……なお、忠実や物語の中に登場するアリスとは時代設定や年齢設定、生い立ちや家族構成、性格どが大きく異なります。かなりハリポタ仕様となってますので注意。
黄金の昼下がりに
やわらかな午後の日差しの中、ゆっくり、のんびり水面を滑っていく。
小さなボートの上で不慣れなオールを漕ぐのは、僕と彼女の二人だけ。
眠たくなる天気の素敵な午後だと言うのに、僕は優しくて意地悪な彼女の為に小さな手でオールを漕ぐ。
記憶という物語の川にこの身を委ね、気の行くまま僕と君でゆらりと流れてみようか。
その流れは穏やかで優しいものだけど、きっと僕らを退屈させてはくれないのだろう。
あぁ──思い出す、鮮明に。
夢よりも不思議な世界に入り込み、可愛くて賢い少女を追い掛ける──
そんな夢の中のお伽噺に文字通り夢中になり、不思議の国を信じた幼き頃。
あの日、僕と君は素晴らしい魔法と出会った。
季節は7月になったばかりのある日の朝のこと。
世間的には夏休みと呼ばれるこの年一番暑い時期、一人の可愛らしい
背中を覆う程の長い金色のストレートヘアを煌めかせ、頭には大きな青色のリボンが付けられている。今の不景気なご時世など何処行く風とでも言う程の裕福な家庭で育ったのか、金髪碧眼の少女は青と白を基調としたフリルとリボンが付いたエプロンドレスを着用し、膝上まである白と黒のオーバーニーソックスを履きこなした可憐な少女。
そんな彼女の手元には読み掛けの本が一冊、綺麗な表紙を表に向けた状態で置かれている。
まだ11歳になったばかりの彼女はこの暑い7月、太陽の光をいっぱいに浴びたお気に入りの庭園で、やはりお気に入りの物語を読んで静かに過ごす。
そんな時、木漏れ日の下で眠る彼女のもとに一人の女性が歩み寄ってきた。
「──起きなさい。起きなさい、アリス?」
上品で優しい声だ。アリスと呼ばれた少女がゆっくりと目を覚ますと、寝惚けた顔でキョロキョロと周囲を見回してから口を開いた。
「ん、ぅ……あれ、ロリーナお姉ちゃん……?」
幼く可愛らしい人形のような甘え声だ。少女が驚いて目を覚ますと、起こしにやって来た女性はクスッと微笑む。
「おはよう、アリス。やっぱり寝ちゃってたのね」
「うん、気持ちよくって……あっ、そうだお姉ちゃん。あたし、とっても不思議な夢を見たの」
そう言って、今まで見ていた夢を思い出そうとしてみる。おかしな夢だった……何処かも分からない部屋の中で突然緑色の閃光が炸裂し、黒いローブを着た男の冷たく甲高い声と女の人の叫び声、そして赤ん坊の泣き声が暗闇の中で延々と響き渡る──
少女は何とか思い出せるだけ思い出し、夢の内容を自分の姉ロリーナに話して聞かせた。
「あらあら、本当に不思議な夢ねぇ。でも昼寝はそれくらいにしないと。もうお茶の時間よ? お父様とイーディスもあなたが来るのを待ってるから、急いで行ってらっしゃい」
ロリーナに言われてようやく思い出す。今日の午後は珍しく家族揃ってお茶会を開こうと話していたのだ。暢気に昼寝という恥ずかしい理由で一人お茶会に遅れてしまえば、またしても一番下の小悪魔チックな可愛い妹にねちねちと不満を言われてしまうだろう。それだけは願い下げだ。
「ごめんなさい! お姉ちゃん! あたし、先に行ってる! お姉ちゃんも早く来てね!」
クスクスと楽しげに微笑むロリーナに伝え終えた少女は慌ただしい様子で駆け出し、広大な庭園を抜けて学寮がある建物へと急ぐ。
彼女の名前はアリス。本名をアリス・プレザンス・リデルと言う。ここイギリスのオックスフォードシャー州、オックスフォードという街に位置する世界的にも有名なオックスフォード大学内の敷地を家族で借りて暮らしている良家のお嬢様だ。
オックスフォード大学は街の至る所に点在する約40もの
そして一つの学園都市と呼ぶに相応しいオックスフォード大学の中でも最大規模を誇るカレッジが先程の少女──“アリス”も暮らす名門クライスト・チャーチである。
しかし本来カレッジは貴族の学生や教授でなければ住めない事になっているのだが、アリスの父ヘンリー・ジョージ・リデルがクライスト・チャーチの学寮長を勤めている為、彼の娘であるアリスを含むリデル家の人々は特別に住む事を許可されている訳だ。
さて……ここまでくれば勘の良い者は気付くだろう。彼女は何を隠そう、あの世界的ベストセラー作品『不思議の国のアリス』の主人公アリスのモデルとなった人物だ。
彼女の父親が学寮長である事から知り合ったクライスト・チャーチ学寮内に住む数学の教授ルイス・キャロルがこよなく愛したアリスの為に書いた手造りの本は後年、『不思議の国のアリス』としてイギリスで出版され、瞬く間に世界的なベストセラーとなった。
出版からまだ数年しか経過してないにも関わらず、現在では世界中で愛読される人気になり、噂ではイギリスの女王も愛読したと言われる程の超有名な児童書に仕上がった。
しかしアリスはそれを自分の手柄のように喜んではいなかった。いや、もちろんアリス自身『不思議の国のアリス』の物語は大好きだしお気に入りだ。しかしふと思う事がある訳だ。
世界中の人々が憧れ、愛したこの不思議な物語に登場する少女はアリスという主人公であって、決して自分のような人物ではない……と。
つまりアリスは物語の中の自分と現実の自分との違いに、ちょっとしたコンプレックスを感じている訳だ。
物語のアリスは優しく、礼儀正しく、勇敢で、好奇心旺盛な空想好きの可愛らしい少女だ。しかし現実の自分は?と聞かれたら違うと答える。
物語同様、勝ち気なしっかり者で行動力あると周囲の人から評価される事はあれど、アリス本人は現実主義者なうえ、他人に無関心で基本的に物事に拘らないさっぱりとした性格をしており、おまけに毒舌家で卑屈で根暗という──『不思議の国のアリス』のモデルになったとは思えない程に“嫌ったらしい暗い子”だと自負している。
そんな自分が世界中の誰からも好かれる少女などとはとても──
だからアリスは今日が家族揃ってお茶会を開く大切な日だと言うのに、こうして自分一人だけ学寮を抜け出し、いつも姉妹で仲良く遊んでいたお気に入りの中庭で大好きなアリスの本を読んでサボっていた訳だ。
それに……実を言うとリデル家の家族関係はあまり仲の良いものとは言い辛い。アリスの父親は名門クライスト・チャーチの学寮長という大変名誉ある職業上、仕事の合間に可愛い三人の娘達と交流できる時間は少ない。
アリスやイーディスと歳の離れた姉ロリーナは既に学校に通っており、自分達の家でもある学寮にこそ帰っては来るものの、毎日忙しいのかアリスやイーディスとは過ごす機会が少ない。
そして妹のイーディス……リデル家三姉妹の一番下に生まれた子は幼い子供らしく無邪気で素直な愛らしい子で、父親もロリーナもみんなイーディスを贔屓するのだ。
それがアリスにはちっとも面白くない。イーディスが悪い訳ではないと頭では理解できていても、やはり一緒にいると気まずいのか、一番身近な家族と言えるイーディスとは互いに一歩引いた距離感で接しており、以前と比べて姉妹で一緒に遊ぶ時間はほとんど無くなった。
アリスも孤独を感じない訳ではない。家族ばらばらで寂しい時もあれば、誰かに甘えたい時だってある。そして何故か、そういう心境の時に姉のロリーナは独りぼっちのアリスを探して見付け出し、アリスが落ち着くまで一緒に居てくれるのだ。
ここクライスト・チャーチでも既に話題性抜群で有名なリデル三姉妹の中で唯一父親似のロリーナは母親似の可愛らしい妹達と異なり、一般でいう華やかな女性という訳ではない。
しかしロリーナは読書家で心理学などの学術書にまで通じ、ピアノも嗜む、アリスにとっては優雅さや女らしさ・知性・教養と全てを併せ持った淑女そのものの、憧れでありコンプレックスの一つでもある完璧過ぎる人物だと幼心にいつも思っていた。
それがアリスの
その後、広大なクライスト・チャーチの庭園を駆け抜け、学寮の中へと戻ってきたアリス。急いで走った為に乱れた呼吸を整えてからお茶会を開く部屋に入ると、既にロリーナを除く全員がアリスの到着を待っていた。
「おお、アリス。やっと来たか。もしかしたら家族の約束を忘れているんじゃないかと思ってたところだったよ」
「ごっ、ごめんなさい! お庭でちょっと読書に夢中だったから……さっき迎えに来たロリーナお姉ちゃんに言われて思い出したの」
焦り気味に遅刻を謝るアリスに父親のヘンリーは二、三度頷くと、温厚そうな笑顔を浮かべてアリスの髪を撫でた。
「そうかそうか。いやなに、アリスは遅れながらもこうして家族との時間に合わせて来てくれたんだ。気にしなくていい」
「うん……パパ、ありがとう」
今の仕事が忙しいヘンリーは家族と顔を合わせる機会が少ない。だからせめて、こういう日くらいは愛する娘達の為に何かしてあげたいと日頃から思っている。
今回のお茶会はそんな父親らしい娘達への想いから誘ったものだ。
……そう。つい先程、“あの手紙”がヘンリーの部屋に届くまでは……楽しい家族団欒の時間になる予定だった。
「……そんな事言ってお姉ちゃん、どうせまた“あの本”を読んでたんでしょ。自分が主人公で活躍する“自分だけ”の楽しい物語を」
「こらこら、妹が姉にそんな事を言うんじゃない。それにあの本──『不思議の国のアリス』は偉大な先生が退屈を何よりも嫌うお前達三姉妹の為に考えて作ってくれたんだぞ?」
「むぅ~……だってだってぇ、お姉ちゃんばっかりずるいんだもん」
言いつつぷくぅと可愛らしく頬を膨らませたイーディスが悄気ると、アリスとヘンリーは互いに顔を見合せ、やれやれとばかりに溜息混じりの苦笑いを浮かべる。
(もう、またそうやって……)
正直なところ、アリスはこのイーディスが苦手である。最初は姉を慕う可愛い妹という感じでアリスもイーディスを好意的に見ていたのだが、成長して年齢が上がるにつれて姉妹の関係は少しずつ歪み始めた。
そしてアリスとイーディスが10代を迎えた今では以前のように二人で仲良くクライスト・チャーチの庭園を遊び回る事もなくなり、ヘンリーとロリーナがそれぞれ仕事と学業でカレッジを離れて家族の時間が全く作れない今は互いに“一人遊び”に興じるような状況だ。
そこに姉妹の絆なんてものはない。ただ同じ母親から生まれ、同じ屋敷で育った“不思議なほどによく似通っている血を分けた他人”である。
「──お父様、お待たせしました。これで家族揃いましたわね」
──そんな時、この微妙な空気の中で庭園までアリスを迎えに行っていたロリーナが部屋に入って来た。
「おお、ロリーナも来たか。これでやっと大事な話ができるな」
先程の温厚な態度とは一変して重苦しく口を開いたヘンリーの言葉で、部屋の空気の流れが変わったのをリデル三姉妹は感じ取った。
「さて、三人共……実は今朝方、このような手紙が私のもとに届けられた」
言いつつ表情を強張らせたヘンリーが紺色のネイビースーツの懐から引っ張り出したもの──
それは分厚くて重い、黄色味がかった羊皮紙の封筒だった。
「最初は私も何の手紙か理解できなかったが……内容を読んで悟ったよ」
と言ってから一息吐くと、ヘンリーは緊張の面持ちで父親の話を聞いていたアリスの前に歩み寄る。
「この手紙はホグワーツからアリス──お前に宛てられたものだよ」
“ホグワーツ”という聞き覚えのない場所から送られて来た封筒をアリスへと渡す際にヘンリーは少し微笑んで見せるも、その表情は無理して笑っているというより、疲れて何歳も一気に老けてしまったような複雑な印象を与えた。
「えっ……? あたしに……?」
突然の事態に封筒を受け取ったアリスは驚きを隠せない。
そもそも生まれてからまだ一度も学校に通った事のないアリスには友達と呼べる人物が一人もおらず、イギリスでも有名な良家のお嬢様である自分にわざわざ手紙を書いてくれる人もルイス・キャロル──アリスが“ドジスンさん”と親しみを込めて呼ぶ知人の男性しかいない。
そんな自分にどうして……色々と思う事はあれど、アリスは若干気持ちを昂らせて封筒を覗いて見る。
緑色のインクで宛名が書いてある。切手は貼られておらず、差出人の情報一つ書いてない。
しかし此方側の情報は相手に知られてしまっている様だ。
オックスフォードシャー州 オックスフォード
セント・オルデイツ通り クライスト・チャーチ・カレッジ
アリス・プレザンス・リデル様
……なるほど。確かにこの手紙はアリス本人に宛てられた物らしい。しかし誰が何の目的で……幼いアリスにはまだ解らない事だらけだ。
「誰からの手紙だろ……? すごい綺麗な字……えぇっと、ホグワーツ……?」
緊張と興奮で震える手で封筒を裏返して見ると、紋章入りの紫色の蝋で封印がしてあった。
更に封筒の裏側には真ん中に大きく“H”と書かれ、その周囲をライオン、鷲、穴熊、蛇が取り囲んでいる。
これが何を意味する物か理解できないアリス。取り敢えず貰った封筒を開けて見て吃驚。封筒には二枚の手紙が入っており、アリスは手始めに一枚目の手紙を声に出さずに読んでみる事に。
その内容は全く想像もしていない未知なる世界が文字の上で広がっていた。
親愛なるアリス殿。
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。
教科書並びに必要な教材のリストを同封致します。
新学期は九月一日に始まります。
七月三十一日必着でふくろう便にてのお返事をお待ちしております。
敬具 副校長ミネルバ・マクゴナガル
自分でも吃驚するくらい一枚目の手紙を速読し終えたところでアリスは思わず手紙の文面から目を離し、恐らくこの手紙に関して何か知っていると思われる父親と長女の姿を一瞥する。
ヘンリーは何処か心配そうな面持ちでアリスを見守っており、その隣に立つロリーナは穏やかに微笑んでは困惑必至なアリスの反応を楽しんでいる。
「……」
手紙を持ったままどうしていいか分からず動けずにいるアリスが二人の様子を確認する限り、どうやらお茶会の為に用意された余興ではなさそうだ。
一先ず一枚目の手紙は頭の隅に置き、続いて二枚目の手紙を黙読する。そこには教材リストの一覧が書かれてあり、学校の制服、教科書、魔法の杖、その他学用品、さらにはペットも持参可能──と、入学に必要なものがすべて書いてあった。
そしてどういう訳か、一年生は個人用の箒を持参できないらしい。まさか魔法の学校を生徒達で掃除する為に家から箒を持ち出す訳じゃあるまい。
ホグワーツと呼ばれる魔法学校に通う魔法使いや魔女達は、恐らく移動用の共通手段として箒を用いるに違いないとアリスは推理した。
……とは言え、そもそも“黒いローブや三角帽を着用”したり、“箒を使って空を飛ぶ”などの現代人が考える一般的な魔法使いのイメージ像はお伽話の中でしか知らないアリス。
“らしい”と言えば実に“らしい”のだが、二枚目の手紙は一枚目の手紙よりもまるで意味が解らない。
長い沈黙の果て、辛うじて出てきた言葉は“信じられない”というアリスの気持ちを表していた。
「……パパ、この手紙何だかおかしいわ。魔法の学校なんて現実にある訳ないし、ふくろう便とか教科書とか箒とか……とっても変!」
分厚くて重い封筒と二枚の手紙をヘンリーに渡し返すと、アリスは急き込むように言い出した。
対するヘンリーは苦虫を潰したような顔で何度か唇を上下動させた後、深い溜息と同時にアリスへと話し掛ける。
「……あ、ああ……そりゃ変だろうね。だけどアリス……落ち着いて聞きなさい。この手紙は嘘なんて書いてない。本当に魔法学校からの手紙なんだ」
若干震えた声でヘンリーが衝撃的な事実を告げると、お茶会の用意がなされた古風な部屋に再度の沈黙が訪れた。
「……えっと、じゃあ……あたしが、その……魔法使いってこと……?」
恐る恐る口に出してみるも、アリスはまだ半信半疑だった。思えばロンドンのウェストミンスターで生まれ、三歳の時に家族全員でクライスト・チャーチのカレッジに移り住んでからというもの、英国貴族達に囲まれて格式の高い英才教育を受けてきたアリスにとって魔法とは正しく無縁の物だった。
それでも魔法みたいな面白い不思議が世の中に沢山有れば良いのにと幼心に思う一方、大勢の夢の無い大人達に囲まれて嫌という程に現実の世界を見せられてきたアリスは既に魔法が現実に存在しない事を知っている。
世界を動かすのは科学という常識、魔法なんて迷信は有り得ない──そう教えられて育ってきた。
これはもう何年も前の話だが、一度だけ幼いアリスは姉のロリーナにこんな質問をした事がある。
『ねぇ、お姉ちゃん……大人の人達が言うように、魔法とか不思議なことってありっこないのかな?』
『アリス……』
『ドジスンさんがあたしの為に書き留めてくれたあの日のお伽話……先生方に話したら馬鹿にされちゃった……空想的な子供の話だって……』
この時のアリスは酷く落ち込んでいた。いつもの庭園の木の下で座り込むアリスの顔は泣き腫らしたように赤くなっており、光を失った虚ろな瞳でぼんやりと芝生を眺めている。
『夢も楽しみも無い世界なんて、つまらないよ……』
『アリス……ねぇ、だったら面白い事をしてみない?』
『面白いこと? なぁに、それ?』
『ふふふ。それはね、アリス。あなたが────』
……あの時、冷たくて暗い現実の闇に打ち破られそうになったアリスの夢。魔法が常識と認められない非魔法界で幼い彼女がすがった姉の気高い姿に一筋の希望の光を見た気がした。
「……そうだ、アリス。お前は魔法使いなんだ」
アリスがふと昔の記憶を思い浮かべていると、先程よりかは幾分か落ち着いた様子のヘンリーがしっかりと両手を彼女の肩に置いてから言った。
「……」
その瞬間、もはや何度目かも分からない沈黙で部屋は静まり返った。父親と同じく何やら事情を知っていそうな長女ロリーナも、途中で会話に割り込むのが好きな好奇心旺盛な妹のイーディスも……そして手紙を受け取った張本人であるアリスでさえ、誰一人喋り出そうとはしない。
アリスの頭はまるで花火のように次々と疑問が浮かんでは弾けた。あまりに予想外で急激な展開だったので、頭の整理が追い付かないのだろう。
「知ってたの? パパもお姉ちゃんも……あたしが本物の魔法使いだってこと、知ってたの?」
今にも泣き出しそうな顔でアリスが父親と姉の双方を見つめるが、二人共揃って申し訳なさそうにアリスから視線を逸らした。
「……確信があった訳じゃない。お前達の母親が“その魔女”だったってだけで、娘達は魔法が使えないと思っていた」
ヘンリーが渋々と語ると、アリスは隣に立つロリーナを睨み付けた。
「じゃあ、お姉ちゃんはもうとっくの昔から魔法が使えるってこと? お姉ちゃんが行ってる学校って本当はホグワーツだったってこと?」
「いいえアリス……それは違うわ」
宥める様な口調でロリーナが優しく言う。するとヘンリーが口を開いた。
「ロリーナは私に似たんだ。私は普通の人間で魔法使いじゃなかった。そしてロリーナは魔法の才能を受け継がなかったって事なんだろう」
「本当の事よ。私がアリスと同じ年齢の時にはホグワーツからの手紙なんて来なかった。お父様はその事で安心していた様だけれど……」
ぽつり呟き、ロリーナは誰にも聞こえない程の小さな声で「本当なら私だって……」と言い掛け、その時ふとアリスと目が合った為に口から出掛けていたその言葉を呑み込んだ。
「そう言う事だ、アリス。私に似なかったお前とイーディスが成長するにつれて、お前達二人はまるでロリーナの……お前達の亡くなった母親に生き写しだって事を思い知ったよ。その愛くるしい天使のような見た目や明るく楽しい性格、そして様々な事に発揮される優れた才能──アリスもイーディスも、みんなママにそっくりなんだ」
そう言い切ると、ヘンリーはアリスから受け取った封筒に視線を落とす。
「アリスの入学が決まるこの大切な年にこの手紙が届いたという事は、アリスも魔法の才能があったって事なんだろう。まぁ、父親としては正直複雑な気持ちだがね」
苦々しい笑みを浮かべて付け加えたヘンリー。ここで黙って話を聞いていたアリスもようやく自分が正真正銘の魔法使いだと言う事を信じる気になった。
しかしアリスは素直にそれを喜ぶ気にはなれなかった。寧ろ、とんでもない間違いだという思いの方が強かったとも言える。
アリスは昔から自分の中に住み着いた“もう一人のアリス”と自分を比べる事が多い。言うまでもなく、『不思議の国のアリス』に登場する主人公アリスの事である。
アリスはそうやって何度も物語の中の自分と現実の自分を比べてはコンプレックスを抱き、いつも憂鬱な気分で落ち込んでしまう“困った癖”がある。
だから今回の出来事で自分が魔法使いだという事は少しずつ理解したものの、それを幼い子供らしく飛び跳ねながら嬉しそうに喜び、誰かにその事実を聞いて欲しくて得意気に話せる様な気分にはなれないのだ。
「……アリス、ホグワーツに行きたいかい?」
「えっ……あっ、あたし……」
意外な事に、すぐには言葉が出なかった。いや、確かに行きたい思いは時間が経つにつれて少しずつ強くなってはいる。
お伽話の中にしかなかった魔法が現実で使える──それはどんなに素晴らしいものだろう。きっと毎日が不思議な事の連続で、魔法の世界に入り込んだアリスも楽しくて面白いに違いない。
「行きなさい、アリス」
深く考えるあまり、迷いの森に入り込んだアリスを現実に引き戻す声が。ロリーナだ。
「お姉ちゃん……」
「貴方には夢がある。そして希望も……だったらそれを枯らさないで、散らさないで」
ロリーナの悲痛な願いだ。ふと隣を見れば、ヘンリーも頷いているではないか。ただ一人蚊帳の外にいるイーディスだけは何か言いたげな様子でアリスとロリーナ、そしてヘンリーを交互に見回していたが。
「夢に背を向けて現実の世界に引き籠るな──なんて、今日の私は何だかおかしな事を言うけれど……やっぱりアリスに“ここ”は似合わないものね」
「お姉ちゃん……いいの? あたし、魔法を勉強しにホグワーツに行っても……魔法の学校を冒険して来てもいいの?」
胸の中で風船が大きく膨らむのが分かった。このどうしようもない気持ちをアリスは確かに知っている。
それは今も尚鮮明に光り輝くあの黄金の昼下がり──みんなでゴッドストウの村までピクニックに行き、アイシス川(テムズ川)をボートで遡るあの懐かしく素敵な思い出。
そこで聞かせられる恒例のアリス物語。またアリスが主人公で活躍する、アリスの新しい物語と出会える──そんな、詠み手も聞き手も胸が熱くなる喜び。
「ホグワーツで楽しい夢を見続けて。その物語の主人公は間違いなくアリス、貴方自身なんだから……」
「……うん! パパ、お姉ちゃん! ……それとイーディスも、あたし……新しい不思議な物語を見てくるねっ!」
──この日の午後もまた、生涯忘れる事のない黄金に光り輝く一時だったと、後年アリスは手作りの本に自らそう書き記している。
ここは読まなくてもストーリー的には問題ありません。
恐らく本編じゃ書けないので簡単に捕捉しときます。
【解説】
『この作品の基本設定』
まず、主人公のアリス・リデルやリデル家、イギリスの世界観が現実のものと大きく異なります。
そもそもハリポタ世界の舞台は1990年代のロンドンとなっており、忠実のアリスが生きていた時代とは実に100年以上も離れています(忠実のアリスは1852年生まれ)。
さらに、本作の中にもたびたび登場し、アリスとハリー、そして英国魔法界での物語にも深く関わってくる『不思議の国のアリス』が出版されたのが1865年です(忠実だと)。
しかしそれだと主人公のアリス・リデルをハリポタ世界に溶け込ませる事が難しいので、色々と考えた結果この作品の中では『不思議の国のアリス』は1980年代にルイス・キャロルによってイギリスで出版され、発売から僅か数年足らずで10万部以上売り上げた世界的ベストセラーという都合の良い設定にしました。
ちなみに、本作における世界では不思議の国の続編となる『鏡の国のアリス』はまだ存在しておらず、出版もされていないという設定です。
『ハリポタ世界におけるアリス』
マグルの世界ではアリス・リデルという名前は英国魔法界でのハリー・ポッター以上に凄まじい知名度を誇り、全世界のマグルの子供達がアリスに憧れている。
そのアリス自身がモデルとなった『不思議の国のアリス』は出版されて間もなく全世界でベストセラーとなり、ハリポタ世界における現在では聖書に次いで世界中で翻訳され、多くの人々に愛され読まれている。