生前、様々な邪悪を見た。
人の為す悪徳と、その結果生まれた地獄を見た。
見た――はずなのに。
しかしあんなものがあるなんて、想像だにしていなかった。
誰も悪くない地獄。
一人の、あるいはもっと大勢の悪人を殺せば終わる、そんな話ではなかった。
どうすれば終わる?
誰を救えば終わる?
声が。
”――彼らを救う術は、もうない”
遮断しろ!
耳を塞げ!
”――聖杯に、そんな力はない”
戯言だ!
不実だ!
けれど。
もし、本当に救う方法がないとしたら……。
放置する悪と、処理する悪しかないとしたら……。
私はどうすれば良い?
他に道があるなら、その僅かな糸さえ摑んでいれば、聖女を悪だと弾劾できるのに。
誰が間違っている?
誰も間違っていない?
それとも。
答えを誰も見つけてないだけ?
あるはずだ……。
なくてはならない。
そうでなくては――。
#
昨夜起きたシギショアラの昏倒騒ぎが、世間ではどう報道されたのか、アルには興味がなかった。
だから彼が新聞を手に取ったのは、自分の意志ではない。他人に手渡されてのことである。
「『ガス漏れで死傷者多数』……? こんなので皆納得するんですかね。巻き込まれた子供が無事だったことも、特に説明はないし……」
一面記事にざっと目を通すが、大した情報は記載されていない。責任をとって配管工事の責任者が辞めたとあるが、その程度である。
「他に説明のしようがないからな。陰謀論にも限度がある」
新聞を渡した男――カウレスが、興味なさそうな口調で言った。以前の彼であれば、一般人の被害者を出したことに心を痛めたかもしれないが、もうそんな余分な感情は残っていなかった。わざわざ新聞を持って来たのは、単に会話の糸口とするためである。
シギショアラの観光名所がひとつ、時計塔。
その下にあるベンチに、二人のマスターは並んで腰かけていた。サーヴァントは実体化していない。目の前では、大勢の観光客が騒がしく行き来し、写真撮影などに興じている。
アルがこの場所を指定したのは、当然襲撃を警戒してのことであった。真っ当な魔術師であれば、日中、それも大勢の一般人を巻き込んでの戦闘はしないだろうという推測からである。
お客さんなら喫茶店に招いて珈琲の一杯も淹れたかな、と暢気な考えが頭を過った。
だが、彼は客ではない――少なくとも今は。自分がこうして敬語を使う理由も、敬意ではなく警戒の印だと判っているだろう。
「それで、訪ねてきた用件は何ですか?」
アルは新聞を畳み、脇に置いた。例の記事のほか、興味を魅かれるような内容はなかった。
「じゃあ、本題に入ろう」カウレスが真剣な表情を浮かべて、顔の前で手を組んだ。「昨日の”黒”のアサシンとの戦闘、お前たちも参加してたんだろ? それにアーチャーの報告によれば、どうも”赤”とは手が切れてるらしい」
肯定も否定もせず、アルは前を見続ける。
カウレスは眼鏡に軽く触れて、言葉を続けた。
「今、俺たち”黒”の陣営は、あの城攻めを予定している。明日か、遅くても明後日には攻めるつもりなんだが。つまり、そこに加わらないか――と、提案しにきた」
どうだ? と眼鏡の奥の瞳が瞬きする。
一も二もなく飛びつきたくなるのをぐっと堪え、アルはゆっくりと思案を巡らせる。
「そうですね……」
願ってもない申し出であることは間違いない。黒との共闘は、勝利のための最低条件。それを向こうから提案してくれたのだ。理想の状況といえる。
だが、待ってましたとばかりに受け容れては足元を見られる。何か不利な条件を付けてくるつもりかもしれない。ここは情報収集に徹するべき。
『アーチャ――』
アーチャーに念話を送りかけて、慌てて途中で止めた。
本来ならばこれは彼女と相談するべき案件だが、しかし……。
あれからアーチャーと、一度も話していない。何と声をかければ良いのか判らなかったし、彼女も霊体化して姿を消してしまったからだ。それは無理もないことといえた。
直接聞いたわけではないけれど、アーチャーが聖杯に託す望みは、全ての子供が救われること。そしてルーラーは、聖杯でその願いは叶えられないと否定した。
もしルーラーの言葉が真実だとすれば――アーチャーが聖杯を獲る理由はなくなる。
聖杯は……。
聖杯?
アルは一瞬何かを閃きかけたが、すぐにその画は散逸し、形を成す前に消えてしまった。
とにかく、いずれ彼女と話し合う必要はあるにせよ、今ではない。ここはマスターである自分が、交渉に臨むほかない。
「いくつか質問しても良いですか?」
「どうぞ」
カウレスが軽く頷いた。
「”黒”の陣営の戦力は?」
「それは、味方になると言ってから教える」
「”赤”のサーヴァントについて判っていることは?」
「それもだ」
「本当に? 実は判っていないんじゃ……」
「すぐばれる嘘を吐くと思うか? ごたごたしたが、何とかまだ霊器盤は持っている。サーヴァントの状況は一目瞭然だ」
「…………」
まあ当然か、と心の中で溜息をつく。このまま続けても、有力な情報は得られまい。
これはアプローチを変える必要がありそうだ。
「えっと……貴方はユグドミレニアの当主じゃないですよね。ここで共闘すると言って、その決定権は貴方にあるんですか?」
「心配しなくとも、この会話はダーニックに聞かせている」
「あぁそう……」
つまりダーニックは生存している、ということ。他のサーヴァントは不明にしても、”黒”の当主がここルーマニアで召喚する英霊など考えるまでもない。
もしヴラド三世が味方になるならば、これはかなり心強い。そしてカウレスの先ほどの発言――「アーチャーの報告によれば」――から考えるに、”黒”のアーチャーも生存している。
他に何か探れないか、と質問を考えていると、カウレスが鞄から携帯電話を取り出した。
「何なら直接話すか?」
「誰と?」
「ダーニックとだが」
ベンチに置かれた、銀色の装置をまじまじと見つめる。画面には既に通話中の文字。何か魔術的な通信手段かと思いきや、ただの携帯だったらしい。
「魔術で盗聴したら、警戒されるだろ」
疑問が顔に出ていたのか、カウレスが頬を掻いて言った。
爆弾でも仕掛けられてないだろうな、と思いながら携帯を耳に当てる。
『どうも、ダーニックさん?』
『ああ、君とは一度話したかったよ』
電話越しにも威厳あるその声は、アルを萎縮させるに充分な圧迫感を備えていた。
『……確か以前、共闘はそっちから断られたはずですが、どういう風の吹き回しで?』
『君にも判っているだろう? 状況が変わった。それだけだ。引き入れたいと言い出したのはカウレスだがな』
『なる程』
単純な回答だが――しかし。
カウレスの瞳が微妙に揺れている。少なくとも今まで、彼はこちらが共闘を申し出たことを知らなかったのだろう。ユグドミレニアというのも、一枚岩ではないらしい。
『ではもし俺が”黒”に参画するとして、その際の条件は?』
『条件などない』
ダーニックがそう答えたことは、少々意外だった。
『本当に? 後から何か請求するとか――』
『言っただろう、状況が変わった、と。我々から君に求めるものはないし、逆に君に差し出すものもない。あくまで対等な関係を結びたいと考えている。……尤も、城を陥とした暁には、また聖杯を巡って相争うことになるだろうがね』
『はあ……』
無条件に対等な関係――ということはつまり、それだけ”黒”の戦力が逼迫していることを示している。
恐らくは……。
長い沈黙は得策ではない。数秒で結論を出す。
ヴラド三世、”黒”のアーチャー、そして後もう一騎か二騎といったところだろう。
『しかしですね、ダーニックさん。その場合――つまり”黒”が勝利した場合、その後の聖杯戦争で真っ先に狙われるのは、俺になるんじゃないですか?』
『何故そう思う?』
『えっと、そちらのマスター、サーヴァントも皆、聖杯を狙っていることには変わりないでしょう? そして貴方たちは、一族の魔術師ということで結束している。城を攻めた直後、背後からぶっすり、ということも……』
――そうだ。
聖杯で、願望を?
もしかすると……。
アルの脳裏で、先ほどの閃きの残滓が集まり、ようやく形を成し始めていた。
『無論、その可能性は大いにある』ダーニックは愉し気に言う。『だが、それは通常の聖杯戦争でも同じことではないかね? 君もマスターの端くれなら、手練手管を用いて”黒”に取り入ってみればどうだ?』
『正論ですね』
『ではどうだね? ここは手を取り合い――』
『待て』
不意に電話口から、違う声が響いた。
雑音に交じって、ダーニックとその声の主が言い合う音が聴こえる。やがてダーニックが折れたのか、新たな人物が電話を手にした。
『……”赤”のマスターか』
『貴方は?』
一応訊ねたものの、アルには誰か判っていた。
先ほどのダーニックとは比べ物にならぬ、本物の迫力。声から染み出るような、王の風格。
『余は”黒”のランサーにして、”黒”の王――真名が必要かね?』
『いえ、結構です』
紛れもない――ヴラド三世だ。
ここルーマニア最高の英雄。シギショアラにも銅像が設置されているのを、見たことがある。
『一体何のご用件で……?』
『対等な関係、というところに注意が必要かと思ってね』ランサーは優しい口調になった。『無論、一時的にでも、君とそのサーヴァントが我が陣営に加わるのなら、我々はそれを歓迎し、対等の立場として遇することを約束する』
『それはどうも』
『――だが。それは
『は……?』
『余は”黒”の領王――此の地は我が領土。である以上、”黒”のサーヴァントは我が家臣であり、”赤”のサーヴァントは土地を侵す蛮族である。こちらに加わるということは、我が配下に就くということだが……判りにくかったかね?』
『いや、しかしそれは……』
配下に入ることは構わない。アーチャーも、勝利のためならば、その程度の行為は気にしないだろう。
アルが気にしていたのはただ一点、その立場が、今後の戦争において不利益を生むのではないか、ということに過ぎなかった。
その思考に費やした僅かな沈黙を――”黒”のランサーは誤解した。
彼にとって当然の道理を説いたにも拘らず、相手が承服しかねている、と考えたのである。
『当然だが……、マスターだけでなくサーヴァントにも頭を垂れてもらう』
『ええ、そうでしょうね……』
なおも言い淀む相手に、やや不機嫌になり、ランサーは口の端を歪めた。
『――尤も、戦場で子守りに興じるサーヴァントに、どれ程の働きが期待できるものか……』
『……なんだと?』
咄嗟にそんな声を出してしまったのが、アルの愚昧さの証明。
冷静に己の利を見極めねばならない場面で、感情の制御を手放してしまった。どう言い繕っても補えない錯誤。
『何か言ったかね、”赤”のマスター?』
『ええ……』
そうだ……。
こんな奴に頼る必要はない……。
もし、もしも、あの言葉が真実なら……。
『ただ、ちょっと可笑しかったもので……』
『……何が言いたい?』
『それは――』
(駄目だ!)
手が真っ白になるほど、携帯を強く握りしめ、アルは堪えた。
(そんな小さな可能性に賭けるのか? 一時の激情に身を任せて――しかし――)
不意に、手から携帯がすっぽ抜かれた。
「え?」
見上げる先――彼女がいる。
『”黒”のランサーよ、私も隣で聞いていて、笑いを堪えるのに必死だったぞ』
『”赤”のアーチャー……』
ああそうだ、と彼女は頷く。
いつもの地味な制服、時代遅れの帽子を被って……。
『城を奪われた王が、”領王”を名乗るとは、恥を知らぬのか、とな……!』
『貴様――!!』
”赤”のアーチャーは携帯を畳み、アルに投げ渡した。
「アーチャー……!」
それがどんなものであれ、彼女の姿を見られたことが嬉しかった。こちらの喜びに対して、彼女はそっぽを向いたまま、反応しようとはしないが……。
手にした携帯に一度目を落とした後、アルは晴れやかな表情で、カウレスにそれを返した。
「……良いのか?」
落胆も憤慨も見せず、カウレスは淡々と訊ねる。
「すまない、せっかく誘ってくれたのに」
それだけ答えて、アルは雑踏に去った。
観光客に紛れて歩んでいる最中、アーチャーは黙って後ろを随いてきた。
途中で公園に入り、木陰に踏み入った時、初めて彼女は口を利いた
「――叱責するか?」
その質問には答えず、アルは先ほどからずっと考えていたことを言った。
「”全人類を救済する”――と言ったんだよな? あの天草四郎ってマスター……だかサーヴァントだか知らないけど、そいつ?」
「は? ――ああ、そうだが……」
突然何の話をするのかと、アーチャーは困惑しながら返答する。
「話が本当なら、第三次聖杯戦争のルーラーで、しかもあの馬鹿みたいな浮遊要塞を造らせた男だろう? それだけの時間と準備があったなら――当然、見付けているんじゃないのか? その方法まで」
「……まさか」
ぽつりと呟いた彼女の前で、アルは朗々と語る。
「全人類なんだ、当然子供も含まれている。だから――」
「信じたのか? あんな訳も判らん男の戯言だぞ!? そんな曖昧な……薄弱な根拠で、黒の申し出を蹴ったのか――?」
「……蹴ったのはアーチャーだろ」
つい苦笑を浮かべて言うと、彼女は言葉に詰まった様子で俯いた。
「でも、蹴っても良いと思っていたのは確かだ。そこまでの覚悟はなかったけれど……」
一人で、先に立って歩き出す。
「ひとつだけ、聞かせてくれ」
振り返って、なに、と訊ねる。
「汝がそうするのは――あの子らを憐れんだからか? それとも、私を憐れんだからか?」
「違う」ゆっくり二度、首を振った。「アーチャーの願いが正しいと思ったからだ」
道はある。摑めば消える蜃気楼かもしれないけれど、追いかけもしないで諦めるには、あまりに綺麗な
だから行こう、とアーチャーを促す。
アルが怒りを態度に出さなければ→アーチャー出てこない→黒と共闘ルート