「まあ、元気でやってるよ…‥今のところは」
つむじ風が砂塵を巻き上げる。
軽く咳き込んで、口元を覆う布を確かめた。この国ではそれなりに大きな都市なのだが、道路の舗装は不充分だった。今も続いている内戦の影響か、地面が大きく抉れている箇所もある。
「それにしても、お前が俺を心配するってのはどうもな……。あ、いや、そういう意味じゃないさ。それより、そっちはどんな調子なんだ?」
道行く人々が時折こちらに視線を向けては、興味なさそうに去っていく。一見すれば、独り言を垂れ流している危ない男だろう。
「師匠――
カウレス・フォルヴェッジは、日陰に入ったところで足を止めた。日中はまだまだ暑い。今後にそなえて体力を温存したかった。
とはいえ、この暑さにも慣れねばなるまい。なにしろ今回作成された聖杯はかなりの完成度だと聞いている。召喚されるサーヴァントも四騎は固い。長丁場の闘いになるだろう。
つまり――それだけ
「ああ――うん。そうだな……また連絡するよ。生きてればだが」
カウレスはふっと息を吐いた。知らず力んでいた肩をほぐす。
「じゃあな、ロシェ」
自分も彼――ロシェ・フレインも、あれから随分変わったものだ、と思う。
特にロシェの変わりようはすさまじい。他者に一切興味を持たず、ゴーレムのことしか頭になかったあの魔術師が、まさか
それも、何だかいやに元気よく。
ユグドミレニアは取り潰され、いくら才能豊かなロシェといえど、魔術社会では嘲笑の的になっているだろうに、とくに落ち込んだ様子もなかった。一方のカウレスといえば、亜種聖杯戦争を求めて世界中を巡るうち、自分が魔術師である自覚さえ薄くなりつつあった。聖杯に託す願いが根源でなくなった時点で、魔術使いに堕したも同じなのだから。
それが良い変化なのか悪い変化なのか、カウレスに判断することはできない。
とにかく、あの大戦が、二人の人生を決定的に変えたことだけは確かだった。その道がどこに続いているのか、判る者はいない。
だが――少なくとも。
自らの願望はこの目に見えている。
叶えたい願いがあって、そのための道筋が用意されている。ならば疑うことはない。
今になって、ようやくダーニックの執念が判る気がするカウレスだった。
突然のことだった。壁に寄りかかっていた彼の視界に、不意にある顔が飛び込んできた。
どこかで見た顔だな、とカウレスはぼんやりその人物を見つめ、間もなく息を呑んだ。
(見られた――!)
布を引き上げたがもう遅い。こちらの顔は捉えられただろう。
近づいてくる足音に、カウレスは身を固くした。
しかし予想に反し、足音はカウレスの横を通りすぎて行く。
「え――?」
呆然と呟いて、去って行く背中を見つめる。
見間違いだったか、と一瞬思ったが、すぐに否定する。まさか間違えるはずもない。
カウレスとしては顔を合わせたい相手ではない。以前の敵ということもあったし、彼の個人的な事情もあった。だから、気づかれなかったのならそれで良いのだが――。
僅かな逡巡の後、カウレスはその背を追いかけた。
「おい!」
肩に手を乗せると、その男はゆっくりこちらを振り返った。
「はい?」
その、怪訝な表情を見て。
カウレスは沈黙した。
「…………」
「あの、何か――」
「……憶えて、いないのか」
「えっと……。すいません。このところ物忘れが酷くて……以前、どこかで会ったことが?」
男は不思議そうに瞬きしている。
男は――聖杯大戦の勝者になったはずの魔術師は――本当にカウレスを憶えていないようだった。
不意に下からの視線を感じる。
見ると、男は背後に数人の子供を連れていた。皆、痩せ細っている。重篤な怪我を負った者や、明らかに病人と判る者もまじっている。少年兵としてさえ無用と断じられた、社会の最下層にいる子供たち。
それを――なぜ、この男が。
意味が判らなかった。
しかし、もはやカウレスにそんなことを問う気力はなく、肩に置いた手を力なく下ろした。
「いや――、すまない。人違いだったようだ」
「はあ……そうですか?」
では失礼、と頭を下げて、男はまた子供を連れて歩いて行く。
その後ろ姿を見送りながらも、カウレスは何故、と思わずにいられなかった。
大聖杯を手にし、あらゆる物を、あらゆる願いを叶える権利を得たはずの彼が、何故――。
何故――自分と同じ目をしているのか。
届かぬ何かを求め続け、代償に心を磨り減らした人間だけが持つ、光なき目を。
#
気付いた時、小舟に乗っていた。
夜の海。
黒々とした水面が、唸るような波音を立てている。
見渡す限り陸地はなく、ただ両手に櫂を握って、ひたすらに動かしている。
自分の名前は何か、何故こうしているのか、考えたけれど、何も思い出せない。
こんなわけの判らない状況だというのに、不思議と心は落ち着いていた。
――ふと。
舟の舳先に、誰か立っている。
月光を浴びて、宝石のように輝く
ともすれば消えてしまいそうなほど儚く、けれど自分の存在が霞みそうなほど華やかな立ち姿。
「――あの、すみません」
「何だ?」
応えてくれたことにほっとしつつ、言葉を紡ぐ。
「貴女は誰ですか?」
彼女はこちらに顔を向けないまま。
ただ、大きく息を吐いて、
「――ああ、そうか」
と、呟いた。
しばらく沈黙が降りた。
ただ、舟の軋む音と、波音が聞こえていた。
その間も、櫂を操る手を止めることはない。
「汝は、どこへ行く?」
不意に彼女が言った。
「先へ」
すぐに答えた。答えたあとで、ああそうだったな、と思い出した。
(自分は先へ行かなければいけない)
しかし不満だったのか、彼女は小さく首を振った。
「汝が行く必要はない」
「いえ、俺が行かなければいけません」
「きっと徒労に終わるだろう」
「それは、諦める理由にはなりません」
「だからといって――死ぬまで漕ぐつもりか。この頼りない小舟を」
「まあ、そうなりますね」
記憶さえ定かでないなかで、なぜこうも自分は確信を持っているのだろう、と苦笑する。
「――それは!」
叫んで、彼女がこちらを向いた。
その、揺れる髪。
月光が照らす顔。
何故だろう、とても懐かしい気持ちが胸を充たした。
「――それは、呪いでは……ないのか?」
「呪い?」
突然何を言い出すのだろう。
それではまるで、嫌々この航路を辿っているみたいじゃないか。
彼女は必死な口調で続ける。
「茫漠たる海のなか、独り彷徨うこの旅程は、本来なら……」
ああ――そんなことを心配しているのか。
その心配は嬉しいけれど、杞憂に過ぎない。
片手を開いて彼女の言葉を制した。
そして、静かに天上の星々を指す。
「ありがとう――でも、大丈夫ですよ。なにも迷うことはないから」
「…………」
やがて彼女は、また「そうか」と呟いた。
静寂が舟を包んだ。
長い時間が経った気がするけれど、実際は少しのことだったろう。
「私は、そろそろ行かねばならない」
「行く? どこへ?」
首を傾げる。四方を海に囲われた舟から、どこへ行くというのか。
彼女は軽い口調で「さあな」と答えた。
「どこへ行くかは、私も知らない」
「そうなんですか?」
「ああ。この舟が向かう先か、あるいは元の港か。ひょっとすると、またこの舟に乗るかもしれん。どこぞの男のせいでな。いい迷惑だよ」
それは難儀なことだ、と彼女に同情する。
「全然関係ないところに行くかもしれませんしね」
「いや、それはないな」
やけにきっぱりと、彼女は否定した。
「でも、どこに行くか判らないんでしょう?」
「どこへ行ったとしても、私の目指すところは変わらない。だから、いずれこの航路に至る。それだけは断言できる」
彼女は軽やかな身のこなしで舳先に立った。
「また、会えますかね?」
「ああ、会えるだろう」
――その答えが、あまりにも白々しくて。
思わず吹き出した。
彼女も笑っている。
「なんでそんな、バレバレの嘘を?」
それには答えず。
彼女は、ふっと口元をほころばせて。
重力を忘れ空に解き放たれた矢のように。
舳先を蹴った。
「汝には一度、ひどい嘘を吐かれたからな。これは、そう……ただの仕返しだ」
そんな声が聞こえた気がした。
暗い海。
陸地も灯りもない海原を、しかし迷うことはない。
目指すべき方向は、星が教えてくれるから。
舟はただ進む。