私は、彼女の事を知っていた。
衛宮先輩が時折その名前を溢していたし。(羨ましかった)
兄さんが、話しているのも見たことがあった。(少し、珍しかった)
先輩が料理の話をするときに出て来るものだから気になっていて。(それが妬ましかった)
先輩とも話しているのを見た事があるけれど、仲が良さそうで。(胸が、苦しかった)
水谷先輩と話した事がなくても、気になっていたのだ。
でも、実際に接した水谷先輩はとても優しくて。(どう接していいのかわからなかった)
兄さんの妹として私に接しながらも、同時に普通の先輩のように気負わずに接してきて。(美綴先輩とは、少し違っていた)
この人は、衛宮先輩が言っていたように良い人だと、そう思った。(だけど、だから──)
間桐桜は、間桐に養子として引き取られた。
引き取られてからの間桐家での日々は辛く険しく、恐ろしくて、怖いことばかりだった。
だから。
「私、は……ただ、おじいさまに、言われて……」
間桐の家の中心であり、恐れの中心である間桐臓硯に、彼女は逆らえない。
もしかしたら出来るのかもしれないけれど、それでもそんな勇気は、持つことが出来ないでいた。それを諦めと、そう言うのかもしれない。
だから今日も、水谷響に孫である慎二と桜がここ数日世話になっているのだからという理由で話をしたいから連れてくるようにと。
そう言われてしまったから、従った。
祖父と呼ぶ人が、何をするつもりなのかも、何を考えてるかもわからなくても。
「それが理由になると、思っている、と──」
本気で言っているのかと、静かながらも鋭い怒気が向けられる。
その間に入ったライダーは、桜を隠すように立ちながらかくりと首を傾げた。
「……では貴女は、どうしてシンジの監視を続けたのですか」
「それが主の命令だったからに過ぎません、ライダー。……マトウサクラ、我が主がどう扱われるか……貴方には予想できていたのではないか。あのようなおぞましい蟲が望む事など、私には理解できませんが」
アサシンの脳裏に浮かぶのは、先程見た光景だ。
響に集る蟲の、山のごとき群れ。
瞬き程の間に垣間見た過去から窺えた何かの願い。
それが何かを願ったのだろうという、推測を。
しかし目の前の少女がそれを知っているとは思ってはいない。
だからこれは、ただの八つ当たりなのだと、苛立つ心に冷や水を浴びせる。
言ったところで、主の下には行けないのだから。
「そんな……そんなの、……私には、私にだって、わかりません……! でも、水谷先輩は、迷わずにこの部屋に入って……私は、何も言ってないのに……ほんと、は……違うのに……!」
大きく体を震わせながら首を振って、強く拳を握りしめる。
胸のざわめきが止まらなくて、大きくなって、苦しくて、恐ろしい。
目の前の
どうしてだろうと、桜は思う。
昼食作りを手伝って、祖父が話してみたがっているという事を伝えただけ。
けれど響は何ら疑う事もなく構わないと頷いて、そうして家の奥にある祖父の形をしたものがいる部屋に案内しようとした。
そして、地下室の扉を見ただけで「ああ、此方の場所ですね?」と自分は何も言っていないというのに。なのに、迷わずその扉を開けてしまったのだ。
間桐の
『ではおじいさんとお話してきますので、間桐さんは戻っていて大丈夫ですよ』
それから、ここ数日の間に見慣れた綺麗な微笑みを向けてその中へと入って行った。
止めた方がいいとはわかっていた。
止めようと、手をあげかけていた。
だけど、どうして。
どうして水谷先輩は迷いがないのか。
どうして私は何も言えないのか。
「──あのようなおぞましく醜悪なものに殺されるのだと、わかっていたのではないですか?」
「それは、そん、な……あ、……え……? み、水谷、せんぱ、……先輩、を……? そんな……わた、し……ちが……っ!」
ああ、どうして。
私はそんなつもりではなかった。
おじいさまが殺すつもりだなんて、思ってなかった。聞いてなかった。知らなかった!
どうして、なのに、先輩は。
水谷先輩は、殺されてしまったの?
私が、悪かったの?
いや、でも、違う。
私は何も、していない。
殺してなんて、殺そうとしたなんて。
……本当に?
違う、違うと首を振って、桜は胸元に作った拳をぎゅっと握りしめて踞る。
心臓が、いやに煩い音を立てていた。
何かが暴れるような痛みさえ伴う鼓動に、身体中全てが悲鳴を上げて軋む。
痛い、と口に出来ないほど息を詰めて、彼女はなおも首を振った。
「アサシン。これ以上サクラを責めるのなら……私は、容赦しない」
「……間接的であれ、主が殺されかけたのを許せるとでも?」
「…………」
「…………」
ゆらりと二騎の間に敵意が揺らめく。
先程以上の張りつめた空気が、廊下の温度を下げていくようだった。
互いに僅かでも動けばどちらともなく開戦の合図にしただろう。
だが、しかし。
そうはならなかった。
「うぅ?! くっ、ぃ、あぁぁあ……!」
緊迫を裂く細い悲鳴に、何かが倒れる音。
それが桜のものだと気づくのに数秒と必要ない。
「サクラ……!?」
「……響様……?」
ただ、どちらも呼ばう名前は違っていた。
当然ながらそこには桜とライダー以外の姿はない。
だがアサシンには、馴染みのある気配を彼女から感じていた。
ほんの小さな、残り香にも似た微かな気配を。
「……っは、……ッ、ぁ、あ……!」
それが桜と重なるように、感じる気がする。
仮面の下でじっと目を眇めたアサシンから桜を隠すように長い髪がなびく。
ライダーはじっとりと疑うような、睨めつけるような気配を滲ませながら一歩進み出た。
「……ヒビキとサクラに、何の関係が?」
何をされているのだ、と問うその言葉に沈黙が返る。
しかしそれは答えないのではなく、答えがわからないのだろうと、思い直す。
それを証拠に、引き結ばれていたはずの唇が微かに呼気を溢している。
実際、ハサンにはわかりようがなかった。
召喚されて契約し共に過ごしても、その生涯を知っているとしても、決してわからない。
だが、そうだ。
水谷響という存在は願われたものを与えるという在り方を持つ。
──ハサンはそんな主に普通の、普遍的で、凡庸な、けれど誰よりも幸せな人間の生を歩んでほしいと。
そう、密やかな願いを抱いている。
故にこそ、苦悶の声を上げながら、けれどそれ以上に激しい痛みを覚えていない桜の姿に、少しだけわかることが見えた。
「サクラの願いを、知ったのかもしれません。……それが何かは知りませんが。でも、響様は……きっと、ご自分に出来るから、何かをされている」
「──……」
「疑うなら疑えばいい、ライダー。けれど、サクラが苦しんではいるが、死にかけてはいない。その事実だけは、確かな事です」
その言葉は推測の域を越えてはいない。
ライダーは黙考しながらも、少しだけ敵意を薄れさせた。
完全にアサシンの言葉を信じてはいないのだが。
それでも、直に触れた響という人を、彼女は嫌ってはいなかった。
とても好ましいとは言えないけれど、それでも、と。
そうしてたわんだ敵意と空気の中──ギギギィィィと扉の開く音が大きく、大きく響き渡った。
ハッと扉を見たのは、ハサンが先だった。
主の名を呼ばう声は無意識なのか余裕など薄く、何かを急くような焦りが見てとれる。
そんな声を向けられた当人はと言えば。
何かあっただろうか、と言わんばかりのきょとりと不思議そうな顔をするばかりだ。
「響、様……、お怪我は、ありませんか? どこか、悪いところは」
「ああ。いえ、大丈夫ですよ。心配してくれてありがとう、アサシン」
直ぐに距離を詰めて主の不調がないか、変わったところはないかと確かめるように触れるハサンに、笑みが返る。
くすくすとくすぐったいと笑うような声音には、常とは変わらないものがある。
だが、先程までの事を思い返せば不安が消え去ることはない。
「……ヒビキ」
何を問うべきか迷うアサシンに気づいたのか否か。
彼女とは反対に、ライダーは静かながらも力強い声で響を呼んだ。
「はい」と直ぐに返される眼差しは、敵意のひとつも見えない。
「貴女はサクラに、何をした?」
しかしそれで引くような事はない。
逃れず答えるようにといわんばかりに視線を絡み付かせながら問いかける。
刺すような冷たい声は嘘はつくなと含めているのか。
そうして返された言葉は、その様子は、はたして。
「そう、ですね……簡単に言えば、臓器の移植……ですか。有るべきものを、有るべき形に。本来無いものを、無かったように繋げる。──私が彼女に出来るのは、それだけですから」
ふと考えるような短い思案の後に苦笑するように眉尻を下げて、そう答えたのだった。
そんな彼女を暫し見つめ、ライダーはそっと肩で息を吐く。
あくまでも善意しかなさそうな様子に、僅かに毒気が抜かれた。……警戒を無くしはしないが。
だからこそ、何も手にしていないと両手を上げてから近づいてきた響に、否やは唱えなかった。
桜に触れようと膝をついて手を伸ばすのは、しっかりと見張っているが。
「間桐さん、痛みは酷いですか?」
「み、ず……たに、せ……ん……ぱ……」
すっと前髪を横に払いその頬に手を添えて少し上に向けられ、やっと桜の顔色が露になる。
見るほどに血の気が失せたように蒼白で、疲労の色が強い。
呼吸は浅く乱れて、絞り出されたようなか細い声は近くにいなければしっかりとは聞き取れなかったことだろう。
サーヴァントたるライダーとアサシンには特別耳が悪いという逸話もないため、聞き取れてはいるが。それはともかく。
「はい。大丈夫、大丈夫ですよ。だから落ち着いて、しっかり呼吸をしましょう。私の声に合わせて、息をして下さいね」
介抱を始めた響と、それを大人しく受け入れる桜という図に二騎は深く沈黙を守った。
邪魔をしては回復の妨げになるだろうという判断である。
ライダーはもう少し違う考えもあったようだが、現状を問題ないと見たようだ。
「せんぱい……水谷、先輩……?」
「はい、私はこの通りです。ふふ、大丈夫と。そう言った通りになったでしょう?」
「ぁ……、……」
呆然と目を見張るその瞳に、穏やかなしかし茶目のある笑みが映る。
ゆらゆらと虚空を漂っていた視線がしっかりとそれを捉え、触れられた熱が生きていると伝え。
じとりと、確かな実感が胸の内へと芽生えていく。
喘ぐような声で「水谷先輩」ともう一度呼べば、変わりない、でも一層優しく見える微笑みが返された。
「いきて……生きて、た……わた、……し、違う、違うん、です……! 私、……私はっ」
「うん……うん。いいんですよ、間桐さん。私が勝手に判断した事ですから。むしろ、私の方が、ごめんなさい。痛くするつもりもなかったのですが、結果的に苦しませてしまったようで」
浅ましく、身勝手な事を思っていると、言っていると自覚していた。
本当は妬ましくて、羨ましかった人。
でも殺したいと、死んでほしいと、思ってなんていなかった。
あんな
──ここから助けてくれる人が、いて欲しかったのに。
そう、小さな子供のような言葉が、どこからともなく首をもたげて心の中で響く。
水谷響という人は、姉だった人とも、衛宮先輩とも全然違うけれど。
彼女なら、と勝手な想像をしてしまっていた。
兄はこの数日の内に変わっていたから、もしかしたらと。そう、思わずにはいられなかったから。
──水谷先輩にも、私と同じ苦しみを味わってほしいと思った。(だって、ずるい!)
優しくて心根が強い人だと思えたから、わかってほしかった。(この人は私の欲しいものを持っている)
でも決して、心の底から死を望んでなんてなかった。(だから私、水谷先輩が)
本当に、ただ少し、わかってほしかっただけ。(本当は嫌い)
だから私はおじいさまの口実をそのまま伝えた。(だけど、心の底から嫌いには、なりきれなかった)
それだけ、だった。(この人だって、きっと私を嫌いになる)
それだけだったのに。(どうして──)