霧が出始めた頃、偶然にも、アルと”赤”のアーチャーはその付近を歩いていた。
「あれ? 霧かなぁ」
暢気に呟くマスターを、アーチャーは天高くぶん投げた。
これがサーヴァントの仕業であると確証はなかったが、警戒し過ぎて悪いことはない。とにかくマスターの安全が優先である。
「ああえぇぇ……」
遠くなる叫び声を聞きながら、霧を吸い込む。
「なる程な……」
サーヴァントの身に害を及ぼすほどではないが、敏捷のランクが低下するようである。尤も生身の人間が吸い込めば、ものの数分で息絶えるだろう。魔術師が防護を張れば別だが、あのマスターでは……。
自分には目くらまし程度の効果しかないが、敵の狙いに乗ることもない。
そう判断し、アーチャーは跳躍し、霧を抜ける。
さて、投げ飛ばされたアルは、夜空に美しい放物線を描こうとしていた。
「ああぁぁあ……」
口からは意味のない叫び声が溢れ、視界はぐるぐると回り、上を向いているのか下を向いているのか判らない。
とにかくこれより上昇するのはまずい。ぎゅっと眼を瞑った刹那、さらに上への加速を感じた。
「え……?」
どうやら何者かに抱えられているらしい。見上げるとアーチャーの顔が見えた。
アルが打ち上げられた数瞬後、放物線が頂点を迎えるより前に、アーチャーが跳び上がった勢いのまま、彼を抱きかかえたのである。仮に霧が敵サーヴァントの燻り出しだとしても、ぎりぎり防げると判断しての行動であった。
アーチャーは胸元のマスターを一瞥し、目標に目を向けた。
器用に衝撃をころして、民家の屋根に着地する。
眼を白黒させているマスターを放すと、彼はごろりと転がり、「いて」と声を上げた。
「訊きたいんだけど」上半身を起こし、アルは細やかな抗議を試みる。「前に比べて、俺の扱いが雑になってないか?」
「そうか?」
アーチャーは生返事をしただけで、視線は街を見下ろしている。
彼女の視線を追うと、白い霧に沈んだ街が見えた。
「うわ、何で急に……?」
「宝具だな」
「うん……」
彼女への不満など忘れ、素直に頷く。街の一画だけを覆う霧は、不思議というより不気味だ。
「敵の狙いは……」
そうアルが言い掛けた時、地響きと放電のような音が、同時に響き渡った。
「既に戦闘が起きているな――つまり吾々が狙いではない」
「そうかもしれないけど……。じゃあ、誰が戦っているんだ?」
そう言って首を傾げる。
”赤”の陣営が城から出張ってきたとは考えにくい。そして自分たちが狙いでもないとすると……。
ふと思いついたように、アーチャーが口を開いた。
「陣営もクラスも判らないが、以前新聞で見た――あれではないか?」
「あれ?」
曖昧な表情で頷くマスターを見、アーチャーは眉間に皺を寄せた。
「頻発していた殺人事件だ。あの下手人が、魔力喰いを目的としたサーヴァントだとすれば――というような話を、前にしただろう」
「――えっと、つまり、黒同士の仲間割れって可能性もある?」
ようやく頭が回転を再開したのか、アルが顎に手を当てて言った。夜間飛行の混乱からは回復したらしい。
頷いて、アーチャーは濃霧を透かし見る。
内部の様子は、彼女の高い視力をもってすれば、朧ながらも判別できる。どうやら追う者と追われる者に分かれているらしいが、しかしこの霧は……。
「ひとまず我らは静観する。良いな?」
「あ、うん」
素直にアルは頷いた。アーチャーの戦闘方針に反対するつもりなどない。
「あと、あの霧を吸い込むなよ」
「判ったけど、どうして?」
「あれはただの目くらましではない。一般人にとっては、数分で死に至る毒霧だ」
「数分で……。え、じゃあ」
口を開け、アルは次第に濃度を増していく霧に視線を向ける。その様子を、アーチャーは怪訝な様子で見つめた。
「どうした」
「いや、だって……。夜っていってもまだ早いだろ? あの辺りには関係のない通行人も……」
「だろうな」彼女はあっさり首肯した。「だが、吾々には関係ない。ここ数日の不穏な空気――それをおして夜間に外出していたのは、彼らの決断だろう。よくある不運だ」
「それは――」アルは言葉を切って、上を見る。「まあ、それもそうか」
自衛を怠ったのは彼らの責任である。あとはもう、事故に巻き込まれたようなものだ。
そうして納得し――。
(え……?)
何故自分は、そんな理由で納得した?
アルは自分の思考をなぞり、愕然とした。
普通の善人なら、たとえ他人だろうと、救おうとするのではないか?
以前にも、こんな冷酷な思考をした憶えがある。記憶を失う前から続く、自分の本性がこれなのか?
だが今更善人ぶって救いに行くとは言えず、アルは沈黙して屋根に座り込んだ。
自身に仄かな失望を抱きながら……。
それは僅かな変化だった。
「あれは……」
黙って霧を見ていたアーチャーの表情が、ほんのすこしだけ硬くなった――とアルは感じた。表情というより、身に纏う空気がざわついた、というべきか。
それは彼女の顔色をおどおど窺うことの多い彼だから気付いた変化であって、恐らく他人が見ても判別できないだろう。
しかしそれしきの変化を問いただすのも気が引け、何となく躊躇していると、不意にアーチャーがアルを見つめ返した。
「!」
慌てて顔を逸らすと、彼女は舌打ちをひとつ残して、また視線を戻した。
何か気分を損ねるようなことをしただろうか――と考えるが、心当たりはない。正確に云えば、心当たりはあるのだが、数多く存在する心当たりの中に、舌打ちを受けるほど突出して不味いものはなかった、という判断である。
首を捻っていると、アーチャーに名を呼ばれた。
「マスター」
「な、何?」
内心冷や汗をかきながら返事する。
「私はこれから霧の中へ入る。汝はここにいろ」
「え? えっとそれは……」
「すまないが罠を張る暇はない。危険はないだろうが、いざとなれば令呪で呼べ。では――」
彼女の作戦に口を挟むつもりがないとはいえ、流石に面喰った。霧の向こうから聞こえる戦闘音に変化はないが、それほど状況に変化があったのか。
「ちょ、せめて説明を――」
アーチャーの服の裾に手を伸ばし、そう言い掛けた時。
「――――!」
何者かの絶叫と、耳を突き刺す轟音、視界を埋め尽くす白が同時に襲った。
咄嗟に目を覆ったが、回復には数秒を要した。
首根っこを掴むアーチャーの手を感じていたが、移動する様子がないことから、攻撃を仕掛けられたわけではないのだろう。
眼をごしごし擦り、アルは視界を確かめる。
「眼に異常はないか、マスター」
「あ、ああ……」
最初にこちらの瞳を覗きこむアーチャーの顔が見えて、ひとつ安堵する。
次に彼女の後ろ、街の様子がはっきりと見えた。
「霧が……」
指差すと、アーチャーも頷いた。
何が起きたのか判らないが、重く立ち込めていた霧が晴れていた。よく見えるようになった街並みは、そこかしこが黒く焼け焦げ、破壊され、見るも無残な様相である。観光都市の面影はない。
しかし戦闘が終わった訳ではないらしく、また爆発音と震動が伝わってくる。
「霧は完全に晴れたな――」アーチャーが翡翠の瞳を瞬いた。「では汝も連れて行く。舌を噛むなよ」
「え?」
アルの躰は、再び宙を舞った。
前にも彼女に抱えられ、移動したことはあったが、今回は少々勝手が違った。
どうやらアーチャーは、横にではなく、主に上下に移動しているらしい。屋根から路地へ、路地から屋根へ。落下と上昇を繰り返すその動きは、狙撃地点ではなく、もっと別の何かを捜している。
当然アルの躰は上へ下への重力に振り回され、胃袋は打ちのめされ、早々に酔っていた。前回で多少耐性がついたらしく、幸か不幸か、どうにかまだ気絶しないでいられている。
「令呪を使って転移したな。だが近距離だ」
何事かアーチャーが呟いたが、それが何を意味するのか、理解する余裕はない。とにかく歯を食いしばり、遠退こうとする意識を引き留めるので精いっぱい。
唐突に、脳の攪拌は終わった。
先ほどと同様、アーチャーが屋根にアルを放り出す。今度は受け身がとれた。
「いたな――」
アーチャーが目を向ける先、アルにも見えるほど近くの路上に、その二人はいた。
一人は、薄手の衣裳を纏った、妖艶な雰囲気を漂わす女性。
もう一人は、彼女に縋るようにして、全身から血を流す年若の少女。
それと同時、アルの脳内に閃くイメージ。
――『筋力C/敏捷C/耐久A/魔力C/幸運E/宝具C』
あの少女が――サーヴァント?
信じられない思いで、彼女を見つめる。サーヴァントとは、全盛期の姿で召喚されるのでは……。
ということは、傍らの女性がマスターということになるが――しかし……。
周章狼狽するアルの横、アーチャーが滑らかな動作で弓を手にした。
そのまま矢を番え、眼下へ狙いを定める。
「ま――待って、アーチャー」
思わずアルは、彼女の前に身を躍らせた。
「……何をしている?」
眼を細め、アーチャーは彼を睨む。
「えっ……あっ……」
舌が口蓋に張りついたように、声が出ない。
冷たい汗が背筋を流れ、身体中が痙攣する。
どうにか呼吸を落ち着かせる。今は――怯えている場合ではない。
「お、俺でも判る。あ、あのサーヴァントは、もう霊核を砕かれてるだろう? だから」
「ああ、私が狙っているのはマスターの方だ。判ったなら退け」
彼女は弓を下ろしていない。番えた矢は、アルの胸を指している。
「ち、違うんだ。あのマスターは――違う」
「…………」
「違うってのはつまり――あのマスターは魔術師じゃない!」
「……それで?」
「それで……」ぱくぱくと口を動かし、言葉を探す。「ほ、ほら、前に資料を読んだだろ? それに黒と赤のマスターが載っていたけど、あの人の写真は載っていなかった! だから違って――」
「だから何だ」
「だから……そ、そう! 確かに急遽マスターが変わったのかもしれないけど、だとしたらあのサーヴァントに治癒魔術を使うはずだろ? それをしないってことは、魔術師じゃない! 俺みたいにただ巻き込まれただけの一般人なんだよ多分――」
咄嗟に考えたにしては、それなりに筋が通っているぞ、と自己評価する。
勿論、マスターを生かしておいては、他のサーヴァントと再契約する可能性があることは知っている。だが、巻き込まれた一般人ならそんなことはないだろう。アーチャーの危惧は杞憂であり、わざわざ殺す必要はない。
――と、アルはこう考えている。と信じている。
彼は自分と同じ境遇の人間に仲間意識を感じ、同情し、殺すようなことはないと請願している――気になっている。
だが実際のところ、この主張は言い訳に過ぎない。
先ほど、霧に巻き込まれた一般人を見捨てた、冷酷で恐ろしい自分から目を逸らすための、己に対する言い訳。
自分は、本当は善良な人間なんだ――と。
幼児のように喚いているだけ。
しかし彼にその自覚はない。あくまで自分の良心と正義感が言わしめているのだと、思い込んでいた。
アーチャーは彼が早口で叫ぶすべてを聞き、そうか、と頷いた。
そして矢を放った。
障害物を片足で蹴り飛ばし、開いた視界の真ん中、少女を抱くマスターの心臓と頭を貫いた。
屋根を転がった後、蹴られた腹部を押さえながら、アルは路上に崩れ落ちる女を見た。
少女と女は寄り添うように横たわった。
「……どうして射った、アーチャー」
矢を打ち放った姿勢のまま、街を見下ろすアーチャーに詰め寄る。
「アーチャー!」
「どうして、だと……?」
ゆっくりと、彼女がこちらを見返した。
唾を飲みこみ、その視線に真向から向き合う。
「――あのマスターは子供を巻き込んだ。そんな人間にかける慈悲はない」
「子供……? 確かにあのサーヴァントは女の子だったけど――」
「そうではない!」
はっと見つめたアーチャーの顔は、怒りで染まっていた。
「アーチャー……?」
ただその名を呼ぶ。自分がどんな失敗をしても、これほど彼女の顔が歪むことはなかった。
そこでようやく、アルは自分が何かとんでもないことをしたのだと気付いた。
理由や事情もなく、アーチャーが激することなどあり得ない。
それほどまでの――何があった?
「ご、ごめん、でも俺は……」
震える唇で謝ろうとした時、彼女がそれを遮った。
「待て――何か――」
「え?」
詳しく問う前に、アルもそれを感じた。
(何だ――何だこの――悪寒は?)
寒々しく背筋を這い回る感覚に、身震いする。
ただ、アーチャーが感じていたものは微妙に違った。
彼女が覚えたのは――恐怖。
強大な敵へ抱く恐怖ではない。過酷な逆境に対する恐怖でもない。今更そんなものを畏れることはない。
恐怖するのは――ある確信。
何が?
彼女はそれをマスターの窮地と解釈し――、アルの腕を摑んだ。
「私の傍を離れるな、マスター!」
そうして、あたりに