篠原さんはμ'sの一人が行きつけの和菓子屋の娘さんだと気がつく。思い切って尋ねた一言が、これから何かを変えていきます。
びっくりした。
それはもう、本当に心臓が止まるかと思ったのだ。
現に、この心臓がとある常連さんの言葉で悲鳴をあげて15分ほど。
それなのに心臓が今でもドキドキしている。
頭はとても冷静だった。
それなのにそこそこある胸を打つそのドキドキは、全然おさまりそうになかった。
自室のベッドで枕を胸に埋めながら、携帯の画面を開く高坂穂乃果は、何とか鼓動をいつも通りに沈めようと必死なのだった。
今は実家の和菓子屋で働いていて、お父さんの元で、家業を継ぐために修行の毎日を送っている。
和菓子作りって、とても体力使うんだよね。おかげで食欲が衰えることはないし、毎晩ぐっすりと眠れている。
でも普通に楽しく和菓子屋の跡取りらしく生活していた。
それはもう、毎日が成功と失敗の連続で。
あの高校時代と同じようなワクワクを毎日味わっていた。
そう、だからこそ、なんだけど、あんなことを今更言われるなんて思ってもみなかったわけで。
それも、普通の常連さんに。
(アイドル、かぁ。)
穂乃果は携帯を布団に放って立ち上がる。
部屋の隅に置いてある、とっておきのクローゼットを開けた。
この扉を開けるのだって、本当に久しぶり。
前に海未が家に来たとき以来だ。
前に開けた時と何にも変わらない光景が、目の前に広がっていた。
とても綺麗な色とりどりの服。
当時着ていた衣装だった。
「・・・今更、高校の時のこと、思い出すなんてね。」
全部、穂乃果の心を暖めてくれる思い出だ。
μ'sは3年生の卒業と共に活動を終えた。
それは、簡単に言えば穂乃果たちがスクールアイドルであることにこだわったからーー。
限られた時間の中で、学校のために、みんなのために、競い合い、ぶつかりあい、励ましあいながら、前に進んで行く。そんなスクールアイドルが大好きだったから。
だから、ここで、この9人で感じたその思いを大事にしたかった。
新しいメンバーが入ったら、また新しい物語が始まっていく。
でも、この9人が感じたスクールアイドルへの思いは、このまま風化させずに、何にも取って代わられないように、とっておきたかった。
だから、μ’sは終わらせるべきだと思った。
今もその決定を後悔したことなんてないし、それはみんなも同じだろう。
それは、そうなんだけど・・・。
心の中に、たったひとつ残った何か。
まるで、止めた水道からポタポタ落ちる水滴みたいな違和感が、自分の中にずっとあったのも事実で。
穂乃果は、その何かには目を向けないようにしながら歩いてきた。
もう、大人なんだからと言い聞かせながら。
そして、いつの間にか忘れてしまっていた。
思い出してしまった。
そして気がついた時には、ポタポタ落ちた水滴が、バケツに溜まっていた事も、知ってしまったわけで。
(みんなに会いたくなってきたなぁ。)
何だか、無性にそう思った。
もちろんμ’sのメンバーとは連絡を取り合っている子もいるけど、とれていない子もいる。
みんなそれぞれの場所で仕事をしている。
人によっては忙しいし、その子達は特に普通に仕事をしているから、中々時間も取れない。
ことりや海末とは連絡を取るし、よく会っていた。けど、最近はあまり会うこともなくなっていた。
みんな、それぞれの場所で頑張っているんだ。
それは穂乃果も同じだ。μ's解散後は、たくさんのファンの子が来てくれて、穂むらはすごく忙しくなった。
お母さんとお父さんがあり得ない儲けに思わず飛び上がっていたのも懐かしい。
でも、3年もたてばその騒動も収まって。
いつしか、私たちのお店は普段通りの経営をしていた。
それでも、私は昔の忙しい毎日の中でも、今の落ち着いた日々の中でも、この仕事を本当に楽しく思っている。
和菓子作りの腕も上達してきて、充実もしている。
本当に穂乃果は自分の人生に後悔なんてない。
それだけは自信を持って言える。
(それなのに、なんであの人の言葉がこんなに心に残っているのかな…?)
今までもたくさんのファンの子に言われてきたことなのに。どうして辞めたの?って。
穂乃果はいつも饅頭を買って行ってくれる常連さんの顔を思い浮かべた。
篠原と名乗っていた。
なんども来てくれているお客さんだった。
いつも同じくらいの時間にやって来て、必ず饅頭を1パック買って出て行く。
ただ、普段常連さんが来たら立ち話をしたりすることも多いのだけれど、彼とは話をしたことがなかった。
何というか、怖いのだ。
一番怖いのは、その顔だった。
表情が、恐ろしいほど変わらない。
饅頭を頼む時も、お金を払ってる時も、商品を渡してる時も、彼の顔は変わらない。
眉ひとつ動かない。
まるで人形みたいだ。
しかも、彼は自分と目を合わせたがらない。
何となく、それを意図的に避けてるような、そんな雰囲気だった。
おかげでお母さんなんかヤクザだって騒いでいるくらいだ。
でもそのお面みたいな顔といつも着てる真っ黒なスーツのせいで、どうしてもそうではないかと疑ってしまうほどだった。
そんな常連さんがいつもの無表情で
『何でアイドルをやめたんですか?』
なんて聞くものだからもう穂乃果は心臓が跳ね上がるほどの騒ぎではなかった。
立ち話なんてしたことない人から話しかけられたらびっくりする上、まさかこの人の口からアイドルなんて言葉が出てくるなんて思ってもみなかったから。
大慌てでえっと、などと言葉をつまらせる穂乃果にそのまま彼は平謝りして、名刺を渡して来た。
「ごめんなさい、つかぬ事をお聞きしまして。
あ、いえ。お話ししたくないのなら構いません。
すいませんでした。
あ、私は・・・」
そう言って彼は簡単に自己紹介と、何でそんなことを聞いたか話した。
何でも資料で見つけて気になったそうで。
まさか芸能事務所で働いているとは思わなかった。
そして彼は、そんな一方的なまくし立ての後、饅頭をいつも通り買って出て行った。
そしてその心臓の高鳴りが止まらないまま今になってるわけで。
そしてその止まらない鼓動が、話したことない人に話しかけられた驚きなんかじゃ説明つかないことも、わかっていた。
(久しぶりに言われるから、かな・・・?)
考えてもまとまらなかった。こんな時は…。
「走ろっかなぁ。」
解散してすぐは、悩んで気持ちの整理をつけたい時、いつも走っていた。トレーニングしていたコースを走って、いつもの階段を登って、神社でお参りして、帰る。
すると、スッキリするのだ。
不思議なもので、今までの悩みなんてどうでもよくなって、また明日から頑張ろうかな、と思える。
当時は吹っ切る様に何度も走っていたけど、今ではそんなに走ってはいない。
善は急げというし、こうなったらもう止まらない。
すぐに、別のタンスから、動きやすいジャージを出した。オレンジのやつだ。服を脱ぎ、着替えていく。思い立ったらすぐ行動。
高坂穂乃果の性格はこういうところは全く変わっていなかった。これで何度も痛い目を見たことも覚えている。
でも、心を動かす何かに、対抗することがいつもできないのだ。
着替え終わると、玄関へ向かった。そして、運動靴を履く。紐を結んでいると、お母さんが出てきた。
明日の仕込みでもしてたんだろう、エプロンを着けている。
「どうしたの、穂乃果。こんな時間に」
「うん、ちょっと走りたくなっちゃって。いつものとこ走ってくるね。」
「そう、気をつけてね。行ってらっしゃい。」
「うん、行ってきまーす!」
「転ばないでよー!」
とまあこんな感じで母親も穂乃果がこうなった時に言うことなんか聞かないことはわかっている。
玄関を飛び出すと、じっとりとした夏の蒸し暑い夜の空気に襲われた。
「よし!」
少しずつスピードを上げて行く。
不思議なもので、あの心臓の高鳴りはもうすっかりと収まっていた。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ・・・」
流石にきつかった…。
いつもの仕上げに待つ階段を登りきったところで、手すりに捕まって肩で息をする。
最近走ることがなくなっていたせいで、身体がなまりきっている。
たまには走らないとなぁ。
顔を上げると、そこにも見知った風景が広がっている。
久しぶりの神田明神だった。
「ん〜!スッキリ!」
さっきまでのモヤモヤはいづこへか。
心は晴れ晴れとしていた。
大きく伸びをして、違う意味で激しく胸を叩く心臓を沈めながら闇に目をこらす。
「ん?」
よく見ると、こちらに背を向けて掃き掃除をしている人がいる。巫女装束を身にまとった女の人。
濃い紫の髪の毛をツインテールにしている。
「って、まさか・・・?」
私の知る限りだけど、こんな時間に神田神社で掃き掃除をするツインテールの女の人は一人しかいない。
「希ちゃん!!?」
その人、μ'sの元メンバーであり、名付け親でもある、東條希はゆっくりと振り返った。
穂乃果の方を見るなり、パッと顔を明るくする。
「穂乃果ちゃんやない!久しぶり!」
本当に久しぶりだ。
穂乃果はあまりの嬉しさに、走って行ってそのまま希に飛びつこうとして・・・
避けられた。
「へぶっ!」
地面に見事なジャンピング土下座をかました穂乃果は、慌てて振り向く。
「ひ、ひどいよ希ちゃん!」
「あはは、ごめんなぁ。ただ、ちょっとびっくりしてもーて・・・。
そんなに急に飛びつかれたらびっくりするやん?」
「だからって避けるなんてひどいよっ!」
「相変わらず元気やなぁ、穂乃果ちゃん。」
にっこりと笑う希ちゃん。
その優しい声に応えるように、声をかける。
「ほんと久しぶりだね!元気にしてる?」
「うちは元気にやってるで。穂乃果ちゃんも元気そうやなぁ。」
その関西弁の優しい声は、ストンと胸に落ちてくる。久々の希の巫女姿からは、やっぱり昔と同じの、尋常じゃないほどいい匂いがした。
母性の塊とも呼べる彼女には、変わらない不思議な魅力があるのだ。
「うん、すっごい元気だよ!でも、なんで希ちゃんがここに?」
「うーんとな、まあ、ちょくちょくまだ神社の手伝いはしてるんよ。
でも、今日はな、カードが教えてくれたんや。」
「カード?」
希は懐からカードを取り出す。
いつも彼女が持っているタロットカードだった。
「うん、今日ここで手伝いしとったら、いい出会いがあるってな。正解、やったね。」
にっこりと笑う希に、穂乃果はドキッとしてしまった。当時もすごく大人っぽかったけど、更に大人になっている気がする。
豊かな女性の象徴もほんとに、それこそアイドル顔負けだろう。
有名な企業でOLをやっている、はずだ。
「ところで、穂乃果ちゃんこそ、どうしてこんなところへ?見た所、トレーニングみたいやけど?」
希は変わらない微笑みのまま、穂乃果に問いかける。
さっきの出来事を思い出した。
話して、みよっかな、と思った。
希になら話せる気がした。
「うん、実はね・・・」
穂乃果は、今日あったことを話した。
希は、時々頷きながら聞いていた。
何となく彼女には隠し事ができないのだ。
昔からそうだ。
いつも背中から、メンバーを見てくれているのが、希だった。
「なるほどねぇ。」
話し終わると、希は階段に腰を下ろした。
穂乃果も合わせて、その隣に腰を下ろす。
希は空をじっと見つめていた。
穂乃果もそれに倣って空を見る。
東京の夜空は星がそんなに見えない。
真っ暗な夜空に2、3個星が浮かんでるだけ。
そんな中で、ポツリと希はつぶやいた。
「アイドル、かぁ・・・。」
「どしたの?」
「私、後悔してないよ。μ'sがああやって解散したことに。私も穂乃果ちゃんと同じ考え。」
「そう、だよね…」
まあ、当然だ。ていうか、穂乃果だってそうなのだ。誰一人だって、納得していないわけじゃない。
でも、あの時自分が感じた、あの想いは何なんだろうか。
「でもね、思うこともある。あのまま続けていたとしたら、ってね。私も、なんでかはわからないんやけどなぁ。」
「・・・・・」
それでその話は終わった。それからは沢山話をした。今のお互いの仕事のこと。生活のこと。
メンバーと話すのは本当に久しぶり。
楽しい時間だった。
この、気持ちを除いては。
「今日はありがと!またね、希ちゃん!」
「じゃあね、穂乃果ちゃん。またいつでも連絡してきてね。」
手を振って、走り出す。
いつの間にか、戻っている。
決して走ったからじゃなかった。
耳元で鳴ってるみたいに、心臓の音が聞こえる。
(あのまま続けていたら、か・・・。)
そんな仮定に、意味なんて、あるのかな。
だって、μ’sは終わっちゃってる。
そんなこと考えたって、無駄だってわかる。
でも、もし。
もし、あのまま続けていたら・・・?
家に帰ると、そのままお風呂に入った。
汗を流しながらも、止まらない心音。
死ぬんじゃないかと思うくらい止まらないドキドキを押し殺すように、自分の部屋に入る。
ベットに仰向けに寝転がって、天井を見上げる。
どうしたらいいんだろう。
何が引っかかってるんだろう。
この気持ちはなんだろう。
間違ってなんかないはずで。
あの時活動を終えてしまったことに、後悔なんてなんもなくって。
そうもう何十回も思ってたはずなのに、何回思い出しても後悔なんかないくせに、頭と心臓が止まってくれなかった。
(あのまま続けていたら・・・か。)
そうだ、間違ってないのだ。だって、そんな仮定をしてみても、想像がつかないし、そっちの方が納得いかない。
やっぱりあそこで終わったから、大切な思い出のままでいてくれるのは間違いない。
そう、だから、間違ってなんか。
(この想いは、多分ただの懐かしさのはず、だよね。)
その時だった。
コンコン、という音。
ドアが叩かれた。
「お姉ちゃん、入っていい?」
妹の声だった。
「雪穂?いいよ、入ってー。」
部屋に入ってきたのは妹の雪穂。
今の雪穂は、正直、めちゃくちゃ可愛い。
なぜかって、当たり前だ。
だって、アイドルをやっているから。
(か、可愛すぎ・・・!)
高校生の時より身長も伸びて、もう私と変わらないくらいだし、何より変わったのはその声だ。
あの幼さが抜けて、大人っぽい上品な声になってる。これが芸能人かぁ・・・。
最近では人気も出てきて、テレビでも見かけることが多くなってきた。
姉としては勿論誇らしい。
雪穂は絵里ちゃんの妹の亜里沙ちゃんとスクールアイドルのユニットを作った。
大学でもアイドル活動を細々と続けて、大学卒業後に正式にとある事務所に所属した。
本人曰く、アイドルが楽しくてしょうがないらしい。姉の影響?って聞いてみたら、
『そ、そんなわけないじゃん!』
って言われた。
まあ、照れ隠しなのもわかってるけどね。
そんな私も、雪穂のとにかく笑った顔が可愛くって、テレビで見るたびに録画してしまう。
でも今日の雪穂は、そんな笑顔は何処へやら、何やら暗い顔をしていた。
「どうしたの、雪穂?」
「・・・あのさ、お姉ちゃん?なんで、衣装出てたの?」
「あっ・・・。」
穂乃果ははっとした。
そう言えば、出しっ放しにしていたのに、今は片付いている。
「あ、片付けてくれたの?ありがとね!いや、そんな深い意味は無いんだよ?ただ、懐かしいなーって見てただけで……」
雪穂は納得いかないというような顔でベッドの横にペタンと座る。
はぁ、とため息をついて、真剣な声で切り出した。
「・・・お姉ちゃん、今のままでいいの?」
「・・・え?」
「μ’sのこと。勿論、あの時のお姉ちゃんたちの選択は間違ってなかったと思うよ。μ'sのメンバー全員で話し合って、みんなが納得して決めたことだから。皆さんで決めたことが正解なんだもの。私もそれを否定する気はない。」
雪穂の言葉は、穂乃果の何かに触れようとしている。なのに、穂乃果は拒めない。
「でもさ。もう一つの選択肢を選んでたらどうなったんだろうって私時々考えちゃうの。」
自分は。
「私、聞いちゃった。
あの男の人に、お姉ちゃんが言われてたこと。」
一体。
「みんなに精一杯の楽しさとか喜びとかを伝えて、幸せを届けたμ'sは、今スクールアイドルからアイドルになったみんなの憧れなんだよ。」
何を。
「忘れた人なんて一人もいない。μ'sを見たから、ここにいるって人はたくさんいるんだよ。もしμ'sが続いていたら、きっとそういう、周りの人に夢とか、喜びとか、笑顔とか、いろんなものを与えられるアイドルに今もなってるだろうなぁって。」
考えているの…?
言葉が出なかった。あの時、みんなの期待に応え、存続する道も確かにあったのだ。
周囲のみんなはそれを望んでいた。
それでも、みんなは穂乃果たちの選択を受け入れてくれた。
憧れられている、というのは感じなかった。
自分たちの勝手で、申し訳ないとさえ思っていた。
「別に、お姉ちゃんたちがそれでいいなら構わないよ。だって、そうやって自分たちの道を突き進んでいくのが、私たちが好きになったμ'sだから。でもね。」
雪穂は、一息ついて言った。
「ほんとは、もう一回やってみたいんじゃないの?」
その夜は中々寝つけなかった。
(μ’s。)
高校生の時の、わたしの1番大切な言葉で、場所だ。
もし、今復活できるのなら。
(この気持ちが、そういうことなら、)
あの日常はもう戻ってこないかもしれない。
みんなにまた迷惑をかけることにもなる。リスクだらけだよね。
でも、それでも。
胸がとくん、と跳ねる。
(もう1回やってみたい、のかな。)
そう思ったら止まらなくなった。
あの景色が、忘れられなかった。
ラブライブの決勝で見たあの光景が。
歌を終えて、控え室に戻った後、アンコールをもらったあの光景が。
そして、あの、あの、あの美しい光が、忘れられなかった。
(・・・輝けるのかな。)
あの頃のμ'sはスクールアイドルとして、終わりを迎えた。それでいい。
(もう一回、輝けるのかな。)
今度は、新しいμ'sとして。かな。
だったら許されるかな。
みんなに笑顔を届ける、新しいアイドルグループとして。
(そんなワガママ、してもいいかな。)
どうしたらいいのかな。
また、声をかけて人は、ファンは集まるのだろうか。どこで練習するのか。ライブなんてできるのか。
具体的な方法はわからなかった。
確かなことが、たったひとつ。
常連さんと、希ちゃんと、大切な家族が作ったこの気持ちは、絶対に。
(私、やってみたい。)
素直な、その気持ちだった。
次の日。そんな新たな決意をしても店は待ってくれない。
それでも、また走り出してみたかった。
そんな気持ちは消えなかった。
いつものような何かが、穂乃果を突き動かしていた。
でも、どうしたらいいんだろう?
自分だけじゃ意味がない。
みんなは、どう思うんだろう?
どうしたら、もう一回アイドルになれるんだろう?
どうしたら、いいのかな。
「穂乃果!手が止まってるよ!」
「わわっ、ごめんなさい!」
「どうしたの、今日は。ボーッとしちゃって。
それ終わったら休んでいいから、ちゃっちゃとやっちゃいなさい。」
「は、はーい。」
とりあえず、今日は頑張ろう。
週末になれば、休みになるし。
それまでは、とにかく集中しなきゃ。
「いよっし!」
店も夕方になると、客足も減って来る。
手が空いたので、店の掃除でもしようかと穂乃果が思っていた時だった。
ドアが開いた。
「あ、いらっしゃいませ!」
「・・・どうも。」
「あ、こんにちは!」
篠原だった。
いつも通りの変わらない表情、変わらない口調で、思いっきり目をそらしながら穂乃果に挨拶する。
「・・・あの、この前はすみません。変なことを尋ねてしまって。」
「いえいえ、いいんですよ!むしろ、ありがと…」
ふと穂乃果は思った。
この人は芸能プロダクションの人だと言っていた。
ってことは、アイドルなんかとも関わりが?もしかして、この人に助けてもらえれば・・・?
そう思ったら、考えるより先に口が動いていた。
「あの、篠原さん、でしたよね?」
「はい?そうですが」
「私、もう一回アイドルやりたいんです!協力していただけませんか?」
「は?」
ーーーその時だった。
ふっと彼の目が穂乃果とあった。
今まで一度も合って来なかった目が、その時突然だった。
真っ黒な篠原の目と穂乃果の目がぶつかる。
それは不思議な感覚だった。
何か、吸い込まれるような。
何か、見透かされているような。
穂乃果はまるで催眠にかかったかのように、目を離せなかった。
魔力がこもっているかのような、ひどく強力な視線。瞬きもできない。
篠原もまた、何か驚いたような表情をみせて、それから目を離さなかった。
「・・・あっ、すいません!」
先に我に返ったのは、穂乃果だった。
「いえ。饅頭を。」
「はい!400円になります!」
穂乃果は急いで饅頭を箱に包んで渡す。
さっき合った目は、もう合わなくなっていた。
さっきのは、何だったんだろう、と穂乃果は思う。目があった瞬間に、吸い込まれるみたいな気分になった。
篠原は400円を穂乃果に渡す。
そして、一緒に、
「・・・何かあれば、連絡してください。」
そう言って、彼は名刺を置いて帰っていった。
「・・・あ、ありがとうございました!」
カウンターに置かれた名刺を目にする。
大きく書かれた「篠原浩介」の文字。
「や、やった・・・!」
穂乃果はガッツポーズしていた。
ともあれ、芸能プロダクションの人が、声をかけてくれたのだ。
胸がドキドキする。この気持ちを思い出した。ああ、高2の時の気持ちだ。忘れていた思いだ。
(私、やっぱり。やってみたいんだ。)
その夜、穂乃果はμ'sのメンバーたちに一本のメールを送信した。
結果がどうなるかはわからない。
でも、自分の精一杯は伝えたつもりだった。
ふう、とメールを送信して、ベッドに倒れこむ。
(・・・どうなるかな。)
そう思いながら、穂乃果は目を閉じる。
まるで高校生に戻ったような、心地よい眠りだった。
人生はやり直すことができない。
でも、もう1回やってみる、という選択肢だけは、やり直すのと同じように、私たちを走らせてくれる。
お疲れ様でした。
最後の一言は、何か読み手の心に残る言葉を、と思ってつけてるポエムです(厨二こじらせてる)
また見ていってくださるとありがたいです。