その①
明石は夢を見た。
目の続く限り広がっている群青色の世界が、ゆらゆらと揺れている。そのゆらゆらと揺れている世界に一人、明石はポツンと突っ立っていた。
右を見て、左を見て、後ろを見て、前を見て、まったく変わらない景色。一体ここがどこなのか皆目見当がつかない。
高みを仰げば、こちらもどこまで続くのやら青模様。明石と同じようにポツンと太陽が見える。邪魔な雲がいないうちにと一層働いているようだった。
(ここからどうすれば良いの? 取りあえず、進んでみよう)
彼女は海の上を真っ直ぐ進んで行く。あてはまったくないのだけれど、ここでじっとしているよりは生産的だと前へ前へ。どこに辿り着くのだろうか、それともどこにも辿り着かないのか。そんなことは考えないでひたすら進む。
すると、目を凝らせばようやく視界に捉えることが出来るような距離に、人影が見えた。後姿と海の上に生身でいることから、自分と同じ艦娘だと明石は判断する。しかし誰かまでは判別がつかない。
(誰かは知らないけど、追いついて話し掛けてみよう)
そう思いながら少し速度を上げる。徐々に徐々に近づいていくと、次第にはっきり見えるようになり、その正体も分かった。
白の混じった肌色の髪を結び、後ろに垂らしている。身長はそこまで大きくはなくどちらかと言えば小柄、腰に刀を差していた。
明石は歓喜した。こんな特徴的な艦娘は一人しかいない。
(夕立だ!)
どうしてこんな所にいるのか分からないが、会えて良かった。明石はさらに速度を上げて追いつこうとする。しかし妙なことに明石は気付いた。どうしたものだろうか、一向に距離が縮まらないのである。夕立は立ち止まっていたが、心なしか逆に距離が遠のいているようだった。
「夕立! 夕立! おーい!」
聞こえていないのか夕立はうんともすんとも反応しない。それでも諦めじと追いかけ声を掛け続ける。
俄かに世界が変わった。
群青色の海は漆黒に染められ、晴れ渡っていた空にはどんよりとした灰色の雲が現れ、陰鬱とした景色が広がっている。そして明石と夕立だけであった世界には、他にも無数の艦娘たちと黒々とした影が。
「えっ? これって、何?」
困惑する明石。とにかくこのままでは拙いと足を進めようとするが、何故か動かない。さっきまで大丈夫だったのに、その場に固定されてしまっているようだ。また足だけでなく、腕などももの凄い力で抑えつけられている様に動かない。
仕方がないので唯一動く顔を動かしていると、無数の艦娘が鎮守府の仲間たちだったことに気付く。北上や響、長良に武蔵までもいた。彼女たちは今、一様に闘争心を露わにしている。
(皆までいる。本当何なの、何が起こっているの……)
と思っていたら、途端にハッとなった。
これって深海棲艦と戦ってるんだ!
今更ながらに黒い影が深海棲艦と分かり、この状況を完璧に理解した。戦いが始まると、戦闘機や爆撃機が空を飛び、巨大な爆発が轟音と共に起こり、水柱があちらこちらに乱立する。
加勢しなくてはと意気込むが、よく見てみれば自分は何も装備していないし、何よりも顔以外が動かない。見物しているしかないと気を落としていると、再び世界が変わった。
変わったと言っても漆黒の海や、灰色の空に変化はなく、変わったのは艦娘たちが見ていられないほどにぼろぼろになっていることと、顔に浮かんでいた闘争心が悲壮感になっていることだった。
「どうして?」
動揺を隠しきれない明石に答えを教えてくれる者はいなかった。
その時、夕立の声が明石に届く。その声はまるで頭の中に直接語り掛けてくるように、はっきりと聞こえた。
「……作戦は失敗だ。これより、撤退を開始する」
切迫した呼気と一緒に吐き出された言葉は震えていた。
「……済まない。よもやこのような結果に終わるとは、無念の極みだ。出来うることならばこのまま斬り死にしたいところだが、そのようなことは許されんのだろうな……さて、撤退だ。一人でも多く鎮守府へと帰るぞ。散って行った者たちの戦いぶりを閣下と――後の世に伝えるために」
それからの光景を、明石は茫然自失として眺めていた。
ぼろぼろの艦娘たちに襲い掛かる深海棲艦の群れ。負けじと立ち向かう艦娘たち。最初に長良が倒れ、続いて北上が沈み、武蔵が力尽き、響が夕立を庇って散った。
そして、
「うぐっ、ぬぅうう、はあ、はあ、うおおああああ!」
最後に残った夕立も――明石はここで我を取り戻すと叫ぼうとした。夕立、止めて、この二つの言葉を絶叫しようとしたが声が出ない。ならばと動かない手を夕立に向かって伸ばそうとして――がっしりとその手を掴まれた。
「どうしたの。どうしたの。起きて、明石……」
耳元から聞こえて来る声。聞き慣れたその声で、明石は目を覚ました。
「気がついたんだ、良かった。本当にどうしたの、何か魘されてたみたいだけど。怖い夢でも見たの?」
夕張であった。彼女は心配そうに明石の顔を覗き込んでいて、その両手には明石の手が包み込まれている。
明石はホッと安堵の息を吐いて、額にべっとりと貼り付いている髪の毛を払った。周りを見ると、そこはいつもと変わらない明石と夕張の部屋である。
(嫌な夢だったなあ)
縁起でもない不吉な夢だ。あれが現実であったらと思うとぎょっとする。砲塔を胸元に突きつけられたように心臓がドクンドクンと鼓動を速めている。髪が震え、肩が震え、顔は真っ青になっているだろう。
覚えず、低い声で夕張に答えた。
「大丈夫。確かに嫌な夢だったけど、所詮、夢だから」
口ではそう言ったが、心ではやはり割り切れないものがあった。明石は悲観的な己の心を落ち着けるため、幾度が深い呼吸をした。やがて夕張に謝罪をしてから、目を閉じる。眠りにつくことは出来たが、不安は明石の心にこびりついて離れなかった。
★ ★ ★
ついにその時がやって来た。岩峰は鎮守府内の全艦娘を自分の下へ呼び出すと、ソロモンの海を奪還することを正式に宣言し、出撃することを命じた。これは夕立と明石の心が繋がってから三日後のことである。
艦隊を編成するにあたって、一艦隊につき六人と定められ、全部で六艦隊となった。この中には言うまでもなく、夕立・響・武蔵が入り、さらには長良と北上も加わって、総数三十六を数える。
留守居役には明石・夕張、自ら志願して加賀などもここに入った。
「……夕立」
出撃間際、夕立は明石に呼び止められた。弱々しい、女の優しい声音である。夕立が明石の顔を見ると、微笑の中に不安が渦巻いているのがよく分かった。いざ、出撃の時が来たとあって、自分が無事に帰って来るか心配になったのだろうと夕立は思った。
可憐でいじらしく、愛おしさが胸に迫って来る。それと同時に、あれほど申し付けたと言うのにまだ信じてくれないのかという悲しみと、眉を顰めたい気にもさせられた。
いい加減女々しい奴と心のどこかで思わないでもいられなかったが、何よりも愛おしさが勝って何とも言えるものではなかった。
「どうかしたのか?」
無遠慮なつもりが、自分でも驚くほどに柔らかな声で夕立は訊ねた。
明石は何も答えない。これではどうしようもなかった。夕立は言う。
「私はもう行くぞ。深海棲艦どもを悉く討ち果たし、直ぐにも帰って来るから、安心して待っているのだぞ」
そのまま立ち去ろうとすると、腕を掴まれて止められた。このまま泣き出すのでないかと言うほど、明石の瞳は揺れている。
夕立は息を呑んで嘆息もした。分からない。明石は一体どうしたのか、何を求めているのか分からない。ただ、何となく哀れであった。
このままではいつまで経っても離してくれなさそうなので、仕方がないと、明石の頬をそっと撫で下ろした。明石は羞恥で顔を背けた。
「お前がどうしたのか私には分からないが、大丈夫、大丈夫だ。あの時私が言った言葉は決して嘘ではない。もう一度言うぞ、私は死なない。私は嘘が嫌いだ。だから、言ったことは一度もないのだ。安心して、この手を離せ」
明石は夕立の手を離した。
「よし、納得したな。聞き分けたな。私を信じていろ。お前が惚れた女だ」
今度は止めずに、明石は夕立を見送った。