――唐突な話をしよう。
榊原吹雪がまだ幼かった頃、榊原吹雪は医者になりたかった。テレビで見る医者も、現実にいる医者も、沢山の人間を救うことができるからだ。
だから俺は医者になりたくて勉強して――でも途中で諦めた。だんだん難しくなっていく勉強に ついていけなくなったからだ。夢が終わるのなんてそんなもので、幼いからこそ簡単にそれを諦めることが出来た。
その次に俺はヒーローになりたかった。男の子なら誰だって憧れるであろう、正義の味方。日曜八時は俺の神聖な時間で、テレビの前でいつもポーズをしていた。こんな風にカッコよくなりたいって、医者になれなくても誰かを救えるようになりたいと――幼心に本気で思っていた。
誰かのヒーローになりたかった。
沢山の人を救う医者になれなくても、誰か一人だけでも救えるようなヒーローに。
◆ ◆ ◆
朝靄が肌に沁みる空、自転車を漕ぐ足に力がこもる。ぐるぐると車輪が廻り、がたがたと籠の中の新聞紙が揺れる。
いつもと同じ時間、いつもと同じ場所で、ポストに最後のそれを叩きこんで俺は一息ついた。
「今日の配達はおしまい、と」
ペダルから地面に足を置いて、ぐるり首を捻る。からから変に鳴る自転車を押しながら舗装された道を進んでいく。最後の家は坂の上にあった。言えというよりも同情かてらに近いものを感じさせる趣だ。
某県川神市。地名と同じ名を冠する寺のような道場を背中に背負って俺は坂を下っていく。
科学的な煙が肌を刺す中、一昔前のバラックを連想させるあばら家へと俺は足を踏み入れる。薄汚れたキッチンと八畳ほどの部屋とトイレと風呂――これが我が家の全容だ。ちゃぶ台ひとつ置いた部屋にはこんもりと人型の膨らみ。同居人はまだ夢の世界に居るらしい。
起こすのも悪いのでさっさと準備を進めよう。キッチンへと逆戻り、じじじと電子音の煩い冷蔵庫を開けてみれば卵がいつつ、封の空いた牛乳がひとつ、昨晩炊いたご飯を詰めたタッパーがひとつ、それとお隣さんから貰った寿司の残りが何貫か。実に生活感に溢れた――実に貧乏くさい中身である。
と、ふと虚無感に襲われてみるがいつもの事なので無視しよう。朝食は牛乳入れて膨らませたオムレツとご飯と寿司の残りにする。昨日はお隣さんのおかげでぜいたく出来たので、お礼――にしては数段格が落ちるが――お裾分けも考えねば。
顎に手をやり考えれば肌を刺すのは髭の感触。どうやら身だしなみを改めて整えるのが先決のようだ。洗面台の前に立てば目付きの悪い自分の顔が視界に収まった。相変わらず隈もしっかりと出来ており、見る人が見れば危うい系統の人間に見えるだろう――否定も出来ないが。
蛇口を捻れば出てくる冷たい水で顔をシメて気合を入れ直す。水錆でボロボロになった特価品の髭剃りを這わせれば普段通りのその姿。さて、大分日も昇ってきたし食事の準備をしよう。
フライパンと油が食欲をそそる音を立てる。そこで不意に、背後で蠢く気配を感じた。
ごそごそ、くかーという欠伸。
「おはよー、フブキ」
「おぅ、おはようだ小雪」
貧乏ながらも家族と暮らすこの家は、そんな挨拶と共に始まるのだ。
◆ ◆ ◆
「バイトがしたい」
切実な訴えに返ってきたのは冷めた眼だった。客観的に見ても同等以上に目つきの悪い視線を眼の前の男は外して携帯にその矛先を向ける。知ったことか、と言いたげだ。
「無視は酷いと思うんだが」
「俺はお前のバイト斡旋所じゃねぇんだよ」
至極真っ当な意見だった。特に言い返せる言葉を持っている訳ではないのだが、だからと言い返さない訳にはいかない。文字通り、死活問題なのだ。
「金が無いんだ」
「じゃあバイト探せ。俺に頼らず」
「あぁ、そういえばこの前紹介してもらった日雇い工事現場は良かった。実に充実した食生活を送れた」
「そうか、そりゃ良かったな」
「で、そこもひと段落ついたみたいだし、どこか良いとこないかね?」
「だから自分で探せと言っている」
ため息交じりの男の態度はとっつきづらくも見えるが、これがこの男の平常運転。なんだかんだと言いながら俺の愚痴を聞いてくれるのだから面倒見はいいのだ。事実、この男――源忠勝に頼ることは多い。
机が規則正しく並んだ教室の中、野郎二人が顔を突き合わせている間に白雪のような髪がなびいた。使っているシャンプーは同じはずなのだが、わしゃりと自分で髪を揺らした時には感じることのできない香りもただよってくるのだから女の事は不思議だ。
「じゃあ僕がバイトするー」
「お客さんが来たら?」
「良く来たわねぶたやろー」
「注文の時は?」
「とっとと決めなこののろまめ」
「商品を出したら?」
「いやしくむさぼるんだな」
「……お客さんが帰るときは?」
「二度と来るんじゃないようじむしめー!」
質問に対する回答は天真爛漫そのものの笑顔から、飛んできた言葉は一部の趣向の紳士だけの嗜みで。奇声上げながら教室を出ていった猿顔くらいの力量がないと受け止めきれないだろう。少なくとも俺は好みじゃない。
しかし言った本人はしっかり出来たのだとばかりな表情。情操教育が正しくなされていないんじゃないか、と疑いたくなる。もっとも姿形だけに目を配れば並の女子高生がハンカチを噛んで羨むほどに出るとこ出たスタイルだ。肌もまた髪に負けないくらいに白く、赤い眼がアンバランスながらもひどく愛らしい。
にこにこ小学生でも今どき見せない無邪気な様相、歯に衣着せぬ躊躇いのない言動、男子高校生生唾者の立ち姿。我が双子の妹である榊原小雪とはそんな矛盾に満ちた女なのだ。
「……一級品じゃねぇのか」
「そんなところにバイトに出せるか」
原因は解るだけに頭が痛くなる。大方お隣さんが冗談交じりに吹きこんだのだろう。蛇のような――もとい頼りになるお姉さんのからかう顔が脳裏に浮かぶ。
余裕のある懐具合じゃないが、一度普通の喫茶店に行くのも考えるべきなのかもな。
「それよりフブキ、かえろーよ」
小雪が俺の肩を揺らす。帰りのホームルームも終わり、周りを見渡せば各々の目的のために教室を出ている者が大半だ。
「そうするか。まあ色々聞いてくれて助かった」
「何かあれば紹介してやるよ」
やはり面倒見のいい級友の言葉を背中に俺は会釈する。高校くらいは出ておかねばと意気込んだものの中々厳しく、世間の親御さんがどれだけしっかり働いているのかというのを思い知らされる。
不満がある訳ではないが――何不自由なく学生生活を謳歌出来る彼らを見ると、そうかもしれなかった自分を想像してしまうのは悪い事なのだろうか。
川神学園。川神市のとある丘の上にある学び屋の敷地を抜けて、並んで帰るのはいつもの光景。それなりの年になってもふわふわ辺りを踊り始めた蝶を追う小雪の姿も変わりない。
両手を飛行機の翼のように広げ、八の字を描くように歩を進める。
多馬橋という名の鉄筋橋を抜ければ広い土手に着く。すったかたと斜面を駆け下りていく小雪の後に俺も続いた。
ズボンと靴の間、靴下の隙間を抜けてこそばゆい感覚。くるぶしの辺りに触れるのは青々とした名前も知らない草だ。肌寒さも太陽が掻き消してくれる季節はもう春。色々な作家に心躍ると表現させるだけあって、小雪もまたそんな感じなのだろう。
「フブキ、春だねー」
にへらと屈託のない笑みが眩しい。どうしても俺が笑うと嗤うと表現するべき雰囲気を醸し出してしまう。目付きが良いとは思っていないがそれがすべてだとは思っていないので、きっと隈が原因に違いない。寝不足というほどに寝不足なつもりもないが――体質なのだろう。
「春といえば何の季節?」
振り向いて尋ねてくる小雪に、
「恋の季節かな」
「ぶぶー。正解は発情の季節なのです」
生々しい表現が返ってきた。男として否定はできないが。
ふんすと胸を張ると、小雪はごそごそと鞄の中をあさり始めた。
「榊原小雪の紙芝居げきじょー」
「お前授業中また――」
「タイトルは素敵な私の恋人」
俺の言葉は何のその、こほんと咳払いをひとつ口を開いた。真面目に授業を聴いている態度を俺は小学生時代から見たことが無い。なのに成績は上位クラス。近頃の時世はなんのそのに実力主義を採用する川神学園で最上位であるSクラスに籍を置けるだけの実力を持っているのに小雪は俺と同じ最下位のFクラス。
もったいないと思う。理由は――とにかく小雪ならばどのクラスでも問題ないのだろうが、やっぱりもったいない気がする。
しかし兄妹なのにここまで学力に差が出るのは何故なのだろうか。多少でも分けていただきたいものだ。
「あるところにとっても美人な女の人が居ました。美人な女の人はモテモテです。なぜならおっぱいもおしりも大きいからです」
難しくなっている、と自覚できる視線を投げかけても小雪は気にした様子もない。
非常にデフォルメされた胸と尻の女の人――顔には美人と書いてある――が描かれた画用紙をめくりながら小雪は続ける。
「美人な女の人には幼馴染が居ました。どこにでもいる平凡な男の人でした。美人な女の人は美人なのでいろんな人に告白されます。変な人にも告白されます。ストーカーにだって合ってしまいました。そんな時に幼馴染の男の人は一生懸命になってと女の人を助けます。いっぱいいっぱい力になります。その結果、美人な女の人はイケメンでお金持ちのIT社長さんと結婚しました。めでたしめでたし」
「……現実は寂しいな」
紙芝居の中の男に同情した俺は悪くない。
覗き込むようにして小雪は俺の方を見ていた。しばらくそのままに、ルビーのような瞳が俺を貫いた後に小雪は踵を返して川の方に走っていった。
「あはははははっ」
からかうよな、楽しげながらもどこか冷めた笑い声を残して。
夜の街。親不孝通りと呼ばれる川神市の汚点の中で、『60分10000円ぽっきり』と胡散臭い文句の書かれた看板を持って声を張る。
「そこ行くお兄さん、うちの店は可愛い子がそろってますよ」
足を止めるのは極少数。だからといって止める訳にも行かず、不釣り合いな気もする黒スーツに身を包んだ俺は次なるターゲットを探して眼を光らせる。髪型はぴっちりなけなしの金で買ったワックスでオールバックに固めている。
時折りガンを付けるように睨み返されるが、もめ事を起こすとクビになるので華麗にスルー。小雪曰く眼元周りと合わさってヤの付く方々のようだと言われるが、そんな俺がなじむほどに通りの空気は淀んでいた。
辺りには女の人の顔写真を打ちだされた店舗がいくつも。多種多様なマッサージ店が多い地域なのだ。
「おや、今日も健気に働いてるねぇ」
時刻は子丑。どっぷりの闇の中に光る通りで、そう声をかけてきたのは高圧的な雰囲気の女だった。手には犬用リード。それが恰幅の良い男性の首元に伸びていた。
「お疲れ様です。お散歩ですか?」
「まぁねぇ。この駄犬がどうしてもって言うから引きずりまわしてやってんのさ」
頭には犬耳が付いていた。目隠しをされた男性には首輪も巻かれており、赤ん坊が付けるような前掛けをされ、尻からは尻尾が伸びていた。背中は夜風に吹かれて寒そうだ。
「これからですか?」
「いや、帰って来たところさ」
どかりと勢いをつけて女は男の背中に腰を下ろす。それに合わせて男はわんわんと鳴いてみせた。流石は店一番の女王様。躾が完璧だ――俺はされたいとは思わんが。
「アンタもあがりかい?」
「そうっすね。そろそろ帰らないと明日が辛いんで」
俺の言葉に女はけたけたとわらいだした。学園で級友の女子や、担任の女教師がみせるものと比べれば異質を感じさせる声で。
女は男性を蹴りつけてハウスと一言、俺の方へと歩みよってくると耳元でぼそりと呟いた。
「良い儲け話があるんだが――どうする?」
「では是非」
二つ返事で頷くと、女は口元を弧月に歪めた。酷く楽しそうな顔だと俺には感じ取れた。