰も為し得ぬ絶技。
「油断したか……? いや……」
倒れるような無様は晒さない。槍にも倚らず、最後まで二本の脚で大地に立ち続ける。
「ああ、なんだ、そうか……」
今更になって、ようやくアーチャーの真名に思い至った。
霊核を貫かれ、躰が粒子に変わりゆくなか、アキレウスは思い出す。
いつだったか、父が話していた――彼女のことを。
その美しさを、猛々しさを、誇り高き姿を。
まさか出逢い、果たし合うことまでできるなんて、何という幸運か!
ただそれだけを以て、彼は此度の召喚に満足した。
それにしても、親子二代に亙って敗北を喫するとはな……。
全10万字予定なので、そろそろ折り返さないといけないが…