強さとは何だろう――ふと考えることがある。
地上で一番の腕っ節を持っていること、潤沢な資金を持っていること、押しも押されぬ権力を持っていること、遍くものに影響されない精神力を持っていること。そんな人間は強い人間といえるのだろうか。
勿論、そのどれかでも持っていれば周りの人間からは強い人だと称賛されるだろう。
だがそれは強さといえるのだろうか。本当の意味で強い人は特異的な人間のことなのだろうか。
強さとは、そんな薄氷のようなものなのだろうか。
ゴールデンウィーク。珍しく丸一日休みを取って小雪と一緒に映画に行き、震える手を押しておしゃれなレストランに入り、広い公園で数倍と広い海を眺めた帰り道。
河川敷で汗を流す板垣一家を見つけたのは偶々だった。
先日の寿司のお礼に白ひげが特徴的なじいさんを看板にしたジャンクフード店でチキンをいくつか買い揃え、帰ってから悠々と扉を叩こうと思っていたのは事実だ。いやー運が良いと思ったのも本当のところ。
「あ、ふーくんにユキちゃんだ」
声を掛けてきたのは辰子。手には棒を手に持ち汗を流す亜巳さんや何故かゴルフクラブを持って駆け回る天使とは違い、いつもの眠そうな雰囲気のまま土手に寝転がったまま手を振ってきた。
「タっこちゃん、うえーぃ」
たかたか買ったばかりの服が汚れることも気にせず土手を駆け下りて辰子に飛び込んで行った小雪の後を、俺はゆっくりマイペースに着いてく。
近くまで寄ってようやくわかる。辰子の頬には泥が付着していた。恐らく辰子もまた二人と同じように汗を流していたのだろう。息が上がっていないところをみるとしっかり休憩していたようだが。
そこに、無頼な雰囲気を持つ男がいた。無精髭を生やした疲れた顔の――それ以上に女王様を生業としている亜巳さんとも、常々暴力の中に身を置いている竜兵とも違った眼を持つ男だ。
「あぁ? 誰だ」
「ウチらの家の隣に住んでるヤツだぜ師匠」
武術を習い始めて師匠ができたとは天使から聞いていたが、どうやら噂の師匠とはこの男らしい。猫背気味にこちらに近づいてきて――気づけば俺は男の肩に両手を差し出していた。
一瞬、驚いたような顔になった後で男はケタケタと嗤った。
「釈迦堂刑部だ、よろしくな兄ちゃん」
釈迦堂刑部とは一瞥すれば常人ではないと万人が思う男だった。我らが榊原兄妹のお隣さんに最近武術を教え始めた師匠とは、そんな抜き身の刀よりもずっと危ない雰囲気を持った男だったのだ。
――と、少し仰々しく考えてみるがだからどうしたという話。肩から手を離して姿勢を正す。
「榊原吹雪です、よろしくお願いします」
「僕は小雪だよ」
新聞屋の店主に隈さえ無ければ良い笑顔だね、と称される俺の声と親戚のおじさんにでも会ったかのような屈託のない小雪の声に、釈迦堂さんはおうと短く答えてくれた。
「ウメー!」
がつがつとチキンを口へ運ぶ天使の横で、いつものように眼もとを鋭くするメイクを施していない亜巳さんは少しばかりやさしい印象を与える顔で俺と小雪を交互に見比べた。
「なんだい、しっかり稼げているようで安心したよ」
「お陰さまで充実した生活を送らせてもらっています」
「僕もー! フブキはけちんぼじゃなくなったからマシュマロいっぱい食べれるよ」
小雪の差し出したマシュマロを受け取ると間を開けずに川の方へと投げて――と見せかけて、口に放り入れた亜巳さんは楽しげな笑みを浮かべていた。隣の釈迦堂さんは少し引き気味だったのは俺の気のせいではないだろう。
「はい、おじさんもあげるー」
「おっ、おう。てか亜巳のことは良いのか?」
「なにが?」
間髪いれず答えた小雪にぽかんとした表情を浮かべる釈迦堂さんだったが、すぐにくつくつ墨汁よりも黒い声で喉を鳴らした。いやはや、思っていたよりも良い人で安心した。親不孝通りのチンピラ崩れみたいに眼を合わせた途端襲ってくる輩だったらどうしようかとひやひやしていたのは俺だけの秘密。まぁその程度だったら亜巳さんや天使が師匠と仰ぐことはないか。
「それよりも兄ちゃん、お前さん素人か?」
「死んだ爺ちゃんから少し」
「そうか……どうだ、おっちゃんと一緒に世界でも目指してみねぇか?」
「バイトがあるので遠慮しときます」
俺の言葉を聞くとけたけたと笑い始めたので、とりあえず右肩と左の太股に手を置いた。
釈迦堂さんはやはり楽しそうだった。
◆ ◆ ◆
夏の日差しが肌を焼く。六月だというのに今年はひどく暑い。ウチにある年代物の扇風機で乗り越えられるだろうか、とふと不安な気持ちがむくむくと心の中で大きくなっていく――が、恐らく大丈夫だろう。寒いのならともかく暑いので死んだというのはこの日本では聞いたことはない。
しかし暑いものは暑い。木陰に横たわり手うちわで風を送る。汗で張り付く体操着が煩わしく感じる、今年の川神学園体育祭はそんな気候の中行われていた。
「あの、これ、良かったら飲んでください」
突然かもしれないがこの榊原吹雪、顔立ちはそれなりに整っていると自負している。何と言ったって一時期親不孝通りを歩けばいくらでもチンピラが寄ってきた小雪の双子の兄妹。最近めっきりとちょっかい掛けてくる人間は減ったが、小雪は身内フィルターを無くしたとしても掛け値なしの美少女。隈さえ無ければ俺もそれなりなのだ。
とも一年生だろうか、見たことない女生徒がくれたスポーツ飲料を手にお礼を言うと、彼女は頬を染めて去って行った。ふむ、やはり男としてあの反応は嬉しいな。四百メートル走を頑張ったかいがあったというもの。
「らん、らん、るー」
ステップを踏み後ろ向きにやってきた小雪は寝転がった俺の腹に尻を落とした。安産型のヒップは昨今絶滅したと言われるブルマに包まれ、健康的なエロスを感じさせる。そう考えると体育祭も捨てたもんじゃない。
「それ、さっきの子に貰ったの?」
「いいだろ」
「じゃあ僕が飲むー」
制止の言葉も振り切って俺の手からスポーツ飲料を取り上げると、ぐびぐびと一気に喉を鳴らして空にしてくれやがった小雪さん。俺の水分が――心がさめざめ雨を降らせていた。
ぐりんと腹の上で体勢を変えて俺の顔を見ると、小雪はうむーと唸ってからポンと手をうった。しかしこの体勢――膨らんだ胸に持ち上げられてへそも見えるし何とも言えないな。
「僕の名前は榊原小雪、川神学園に通うごく普通の女の子。強いて違うところを上げるとすればおしっこが漏れそうなとこかナ」
「トイレ行け」
「しゅつげきー」
たたたと立ち去っていく小雪を見送って瞼を閉じれば喧騒が聞こえる。年に一度の体育祭だから盛り上がるはずだ。
応援するか――そう意見が飛び出すがその主張を脳内会議で否決して俺は寝ることにした。今日も朝から新聞配達だったからな、授業もないし寝られるときに寝ておかねば。割のいいバイトがあるといえこうやって毎日の積み重ねが日々の生活につながっていくのだ。
微かな風が心地よい。扇風機で今年も乗り切れる気がしてきた。
「ム、お前は榊原兄。こんなところで何をしている?」
「……寝てる」
まどろみに沈められそうになっていた意識は凛とした声によってすくい上げられた。たなびく金色の髪は陽光を浴びていつも以上に艶を増している気がする。彼女はこの春からの転入生だ。
「クリスさん、何の用で」
「貴様も応援に参加しろ。自分たちのクラスメイトが懸命に闘っているのだからな」
「しかし、眠いので、俺は寝ることに――」
「そのような規律違反は自分は好かん。一丸となってこそ集団は力を発揮できるのだからな」
「ですが眠いので、眠く、寝ることにしようと寝よう」
頭が回らない。どうも支離滅裂になっている気がする。何より本当に眠くなってきたのだ。できれば邪魔されたくない。
「立てないならば自分が連れて行ってやる」
そう言ってつかつか寄ってくるクリスさん。本気で眠いんだがクリスさんは頭の先からつま先まで善意でやってくれてるみたいだし――なんとも面倒な状況だ。教室で寝れば良かった。
「トイレに行ってから」
「ならば自分も付いていこう」
反射的に出た嘘がばれたのか。欧州の軍人将校の娘さんだとは聞いていたがそんな教育でもされているのかと疑念が浮かぶ。単純に鋭いだけかもしれないけれど。
うーむ、どうにか監視をくぐって逃げだせないものか。
そうこうしている間にトイレに着いてしまった――ともかく一旦諦めよう。良い案が浮かばず思考を帰結に誘いだした頃、クリスさんは目付き鋭く一点を睨んでから窓を開けて叫んだ。
「誰か来てくれ! 人が倒れている!」
俯いていた視線を持ち上げれば確かに血を流して倒れる女生徒が一人。
「ふー、すっきりすっきり」
間の抜けた声と共に女子トイレから出てきた小雪と俺を置き去りに、クリスさんは女生徒の方へと走っていった。隣に立った小雪と視線が合う。
「教室で寝るか」
「僕は一向に構わんっ!」
◆ ◆ ◆
「榊原吹雪くんですね」
「どうも、はじめまして」
「ふふふっ、竜兵くんのいっていた通り面白そうな方だ」
「はぁ」
「その髪はどうされたのですか?」
「カツラですが」
「なるほど、危機管理能力もあるようで」
いつも物品が入った百円ロッカーの前。そこにあるはずのモノが無く首をかしげていた時、そう問いかけてきたのは端正な顔立ちの優男。アルカイックスマイルを顔面に張り付けたままに優しげな口調で続けた。
「貴方、ご自分のやっている事に罪悪感は?」
「楽して稼げるのなら使うのが当然だと思いますよ」
「ふふふ、ますます面白い方だ」
「もう良いですか。ちょっと仕事先に不手際があったみたいなんで電話で確認したいんですが」
「その必要はありません」
にこりと優男は微笑むと舞台俳優のように手を広げて、紳士たるべく洗礼された仕草で会釈した。
「改めて始めまして、僕がマロードです」
「榊原吹雪です。じゃあ俺は用事があるんで」
異国の人だろう。良く解らない単語を並べ立てられているこの状況はきっとピンチ。今は流暢な日本を使っているがいつ英語にとって代わられてもたまったものではない。三十六計逃げるに如かず、とやらだ。
脇を抜ける俺の肩にマロードさんの手が添えられる。
眼を付けられたのか。そんな失礼な態度を取ったつもりはないんだが――もしやお国の文化とか。うむ、まさしくピンチだ。
「失礼ですが竜兵くん含め板垣一家からなんかお話は聞いていませんか?」
「外国人の知り合いがいたとは初耳です」
「ふむ、どうやら情報が錯綜しているようですね」
マロードさんはこれみよがしに嘆息すると、
「では改めまして僕の名前は葵冬馬。マロードは……まあコードネームのようなもので、君が扱ってくれていた物品の総元締めですよ」
信用なりそうにない声色でそう告げた。音に合わせてどこに潜んでいたのかスキンヘッドの男も姿を現せる。小雪が見ればハゲだハゲと手を叩いて喜びそうなその男は、マロードではなく葵冬馬を守る戦士か騎士気取りで俺を警戒していた。
俺って危険人物扱いされるレベルなのか――考えるだけで悲しくなり、それを否定できない俺自身にもう一巻き悲しくなった。